« 岡潔『春雨の曲』をさみだれ的に | トップページ | あれ、もう10日。。。「くうっ(空)」 »

2014/06/30

一分で読むブッダの教え なのだけれど

先日、スマナサーラ長老『一分で読むブッダの教え』(サンガ)を
いただいたので、
車中で読める!って、思って、
持ち歩いて読んでいます。
Photo


まあ、長老さまだし、ね!

だから、長老さまなんだし、
まあ、はずさないだろな、

って、思いながら

読み始めたのですが、

なんとなく、不思議感が強くて、けっこうおもしろいです。

1ページのものと、わずか半ページのものと、
二種類あります。

長いもので、原稿用紙一枚程度(400字)
短いもので、原稿用紙半分程度(200字ちょっと)

ギリギリですよね、意味が通じるものとしては。

323個の文章が、収められています。

では、わたしも、短く感想を述べてみます。


真理を書く人は、みなどこかよく似ている


一行の感想でした。短いね。
おもしろいでしょ。

長老さまだから、
意外感!のあることを述べるのかしら、

って、思ったら、

何と、意外にも!、そうではありません。


多くの賢者が述べていることと
一つ一つは変わりません。


おお!おもしろいなあ、って、
変なところに感心してしまいました。


でも、323も、真理が集まると、
やはり
それなりですね。

個々には、誰でも言っているかもしれない。
ああ、アランの『幸福論』のようだなあ、とか
大乗のお坊さんの法話とおんなじだあ、とか、
思うわけです。

だけど、323集まると、オリジナルになる!

「一分で読む」
なんて言葉にだまされてはいけないのです。

323個読むんだからね。
323分かかるわけ。

5時間半はかかるのです。


おお!
こんな薄い文庫が、なんと5時間半ですぞ!

この事実の方が、驚きだって?
そうでしょう、そうでしょう。


で、


323個の文章が、
互いにどれも矛盾してない

って、ところに気づくと、
やっぱ、
ブッダの教えなんだなあ、って

しみじみ思ってくるのです。

Dsc00719s


     ◇◇◇


こういうことだと思う。

短く書くと、真理と自分が思うことしか書けない。
そうなると、
誰でも、同じようになる。

しかし、

それでは、わずかしか書けない。
真理なんて、そうそう見つからないので
すぐ尽きてしまう。
だから、

ヴァリエーションをもたせて、
真理を個別に適応させて書く

そうすると

細かくなりすぎて、些末になり、
しかも
意外感はなく、印象としては、どれもおんなじだ
という感じになる。

そうならないためには、
真理以外のことも混ぜる 
こともあるかも。。。あ、まずっ!

こうなると、矛盾がでてきて、
本全体がうそくさくなってしまう。


「すぐ読める」みたいな本は、
こんな風になってしまうことも、
ないわけではありません。


軽く読まれて、軽く捨てられていく本も多いのです。

うーーーん、むずかしいーーー!


こういう風に、真理を扱って、しかも、短く説くのは、
チョーむずかしい。

Dsc00721s


        ◇◇◇


短く書く、というのは、書く側からすると、
このように
本当にむずかしいと思います。

真理だから、わずかしかないのです。
おそらく、一つでしょう。

だけど、多様に描き分けねばならないのです。

そして、

そのどれも、
どこか新鮮な響きをもたねばならないのです。

だって、
真理なんですから。

そうなると、真理を書く人は、まさに、
自分のことを書くことになってしまう。


自分の生きている、その「今」を、
書くことになってしまいます。


そこにだけ、真理があるからです。

引用しましょう。『一分で読むブッダの教え』から。
===========
057 瞬間で見れば、悩み苦しみは存在しない

皆さんに、この今の一分で、今の六十秒で、
やり遂げられないこと、大変な悩みになることが何かあるでしょうか?
「今」、何か解決できない問題がありますか?

