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2015年3月29日 - 2015年4月4日

2015/03/29

無我について 非我について どうでもよいについて

みなさん、ダンです、こんにゃちわ。
Dsc01113s
僕って、礼儀正しいのです。顔は、ちょっとあれだけど。
Dsc01112s


あ、にゃんだ! く、くじら、まさか!
Dsc01114s

はぁ、サムくん登場!
Dsc01116s
すごい現れ方だ、疲れるぼくにゃん

Dsc01118s
何か、文句あっか、にゃ~。

はぁ~、のびぃぃ、さあ、行くかにゃん。
Dsc01122s
ダン、きみもねぇ、仏像やってないで、少しは動けばぁ。

ダン、君は孤高の、勝義諦にゃー。
さむ。。君にゃー、世俗諦っちにゃ。


           ◇◇◇


ご無沙汰してます。

日記に「ご無沙汰してます」は、にゃいかもにゃ。
でも、すぐ時間が過ぎてにゃー、

「毎日書こう」と、書いてるときには思うのに
気づくと、二週間。。。時は光陰。


さて、、そんなことをいっていると、
「無我」の話しに行く前に日が暮れてしまう。

前回、『現代仏教塾Ⅰ』をご紹介しました。


その中にあった、「無我」説の批判について、

ちょっとあいまいにしていましたら、
やっぱり、ご質問がきてしまいました。

ちょっとはっきりさせましょう。

三木悟氏の 「近代仏教学の誤り」 という章の中に

そのことは説かれていて、このようにあります。

=========
お釈迦さまが亡くなってから、いつの頃かわかりませんけど、
一〇〇年か三〇〇年ぐらい経った頃に、お釈迦さまの教えは
「無我」だと――「私がないという意味の無我」だと誤解されて、
それ以来二千年にわたって、仏教の中に続いている混乱です。
これが「無我論」なのです。
=========(『現代仏教塾Ⅰ』p.129)

「自己はない」とするのは、間違った考えだとするのが三木氏です。
では、どういう考えが、正しいのでしょう。

======
お釈迦さまがいわれたのは、私のこの身体、
これは我ではない、「自己ではない」。
私が考えている私の心、思い、そういうものは
常に動いていくものですね。ですからそれも「私ではない」。
私が持っている持ち物、私のこういう着物とかね、
財産とか、名誉とか、それも「私ではない」。
そういう意味で、「アナッタン、アナッタン。
我ではない、我ではない」と言われたのです。
======p.129。

となると、三木氏は、「自己(我)」については、どのように、
考えるのでしょうか。

=========
そして、お釈迦さまの教えも実はですね、先ほど言いましたように、
エゴですね、自我意識――「自分が自分が」という意識は
真実の自己ではないのだ、そういう自我に対する執着を離れて、
真実の自己に目覚めなさい、というのがお釈迦さまの真意である、
というふうに私は思うのです。
=========p.133

「自己がない」というのが、「アナッタン(無我)」の意味ではない
「自己でない」というのが、「アナッタン(無我)」の意味である、

ということです。
そして、お釈迦さまは、「真実の自己」を認めたのだ、
というご意見のようです。

「自己はない」とする無我説に、対して

「自己でない」とする無我説を説く人たちは、

最終的には、自己を認める立場である、となりますね。

三木悟氏は、自己を認めて
=======
私の考えでは、「自己」と言っても、
三つの区別があると思います。
<迷っている自己…目覚めた自己…目覚めつつある自己>
の三つです。
=======p.155

と述べています。

今まで、いろいろに言われている議論を、
三木氏の検討をもとに
ここで簡単に整理してみたいと思います。

★「無我(アナッタン)」とは、
「自己がない」ということだとする説は、
説くとおり、「自己」を認めないということだ。

★「無我(アナッタン)」とは、
「自己でない(=非我)」ということだとする説は、
実は「自己はある」と、自己を認める立場である。

こうして、議論の中では
「自己はない」は、「無我説」と呼ばれ
「自己でない」は、「非我説」と呼ばれて
争ってきたのですが、

これら二つの議論は、結局は

自己を否定する立場 と 自己を肯定する立場
             の争い

として、整理することができるでしょう。
だから、長い間もめてきたのです。

この紛争の歴史というのが、実際上、長いことは、
いろいろなところから推測することもできますし、
仏教の歴史の中のさまざまな説からも知られます。


          ◇◇◇


経典そのものの中にも、その混乱は、はっきりと出ています。

わたしも、長い間、まったくふれられないこの個所をみて、
あやしくいぶかしく思っていました。
『サンユッタ・ニカーヤ』12.15 「カッチャー(ヤ)ナ」という経典です。

http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/kaccayanagotta.html
======
6この世間の多くは、カッチャーナよ、
近づき、執って、とらわれ、縛られるのである。
だが、かの者(仏弟子)は、近づくこと、執ること、
心に確立すること、とらわれること、潜在させることに、
近づかず、執らず、確定しない。
すなわち、「わたしにとって自己がない(自己がある)」と。
======

最後の

「わたしにとって自己がない(自己がある)」
(アッター [ナ] メー)

の一文です。
ここに混乱があるのです。

PTSのテキストでは、「ナ」の文字が入っています。
これにより  「わたしにとって自己はない」
と訳せます。

他の、たとえばCSCD版では「ナ」は落ちています。
こちらは  「わたしにとって自己がある」
と訳せます。

わたしが問題だと思うのは、
これらの二つの読みがあることを、知っていても、
異読があるとして、注のところに書いてないことです。

読みに違いがあれば、注記して、書いてあるのに、
ここだけ、何も問題がないかのように、PTSの出版も、CSCD版も、
沈黙して、一つの読みだけを採用しているのです。

この、「注に何もない」 という事実によって、

「自己」をどうとらえるかが、経典の編纂者にとっても、
大きな問題だったのではないだろうか、と怪しむのです。

うすうす、かなり混乱があって、その時の力関係で
決まったのかもしれない、と疑問が出るのです。


で、どっちが正しいのか、って?
どう考えればよいのか、って?
また、
お釈迦さまは、何と言ったのか、って?


