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2015年1月25日 - 2015年1月31日

2015/01/27

船に乗りたい、船に乗せよう

Dsc01026s
雪に埋もれて、除雪がされないので
車一台やっとの道になっています。

撮るものがないので、こんな写真ばかりね。

さて、そんなことより

「船経」の次の偈に行きたい。

=====『スッタニパータ』

317 かしこい者が、注意深く、これを(自分の)目的となして、
法にしたがって法を実践していきながら、
このような人に親しんで怠ることがないならば、
智慧のある(viññū) 、
分別のある(vibhāvin)、
卓越した者(nipuṇa)となる。

========

じっくり、味わってみましょう。

君は、「かしこい者」だ。

かしこい者なら、316の偈を聞いた後
どうするだろうか。

え、316って、なんだっけ、だって?
もう。。

これ ↓
==316 
人が、誰かから法を聞いて知るならば、
神(devatā)がインドラ神を敬うように、
その人を敬うべきである。
博学(多聞)のその人は、
敬われると、
きよらかな心をもって法を顕わにする。
====

さあ、顕わになったよ、法が。
そこで、かしこい君は、
このようにするだろう。

注意深く
その法を聞いたら、
そのとおりにしてみよう、
法の説くとおりになるかどうか
自分でもやってみようとするはずだ。


だから、
===
注意深く、
これを(自分の)目的となして、
法にしたがって法を実践していきながら、
===
と書いてある。

「目的(attha)」ということばは、
「意味」「対象」「利益」などいろいろな意味がある。

どれでも、いいかもしれないけど、
「目的」を選んでみました。


法にしたがって法を実践するのは、
法を知る大事な方法だ。

「知ることは、そのように成ること」
という
それが、インドの伝統的な「知り方」なのだ。

そして、
このような方法で知りながら、

「このような人に親しんで怠ることがないならば」

君は、

智慧のある(viññū) 、
( 「行」 を開発するのだ)

分別のある(vibhāvin)、
( 「識」 を磨くのだ)

卓越した者(nipuṇa)となる。
(巧みなものとなる)


      ◇◇◇ 


ふーむ、

そのまま読むと、取り立てて大乗の雰囲気は
まだしてこないのだけど、

こういう風に説かれる、ということが、
何か、危機感みたいなものとも
つながるような気がする。

ブッダが、いないとき、
どうやって、修行をしていったらよいのか

という危機感。

そんな心配を
払拭してくれる
経典のような気がするね。


智慧があり、分別のある、卓越した者


これは、あらゆることにおいて
求められる理想の姿だ
現代のヒーローでもある。


この経典が、大乗っぽさをもつのは、

「ブッダはもういない」
という危機感をもって
読むかどうかに

かかっているとも言えそうだな。
Dsc01029s
お、仕事だわ。
朝飯前の、日記だから、
中身に乏しいわ。


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2015/01/25

『スッタニパータ』「船経」 き、きみは、大乗!

Dsc01025s
今年は、岩見沢は、ずいぶん雪が少ない。
駅前の広場が、”雪捨て場化”していません。


        ◇◇◇


以前から、『スッタニパータ』の正体について、
あれこれ検討してきましたが、
だんだん見えてまいりました。

「小部(クッダカ・ニカーヤ)」の中に入っている経典で、
たいへんに古いものだろうと言われています。

ブッダの直説もあるのでは?
などと言われてもきました。

なかなか難しい経典なのです。

でも、ずいぶん、見えてきた感があります。


古い経典というのも、はずれているわけではないかもしれない。

でも、

ブッダの教えの中で、ただ古い層に属する、とばかりも言えない。

これは、古い・新しいという年代的なことが
大事なのではなく、

この経典の、内容が、他の経典類とは異なっている、
ということが大事なのだと思う。


この経典の中には、

みずからの悟りを目的とする
比丘の人たちが、それほど重きをおかないものも、
含まれている。

ここが、この経典の大きな特徴で、
それ故、とくに重要なのだと思う。


何を言いたいかと言いますと!