 …(略)…

今の一分で解決できない問題は、一つもないのです。
今の一分で、成功できないことは、一つも存在しないのです。
それなら、次の一分はどうでしょうか。同じことでしょう。
(『一分で読むブッダの教え』四九頁)
===========

今の、この一分に問題がないなら、
次の一分にも問題はない
と語るスマ長老さま。

ああ、以前に読んだ
アランの『幸福論』の言葉を思い出しますね。

===========
この一分の後には必ずつぎの一分がやってくる。
したがって、君が現に生きているのだから、
今生きているように生きて行くことは可能なのだ。
(『幸福論』岩波文庫、一七九‐一八〇頁)
===========

こうして、真理を語る者は、
同じようになっていく。

つまり、スマ長老もアランも、同じように、
「今」を瞬間瞬間クリアして、
生きていく姿を、人々に伝えるのです。

毎分新しく生きている自分を描いて
真理の本ができあがる

ということなんだなあ。

スマ長老は、一分一分の法話を欠かさない。
アランは、毎日毎日、自分で「プロポ」と呼ぶ
哲学の断章を書いたのである。


323分、真理を保ち続けることができる人は、
次の一分も、おそらく真理であるにちがいない、と、

信じて、

本を読むのです。


一分の中で、
真理を読んで、
それを検証し、
それを確信する人は、忙しいのです。

一分の中に三つのことを含めるから。
読む・検証する・確信する

323個の真理について、
この三つを、ずっと続けられると

やがて、自分も、

「一分で読む」

ということの意味を、

しっかり身につけることができるだろう。


ながいね、一分、ぷん!
Dsc00724s
三つのバラです。


|

« 岡潔『春雨の曲』をさみだれ的に | トップページ | あれ、もう10日。。。「くうっ(空)」 »

コメント

苺屋毒蛙さま こんにちはぁ、はぁ~、あつっ!

>サンガの編集者が悪いんだ!(笑)

わはっ、いっしゅん、「サンガ」って、本屋さんのことかと思っちゃいました(笑)

コーカーリヤのお話は、『スッタニパータ』ですよね。

こういうのを読むと、当時の社会も今と同じように、混沌としていたのかなあ、って、思います。
それが、こんな経典に反映されているのかも。

ブッダも、きれいごとじゃない世界を生き抜いたんかなぁ、たいへんだったよね、って、思います。
 

投稿: 管理人エム | 2014/07/18 15:15

マニカナ先生、こんにちは♪

著者   龍樹(?)
編集者  ?
漢訳者  鳩摩羅什

サンガの編集者が悪いんだ!(笑)

