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2015年11月1日 - 2015年11月7日

2015/11/01

(続)ヨーガは一つである、のか?

Dsc01805s

一昨日、『ヨーガの樹』のご紹介をしたのですが、

自分で読んでみても
すっきりしてませんね。

アイアンガー氏の 

「ヨーガは一つである」 というメッセージに

賛成しているのか、反対しているのか
よく分かりませんね。


        ◇◇◇


話せば長くなりそうな予感。。


実際のところ、アイアンガー氏が、
本の冒頭で

「ヨーガは一つである」

と、タイトルをかかげて

『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』に説かれていることと
『ヨーガ・スートラ』に説かれていることは

どちらも心と魂の合一を説くから
同じなのだ

としたとき、ずいぶん疑問に思ったものでした。


『ヨーガ・スートラ』は、サーンキヤによっているから、
心と魂の合一ではないだろう、と思ったのです。


しかし、アイアンガー氏はヨーギンなので、
嘘はつかないのです。


この謎をすっきり解決するためには、ずいぶんかかりました。
絶筆となった

Core  of the Yogasutras (2014年出版)

で、サーンキヤの思想も取り込みながら、
頂点に神をおいた27の原理を見て、ようやく納得しました。

シュリーヴァイシュナヴァ派だったんだ、と分かったからです。
ヴィシュヌ神へのバクティ思想も、そこに入ってくるのだ、と思ったら、

なるほど、 ヨーガは一つなはずだ、と納得したのです。
簡単に言えば、サーンキヤは、途中に挿入される段階なのです。


彼が本当に意図していたのは、
ヴィシュヌを頂点とするバクティ・ヨーガを
ラージャ・ヨーガの中に位置づけることだったのではないか

と、ちょっと思っています。(確実ではないですが)


        ◇◇◇


ここで、アイアンガー氏の述べている

「ヨーガは一つである」の意味には納得したのですが、


しかし、


インド思想がもつヨーガというのは、
淵源はインダス文明に遡るとしても、

ヨーガを解脱への行法として確立した
影の功労者は
ブッダではないだろうか、と思うのです。

『ヨーガ・スートラ』は、仏教の影響が色濃く、
第二章は見え見えですが、
第一章でも、ブッダの説く四禅に倣っているように思います。
仏教の瑜伽行学派に対立するため
批判的に仏教を吸収しています。

サーンキヤ思想も、仏教を批判的に取り入れていて
その影響は明らかです。


ただ、仏教と明らかにちがうところがあります。

ヒンドゥー教系の思想では、基本的な考え方は
これだと思います。

=======
心と自己と身体、これら三つは三本の棒のようである。
世界は(これらの)結合によって存立している。
そこにはあらゆるものが確立されている。
======
(『チャラカ・サンヒター』1.1.46)


心と身体、それに自己(アートマン)

この三本の柱の上に世界が成りたっている、と考える。

だから、ヨーガ・冥想によって、
世界を知ることができるのです。

この三本柱はヒンドゥー教諸派では変わらないので、

「ヨーガは一つである」

が、なり立つことになります。

神の名がどんなにちがっても、
それは、アートマンに還元されるので問題はないのです。
そして、インド以外の西洋的な思想でも、大半
これが応用できます。


しかし、仏教はちがう。

ブッダは、「赤い馬」という神の子に、
いくら歩いても、世界の果てにはいけない、と教えました。

=====
歩いていっても、いつになっても、
世界の果てには到達することはない。
世界の果てに到達しないで、
苦しみから解放されることはない。
=======

また、ブッダは、こうも言ったのです。

=======
「友よ、わたしは、世界の果てに到達しないで、
苦しみの終極にいたると説くのではありません。
そうではなくて、友よ、想もあり意識もそなえた、
この一尋にすぎない身体において、
世界と世界の生起と、
世界の滅と、世界の滅にいたる道を
告げ知らせるのです。
=======
(『サンユッタ・ニカーヤ』2.26)

「想もあり意識もそなえた」 は、心のこと。
それと、身体

心と身体の上に、世界が生滅する

と説いているのです。

三本柱ではなく、二本の柱でしょう。

だから、「ヨーガは一つである」というのは、

ただし、仏教を除く、としなければならないのです。

では、仏教ではどうでしょうか?

仏教こそ、「ヨーガは一つである」と言えるかも。

身体と心、それと、アートマンの三本柱 に対抗して

身体と心、それに、法(法身) とすることが出来ます。

法は、空で無我なのです。

あるように見せて、同じ構造にすることが出来ますが、

ヒンドゥー教の三本柱を、
仏教に合わせて二本にすることは、ちょっとむずかしい。

ようやく、すっきりしましたわ。
Dsc01808s

しかし、こうして見ると

ヨーガも、思想なのだ、とも言えますね。

なぜなら、この身体と心において起こったことなら、
何でも言えることになるのだから。

そして、

何でも言えるのなら、
理屈に適ったことの方が、良いはずだ

とも言えます。


ここだけの話、
仏教以外の話しをしようとすると、
ものすごく、苦しい~~

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