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2014年5月11日 - 2014年5月17日

2014/05/17

論理は戒である 戒より始めよ

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恵み野という駅の前に一本咲いていた桜です。
今年のお花見は、なんとなく、これ一本で終わったような感じですわ。

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咲く時期の遅い八重桜にであいました。
でも、もう、散り始めていますね。

花は、桜からライラックに移ってきましたね。
そして、寒い!

恒例の リラ冷え ですね。


           ◇◇◇


さて、さて、ここしばらく、論理について考えていました。


★論理は、瞑想である


というのは、よく語ってきたことですが、もう一つ、
こういうことも言えるかな、と思います。


★論理は、戒である


これは、ほんとにありがたいことだと思います。
何がありがたいと言って、

論理 というのは、 そう言えるだけではダメで
実践、という 眼に見える部分を持たなくちゃならない、

ということだからです。


つまり、証明する手立てが、二つあることになります。

理論的に、そう言えるということ。
実践的に、そうなっていること。

言い換えれば、二つそろわなくちゃいけないので、
より厳しいとも言えますが、

でも、たしかな手立てが二つあるのは、やはりありがたいです。

論理が瞑想であるのは、

論理というのが、その体系内のあらゆることにおよぶことによります。


とにかく、どのような原則でも、それを体系に入れたら、
体系内の全部が、その原則にしたがって、一斉に並び替えられるのです。

これを、原則を入れた本人がやらなくてはならないので、

どうしても、
一点集中の瞑想だけでなく
あらゆる点におよぶ 禅定が必要になります。

こんな風に、ピッと並ぶのよ、って言わなくちゃ
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それと同時に、

論理は、その説く人が、実際に体現していなければ

意味がない

というものです。


そういう「ものの見方」なのだから、
そのような見方を貫いている、という見本を
示さなくてはなりません。


だから、論理の原則は、戒として、その人をしばるのです。

たとえば、
矛盾律( Aと¬Aが同時にあってはいけない )を
原則としたら、自分が、それを犯してはいけないのです。

したがって、当然、語る内容が、
みずからの論理にしたがったものとなります。


こうして、論理は戒の要素を持つことになるのです。。。


って、考えていったら


つまり、論理って、  


八正道


って、ことだなあ、 って、思いつきました。

正見(正しいものの見方)
正思(正しい考え方)
正語(正しい語り方)
正業(正しい行い)
正命(正しい生活)
正精進(正しい努力)
正念(正しい気づき)
正定(正しい禅定)


論理学者 というのは、戒を守る人だったんだ。


まあ、そんな気もしたけど、
あらためて、考えると、

結局、知らないうち、八正道を目指していたのか。


ブッダ論理は、八正道

論理を語ることは、みずからの戒を語ることである


だから、もし矛盾すると、自分が苦しくなるだけなのよ。。


何か、善いこと、書いてる気がする。   ねっ!


また、つらつら考えますに、自分の守れそうな戒を、

論理として持つなら、自分の論理学が作れる、ということでもある。


ふーーーーーーむ、なかなかいい考えのような気がする、ほんと!


◇◇人は  誰でも  自分の論理学をもたねばならない ◇◇


こんな風に言ってみたら、どうだろう。


「戒」より堅苦しくなくて、押しつけがましくない感じがするけど
「論理学」ということばに、人間、堅くなりそうですか?
そんなことないよね。

たいてい、認められる原則は

先ほどの 矛盾律と

せいぜい 排中律 ( 世界は、Aが Aでないかのいずれかだ)

ですから。


仏教は、矛盾律、一つでいけそうです。

世俗諦で、二つ。矛盾律と排中律。
勝義諦で、一つ。矛盾律。


こうかな?

どう思う?

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あるがままに草を食む


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