特定の人物を持ち上げすぎたり、貶めたりっていうのは、部派間の教理争いや政治的争いのような気がしますね。

パーリ経典でもコーカーリヤの章みたいに変なのが混じってるし、そこらへんはさらっと流して、関わらないのが一番ですね。

投稿: 莓箭毒蛙 | 2014/07/15 16:30

>輪廻 と 涅槃 は、句別にある

句については、「区や曲に似ており、曲がって入りくんだことであろう」(p.308)って、説明がありますね。

>者が分つ、差の音の共通点が “分”かるから

ふうむ、含蓄がありすぎて、読みこなせないわ。。

投稿: 管理人エム | 2014/07/15 04:32

苺屋毒蛙さま こんばんは ~ おはようございますぅ

>なんか品がないな~

あらぁ、言われちゃったわ~
『大智度論』って、ちょっと、こういうところありますよね。他でも、引っかかるところがあります。

龍樹のせいなのかな、訳者の鳩摩羅什のせいなのかな、って、思ってます。
で、心の中では、鳩摩羅什の訳のせいにしています。


投稿: 管理人エム | 2014/07/15 03:43

マニカナ先生、こんばんわ♪

>難陀は、婬欲の気殘り

なんか品がないな~

投稿: 莓箭毒蛙 | 2014/07/13 19:53

者別が無いでは、キャベツと同じ
差別がなければ、同一になる
両者があって、一者に異ならず
不一不二

輪廻 と 涅槃 は、句別にある
句が違えば、区も違う

区と句を 語源の310で見てごらん
共 に、乗ってる意味がある

327 と563 を見てごらん
者が分つ、差の音の共通点が “分”かるから

投稿:  春間 則廣   | 2014/07/12 20:31

>両者に区別がなければ、一者です

ほんとにねぇ、
両者の間に微塵の隙間もない、だった。

投稿: 管理人エム | 2014/07/12 13:13

輪廻の際(きわ) があるのなら、
涅槃の際がある

輪廻と涅槃の区別があるから 、、、、

区別はあるが、シャベツがない

両者に区別がなければ、一者です
一者に区別が起きると、他者が起きている

投稿:  春間 則廣   | 2014/07/12 09:07

>何故輪廻を繰り返すのかは、始まりがないところに行くためです

なるほど。空がでてきますね。
輪廻の際(きわ)は涅槃の際。
まったく両者には区別がない。

投稿: 管理人エム | 2014/07/12 07:03

前世は一在家さま

>先生のご明察通りでした。

お、『大智度論』をありがとうございます。
ちゃんと理屈に合っているところが、さすがに仏教ですね。

三毒の毒をイメージしたのですが、あたったかな。

「蟻塚経」以来、蛇(ナーガ)には一目置くようになりました。

投稿: 管理人エム | 2014/07/12 06:59

>>> もし、ちがっていても、長老さま自身そこを目指しているのだから、

>>   そこが、何処か、
     どういう者か(いかなるキョウチ か)
     違っていれば、目指すところは違っていることになる  
     その違いが分からない  <<


> 分からないです、まあ、そんなところです。

大乗とは、そういう者の乗るところです
乗っているという信仰が起きる時が、
“他人の” 洲   になっている ということ

誰でもそこを目指していて、そこを求めない者はいない

と知る時、
長老様が 子の如く いるかな ?

何故輪廻を繰り返すのかは、始まりがないところに行くためです

始まりのないところに立つと、長老の妄想が ハッキリする

大小・高低・多寡 は 縁起にある
より多く知るものは、
知らない少しのところに(より多く の 働くところを)支配される
少なく知るものは、支配されることが少ない
(貧しきものが、幸いであり、天国に近い と される理由です)

あなたの天国は、高みにはない、足下にある

投稿:  春間 則廣   | 2014/07/11 07:15

ミチ先生sun、住人各位、出典を調べました。

>サーリプッタ尊者は、毒蛇かあ。
>蛇は智慧と結びつくのでわかるとして、毒というのは怒りがけっこう強かったからかな、どうなんでしょうね。

先生のご明察通りでした。

舎利弗は、瞋恚の気殘り、難陀は、婬欲の気殘り、必陵伽婆磋は、慢の気残るが如きは、譬えば人の鎖を被て、初めて脱ぐ時、
行くに猶お便ならざるが如し。(中略)
毒蛇の思惟すらく、『我れは既に毒を吐けり。云何が還た嗽わん。此の事は、劇死せん。』と。思惟し心定まりて、即時に火に入れり。
爾の時の毒蛇とは、舎利弗是れなり。世世に心堅くして、動かすべからず。』と。
(参考:つばめ堂通信、龍樹「大智度論」、巻第二(下)、煩悩の残気)

投稿: 前世は一在家 | 2014/07/10 19:11

>その違いが分からない

分からないです、まあ、そんなところです。

投稿: 管理人エム | 2014/07/10 08:47

前世は一在家さま おはようございます。

>『畜生』への転生の話が多いのが「ジャータカ」ですね。だから合わないという意味ですか。

あ、いいえ。。
何といいますか、煩悩世界を語るには、距離があるような感じがするのです。

『大智度論』ありがとうございます。
煩悩に満ちた輪廻の世界は、なんとなく菩薩が似つかわしいですね。
ちょっとホッとするような感じです。

サーリプッタ尊者は、毒蛇かあ。
蛇は智慧と結びつくのでわかるとして、毒というのは怒りがけっこう強かったからかな、どうなんでしょうね。

投稿: 管理人エム | 2014/07/10 08:32

> 阿羅漢かどうかは、阿羅漢でない人には分からない、って、ありましたね。

阿羅漢に なれば、自ら以外には 阿羅漢しかいないと分かる
ならないうちは(言葉の選び方・名称の付け方 を 好き勝手に為し)
いる・いない・わからない  を 
(阿羅漢 の立場で) 判断する(商量する)

