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2014年11月16日 - 2014年11月22日

2014/11/16

空からの落とし物は雪のせんたくもの

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まとまって、降りましたわよ。

庭のローズマリーを、鉢に植え替えて
家に入れようと思っていたのに、
間に合わず
そのまま、雪の下になっちゃってます。

寒さに弱いと聞いているので、
なんとか掘り出さなくちゃ。

さて、雪のせんたくものが
物干しにぶら下がっています。

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いつも、同じことばかり書いてますが、
1年経つのは、ほんとに早いですね。

とうとう「3年日記」が、今年でおわるので、
勇気を出して(?)
「5年日記」の日記帳を買ってみました。

まだらに書いてるけど、
まだらに続けてみるか。。

はっ!

5年なんて、生きられるんだろか????

それに、毎年、「1年があっという間だ」って、
書くことは決まっているのに。。

うーーーん、無駄遣いしたかなあ。

よし、新年の最初に
日記に、
「無駄遣いをした」と記録しておくことにしよう。

来年の、予定が、一つできたっ!!
めでたい、かも。。かな?


      ◇◇◇


さて、さて、

黒崎宏氏 『純粋仏教』(春秋社)
Photo


同じく、黒崎氏『ウィトゲンシュタインから龍樹へ 私説『中論』』
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を借りてきました。
実は、黒崎氏の龍樹解説本は、
ごく最近読んだのです。

『純粋仏教』を、まず、
おそるおそる読んでいました。

昔は、絶対に、恐くて!読めなかったのです。

というのは、

解説本というのは、油断すると、
知らないうちに
先入見が入りこんで抜けなくなる
恐いもの だからなのです。

かつて中村先生の『龍樹』という書を、
不用意に読んでしまって、
七転八倒の
えらい目に合ったことがあります。


知らないで読むと、そのとおりだと思ってしまう。

どこに、罠があるのか、わからない、
仏教では、ふつうに、こう考えられているんだ、
と、
思ってしまって、
もう、
常識だと思っていることから離れられなくなってしまうのです。

ましてや、中村先生といえば、
仏教やインド哲学では大御所です。

まさか、間違っていることを言うわけがない、と、
頭から思ってしまうのが、ふつうです。


       ◇◇◇


こういう、抜けがたい先入見の苦しみを味わうと、
慎重に読むようになってきます。


『純粋仏教』p.142
============
ナーガールジュナは、こう言っている。そして、これが
『中論』の核心部分なのである。

行為に縁って行為主体がある。またその行為主体に縁って行為がはたらく。
(行為主体と行為についての)その他の成立の原因(理由、縁)をわれわれは見ない。(第八章の12)

<行為主体>と<行為>は、実は、相互に縁起の関係にあるのである。
そしてこの偈は、「縁起の関係」が「相依相待の関係」であることを明らかに示している。
============

『中論』の第八章12が引用されています。
中村先生の訳ですね。

黒崎先生の説明は、最初から、
ボタンのかけ違った服のようです。

==(黒崎先生曰く)
<行為主体>と<行為>は、実は、相互に縁起の関係にあるのである。
====

ボタンをどこでかけ違っていますか。

<行為主体>と、先にあるところで、もう、おかしい。。。

助けてくれ!

<行為>が先に来ているのです。
「行為に縁って行為主体がある」
と、龍樹は述べているのです。

一番最初から、行為主体がドンと出てくることはないのです。

<食べる>という行為によって、
誰が食べるのか、と問題になるので、
<行為主体>が生ずるのです。

そして

行為主体が、「黒崎さん」とわかったところで、
その人が、何を食べるのかと、また、問題になるのです。
「あ、それ、わたしのケーキです」
と、ケーキを食べられたわたしは、黒崎さんに
<食べる>という行為を指摘するのです。

食べることに縁って、食べる主体がある。
そして
食べる主体に縁って、食べることがある。

「相依相待」でしょうか。

最初の「<行為>に縁って」の「<行為>」は、

次にある

「<行為主体>に縁って<行為>がある」の
「<行為>」とは、

明らかに違います。

最初は、自分のケーキを食べてるかもしれないけど、
次の場面では、わたしのケーキを食べているのです。
少なくとも、二口目だっつうことです。


黒崎先生は、「一重の原理」ということを述べています。

『純粋仏教』p.132
=========
「<すでに去ったもの>も去らない。
<未だ去らないもの>も去らない。
<いま現に去りつつあるもの>も去らない」ということは、嘉祥大師吉蔵によって「三時門破」と言われた。
その意味するところは、「過去・現在・未来(三時)において、運動は存在しない」ということである。
そして、その核心が、「去るものは去れず」なのである。私はこのことを「一重の原理」と言いたい。
それは、「事柄は二重に起きることはない」ということである。
==========

このように、
一つのことばに二度重ねて意味をもたせてはいけない、
一つの事は一度だけ起こる
と、語っているのです。

それならば、同じように、

相依相待

も、考えねばなりません。

「行為に縁って行為主体がある」

で、一つの事柄。

「行為主体に縁って行為がある」

で、もう一つの事柄。

これを重ねて、相依相待 といってしまうと、

一つの事柄を、

二重に述べていることになります。


行為と行為主体は、相依相待の関係にある

という言い方の中に

一重の原理はありません。

「相依相待」という、一つの言い方で、
行為に縁って行為主体がある
行為主体に縁って行為がある
という
二重の言い方を含んでいます。

最初に、解説本を読んでしまうと、

なんか、おかしい  んだ!
どこかに、変なところが あるんだ!

って、
気づくまでに、
えらく遠回りをして
時間がかかってしまうのです。

黒崎先生が、「明らかに示している」と思っているもの、

それは、

そう読んでしまうから、

そう思ってしまうのだ

という心のはたらきなのです。


こういう罠にはまらないためには、
どうするか?


それは、原則を知ったら、
いつでもどこでも
原則に合っているのか、
ただ虚心に読んでいくしかない

と思うのです。


前と違うことを言っていると
思ったら、
そこで、もう、
チェックを入れなきゃだめなのです。

徹底的に追求しなくちゃ
あかんのです。

それをしないと、龍樹は、
インチキ野郎に
見えてしまいます。


エライから とか
有名だから  だとか
すごいから だとか
龍樹だから だとか

そういうことで
だまされちゃ
あかんのです。

上から落ちてくるものは、

下で無差別に拾わず、

ちゃんと、せんたく しなくちゃ

あかんのです。

角度を変えてこんなのも。
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せんたくもの の お話しでした。

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