そこを探りましょう。

今までの、
いわゆる「無我説(自己がない)」も、
いわゆる「非我説(自己はある)」も、
お釈迦さまの説ではない

と、おそらくは、気づいておられるでしょう。

そうだと思います。先ほどの、カッチャー(ヤ)ナの経典を
今一度みます。

======
6この世間の多くは、カッチャーナよ、
近づき、執って、とらわれ、縛られるのである。
だが、かの者(仏弟子)は、近づくこと、執ること、
心に確立すること、とらわれること、潜在させることに、
近づかず、執らず、確定しない。
すなわち、「わたしにとって自己がない(自己がある)」と。
======

これが、わかれば解決です。

「わたしにとって自己がある」でも「わたしにとって自己がない」でも
どちらでも、

近づくこと・執ること・確立すること・とらわれること・潜在させること

こういうこと全部に、
近づかないし、執らないし、確定しない

とすれば、どうなる?

こういう問題は、こういう問題ごと、放り投げて捨ててしまう、

ということではないでしょうか。

ほっとけよ!
ほっとけよ!

ほっとけ、ほっとけ、ほとけさん。


       ◇◇◇


おい、逃げるなっ!
って、声も聞こえてきそうな展開ですので、
もう少し、詳しくお話しましょう。

「アッタン」「アッタン」言わずにおけよ、ということだとは思いますが、
でも、
「お釈迦さん自身も、「アッタン」と言っているではありませんか」
という反論もあります。


では、言いましょう。
「自己(アッタン)」ということばは使いました。
でも、お釈迦さんの教え(ダンマ)としては、「自己」は説かれていません。
真実の「自己」は、内心では認めていたのだ、などということも、
どこにも見当たりません。

それは、「アッタン」がこんな風に表現されてくるからです。
「自己」ということばは、他のものと同じように、
生じ滅するもののように説かれているからです。

『スッタニパータ』919(926)
=====
比丘は、自己のうちにおいて寂静でありなさい。
外から寂静に行ってはならない。
自己の内に寂静となったものには、自己はない(ナ アッティ アッター)。
ましてや、どうして、自己を欠くもの(nirattan)があるだろうか。
=======

「アッタン」は、こんな短い詩の中に山ほど出て来ます。

最初「自己の内では」 と、自己が出てくる。
でも、
「自己はない」 ともはっきり述べている。
なのに
「自己を欠いていること(ニルアッタン)もない」と示唆している。

ええい、何だ、これは?!

自己の内で静まってしまったら、
こうなってしまう。

もう「自己」なんて、どっかにいっちゃうんだ。
そうだ、いらない、このことば。
だから、「アッタン」がないなら、「ニルアッタン」だって
どこかに行くだろう、と述べています。

919の詩を、順序にしたがって味わうと、

自己があったものが、
寂静の境地を得ていくと
自己がなくなり、
そうこうするうち
「自己がないこと」もなくなっていく。


    あったものが
    なくなること


こういうことが、ブッダの教えからわかります。

「自己がある」と思っても、やがて、「自己がない」と得ていく。
「自己がない」と得ても、「自己がないこと」も消えていく。

こうなるのです。
「自己」にかかわるすべてが、消えていくみたいですね。

「  生じる性質のものは、滅する性質のものである  」
ということばを思い出します。

龍樹の『中論』のことばをあげてみましょう。

========
自己がもし(心身の)あつまり(=五蘊)であるならば、
生じ滅し住するものとなるだろう。
もし、もろもろの(心身の)あつまりとはちがうものであれば、
あつまりの相をもたないものとなるだろう。
============18.1

もし、自己というのがあると仮定してみると、
それは、五蘊と同じか同じではないかどちらかでしょう。
同じなら、生滅するし、そうでなければ、生滅しないだろう。

さあ、どっちですか。
どうやら、お釈迦さまのことばによれば、
自己も、あるとかないとかいいながら、消えていくようです。

       ◇◇◇


では、また、龍樹の『中論』からです。

=======
自己である、と教えられていることもあれば、
自己ならざるものである、と示されていることもある。
しかし、いかなるものも自己ではなく、
そして、自己ならざるものではない と諸仏により示されている。
============18.6

このとおりですね。
「自己である(自己がある)」 と言っていることもある

「自己ならざるもの(自己がない、自己でない)」
と言ったりもする。

(でも、本当は)いかなるものも
「自己であるのでなく、自己ならざるものではない」
というのが、諸仏の教えである。

この
最後の文は、919の詩の中についてあてはまっているように見えます。


どうです。

みなさまの「自己」は、

ここまで読んで、さらさらと砂のように、
崩れていきましたか。

ああ、自分というのは、あるわけではなくて、でも、
ないわけでもないような、

まあ、むずかしくなるから、どうでもいいような気もしてきて、

今まで、考えてたことが、ただのこだわりだったんだなあ

と思えてくるような。。。


そんなこと言ってるのが、「カッチャーヤナ」の経典なのかもね。


6この世間の多くは、カッチャーナよ、
近づき、執って、とらわれ、縛られるのである。
だが、かの者(仏弟子)は、近づくこと、執ること、
心に確立すること、とらわれること、潜在させることに、
近づかず、執らず、確定しない。
すなわち、「わたしにとって自己がない(自己がある)」と。

Dsc01109s
ふきのとうは、はなざかり。

サムとダンは、自己も忘れて寝とるがな。
Dsc01107s

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