“ そういうわけではない ” と、 正しい否定(正見による判断)を 起こす

否定されるべき事は、
正しいことではないかもしれない・正しくない・正しい(と思う)

“ 正しいと思う ” そのこと(思いがある ということ)は、
決して否定されないが、
その商量の内容は、常に顛倒している

更に穿つと、
アル カ ナイカ は アル ク マデ は、分からない
苦があるところに、禍があり、禍があるところに、顛倒がある

否定されることがない存在が、
否定されるべき論理の使いようにある

一方を正しいとすると、他方は否定される

何が、何を自ら否定するか が 分かる時に、
二種の観察は正しく為される

> もし、ちがっていても、長老さま自身そこを目指しているのだから、

そこが、何処か、
どういう者か(いかなるキョウチ か)
違っていれば、目指すところは違っていることになる

その違いが分からない


>何か大差ないような気がしてくるんですよね。

「 毫釐も差あれば、天地懸に隔たる 」


>四捨五入(?)すれば、阿羅漢ってことで、どうでしょう

四と五 の間に、天地が収まっている
そこは、捨てることも、入れることも適わない


縁起の定まりが、すべての定まりよう

投稿:  春間 則廣  | 2014/07/10 06:57

ミチ先生sun、おはようございます。

>たしかに、長老さまとジャータカって、なんとなくあわない雰囲気もするような。。。

『畜生』への転生の話が多いのが「ジャータカ」ですね。だから合わないという意味ですか。

菩薩は、天眼を得て衆生の五道に輪転して、その中に迴旋するを観るに、天中に死して人中に生じ、
人中に死して天中に生じ、天中に死して地獄中に生じ、地獄中に死して天上に生じ、天上に死して餓鬼中に生じ、
餓鬼中に死して、また天上に生じ、天上に死して、畜生中に生じ、畜生中に死して天上に生じ、天上に死して、
また天上に生じ、地獄、餓鬼、畜生も、またかくの如し。(中略)
卵生中に死して胎生中に生じ、胎生中に死して卵生中に生じ、卵生中に死してまた卵生中に生ず。胎生、湿生、化生もまたかくの如し。
(参考:つばめ堂通信、龍樹「大智度論」、第十六之上、五道輪廻)

確かサーリプッタ尊者の前世は『毒蛇』typhoonだったとの解説もあったように記憶します。

投稿: 前世は一在家 | 2014/07/10 06:45

莓箭毒蛙さま おはようございます。

旧字体、ってカッコになってましたので、コピペしてしまいました。

阿羅漢かどうかは、阿羅漢でない人には分からない、って、ありましたね。

わたしは、阿羅漢でないので(言わなくてもわかるね、笑)、長老さまが阿羅漢かどうかは、わかりません。

でも、勝手に、阿羅漢だと思っています。

そう考えると、何を言っても大丈夫だという気がして、わたしの気が休まるからです。

もし、ちがっていても、長老さま自身そこを目指しているのだから、何か大差ないような気がしてくるんですよね。
四捨五入(?)すれば、阿羅漢ってことで、どうでしょう。

ところで、ジャータカの本を出されてるんですか?

たしかに、長老さまとジャータカって、なんとなくあわない雰囲気もするような。。。

投稿: 管理人エム | 2014/07/10 06:29

長老様、本当に阿羅漢なんだろうか?
最近、ジャータカの本を出版されてますが、わたしはジャータカみたいなお話が混じってくるのがあまり好きでないのでちょっと引いてみてます(笑

きっと面識のある方が確かめてくださるに違いない(チラッ

Are you a living Arhat?

投稿: 莓箭毒蛙(旧字体) | 2014/07/09 18:26

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/58200/59900884

この記事へのトラックバック一覧です: 一分で読むブッダの教え なのだけれど:

« 岡潔『春雨の曲』をさみだれ的に | トップページ | あれ、もう10日。。。「くうっ(空)」 »