『スッタニパータ』は
 大乗への門
なのだ


龍樹が、非常に重視した経典であり、
その随所に、龍樹の語りへと通ずるものが
ひそんでいる。


そういう意味で、
『スッタニパータ』は、サンガの比丘たちには、
それほどの強烈なインパクトはなかったように思う。

もちろん、重視はされているけど、
他の四つのニカーヤほどの
熱心さではないような気がします。


       ◇◇◇

読めば読むほど、大乗が見えてくるんだけど、

特に、この「船経」という経典。

彼岸に人々を渡す菩薩の道が説かれる経典です。

http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/nava.htmlhttp://homepage1.nifty.com/manikana/canon/nava.html
「心にしみる原始仏典」「船経」


ちょっと、やってみますよ。見てて。
もちろん、全体をじっくり読んでみて、
こういう結論に達したので、すぐに、
大乗が見えるわけではありません。

「船経」の一番目は、316という番号の詩です。
========

316 人が、誰かから法を聞いて知るならば、
神がインドラ神を敬うように、その人を敬うべきである。
博学(多聞)のその人は、敬われると、
きよらかな心をもって法を顕わにする。

========

これは、ただ読むと、ただ読めてしまって、
何も、感じないかもしれない。

でも、この「船経」全体をよく読んでから
考えると

これは、
菩薩が、菩薩を導く方法を説いていることが
わかります。


最初の 「人は」 とあるのは、 新米の菩薩
「博学(多聞)の人」とあるのは、べテラン菩薩

多聞の人は、別に、悟りを開いた人、とは書いていません。
いろいろ法を聞いてよく知っている人です。

その人から教わるなら、聞いた人は

神(デーヴァター)が、インドラ神を敬うように

敬うべきだと、あります。

この「神」というのが、デーヴァターと言われているのが、ミソです。
デーヴァターと、「ター」がつくと、抽象名詞化されるので、
具体的に「神」と言われるというより
「神的な傾向をもつ者」であれば、
どんなものでも入るような感じです。

たとえば、ヤクシャ(夜叉)のような鬼のようなものも
含まれます。
要するに、神の部類に分類されれば、多少、
レベルが落ちても、よい、という感じです。

ですから、この「神」は、
インドラ神のような有名で立派な名のある神
とはちがうのです。

そんな新米神さまみたいな者まで含めての「神」が、デーヴァターです。

法をよく知っている多聞の人は、インドラ神に喩えられます。
インドラ神は、神さまの中では
圧倒的に知名度が高く
法にも優れていることが知られます。

ですから、新米の神さまにあたる
ふつうの人が、
教えをさずけてくれる多聞の人を、
インドラ神のように
敬うべし、

っと、教えるのです。

悟っている・悟っていないは関係ない。
法を多く知っている者が、
法をよく知らない人に教えるのが
学習の基本のスタイルです。

先輩に教わる新入部員
って感じかな。

でも、これって、大事だよね。
先輩も教えることで、勉強になるし、
後輩は、憧れつつ、
尊敬する先輩の身近で
教えてもらえるんだもん!

こうして、敬われると
多聞の人は、自然と気分が良くなって
どんどん教えてくれる、法を顕わにしてくれる
というわけなのです。

後々、多くの名もない菩薩が

観音菩薩のような名のある菩薩に

教えられて、彼岸へと

進んでいくようなものです。
Dsc01024s

     ◇◇◇


どうでしょう。
比丘たちの法の教え方とは、ちがうでしょう?

いや、同じかな?
でも、どこか雰囲気ちがいますよね。
阿羅漢だの一来果だのという、レベルは、
何もありません。
「多聞」というのが、ちょっと決め手です。

こんな風に

あの手、この手で、法を知っていくやり方を
ブッダは、丁寧に説いているんだなあ。

今日は、ここまでにしよう。
まあ、日記だもんね。
他の詩は、また、別の日に検討しよう。
Dsc01030s

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