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2014/06/20

岡潔『春雨の曲』をさみだれ的に

梅雨のない北海道、というのが
もはや成り立たない今日のこの頃。

毎日、何だかじとじと雨もようです。
Dsc00711s


        ◇◇◇

出かけると、必ず傘を忘れてくるのが、
わたしの習い性だったけど、
さすがに、帰りも降り続いていると、忘れないもんですね。

今まで、何本傘をなくしたか、数えきれません。

今の傘は、一年以上保持し続けています。
えらいぞ。

もっとも、使ったのは、ここ一週間くらいですが。
でも、一週間でも、使い続けられているのが、快挙です。
いつまで、この傘、もってられるかなあ。


        ◇◇◇


最近、慢性的に疲れているせいか、
ほんとにパワーが出なくなってきました。

って、昔は、疲れてても、
日記に、「疲れてる」って書くことなかったのに

今は、他に書くことが思いつかないので、
こんなことでも書くしかないかなあ、って感じです。

あ、思いついた!
遠佐さまから送られた


岡潔 『春雨の曲』(第七稿)と(第八稿)


ちょっと忙しくて中断していましたが、おりにふれて
ちらちら読んでいます。

「多変数解析関数論」というのも、
ちょっと短いノートのようなものを見てみてみるのですが、
何だか、さっぱりわかりません。

わかりませんけど、でも、『春雨の曲』と
雰囲気が、とてもよく似ています。
同じことが書いてあるような気がしてきます。

なので、このまま、
なんとなく眺めていよう、という気がしています。


さて、岡潔氏、かれの思想は、いかなるものなのか?


ピッタリ同じではないけど、
読んでいると、思い浮かんでくるのは、やはり!
ウパニシャッドの思想(家)です。


『春雨の曲』(第七稿) 二七頁
===============
 ここで唯識を紹介して置こう。

 前に云ったように佛教哲学である唯識はこころを
層に分かって説明している。

 心の最奥底(基盤)を第九識と数える。
 第九識は一面ただ一つ、他面個々別々である。

 第九識を其の個々別々と云う方面から見た時、
これを個(叉は衆生)と云う。この数は無数である。
個は一切生物の中核である。

 佛教の一宗に、前に云ったように「光明主義」と云うのがある。
此の宗派では唯一つと云う方面から見た第九識を如来と云う。

 各個の関係は、不一、不二である。個と如来の関係も不一、不二である。
=================

こういう説明を読むと、第九識を 「アートマン」とか
「ブラフマン」とか置けば、アドヴァイタ的な一元論に
なってしまうように、みえます。

ただ、この九識からさらに、十五識くらいまでは数えるので、
単純にアドヴァイタ的である、とも言えませんが、
考え方の構造が、
ウパニシャッドとすごく似ているところがあるように思うのです。

個我と最高我は、不一不二と見る見方も似ているでしょう。
他にも、随所に、ウパニシャッド的なものを感じて仕方ありません。

でも、
最終的に、岡潔が、「造化」と呼んでいる神に、
どのような解釈をなすのか、
そこにかかってもいるように思います。


何か、
期待のようなものもわいてきます。

構造的に、変化しうるようにも、
つまり、ウパニシャッド的なものを超えるようにも、

岡潔なら、そう理解するかもしれない、とも思うからです。


「変化を説く」


このことを、どこまで、「造化」の枠の中で書いているのか
あるいは
このことを、「造化」をも超えてしまうところがあるのか

見ていきたいと思っています。
どうでしょうね?

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        ◇◇◇

一気に読まずに、
こんなにさみだれ的に読んでいるのも、珍しいのですが、

でも、

ものすごくおもしろい本だと思います。

誰も、こんなことを考える人はいないだろう、というところで、

純粋に希有な本でありますし、

でも、

誰もが、どこか、こういうことを考えてみたことはあるだろう、
というところで、

純粋にありふれた本でもあります。

そして、こういう風に 「純粋に」 といいたくなるところに、
数学を、感じてしまう。。。

Dsc00714s


       ◇◇◇


おもしろいと思ったところを、もう一つ書いておきましょ。

『春雨の曲』(第七稿) 120頁。
======================

「人には固定された自分と云うものは無いのである」
この原理さえ充分わかれば、
また日本民族が何よりも好きならば、
男ならば誰でもτ₁⁰の分身だから
わたしと同じ経験をすることが出来る筈である。

====================

「 τ₁⁰ 」 というのは、 男神 T(月読の命) の 分身(?)

天地開闢のはじめに生まれた男女一対の男の人を指す。
「 ₁ 」とあるのは、始めの意味で、「 ⁰ 」とあるのは、分身。

数学的ですね、こういうところ。
質的に同じ、という感じがしてきます。

で、

おもしろいのは、「 固定的な自分が無い 」というところです。

どっちに行くのか、興味深いです。

「どっち」というのは、

「 固定的な 」というのが、無い  という風に行くのか
「 自分 」  というのが、無い   という風に行くのか

という、「どっち」です。

この分かれ方で、ずいぶんちがってきます。

「固定的な」というのが、無いなら、
すべてが一つの原理から生じてくる、という感じ。

「自分」というのが、無いなら、
すべてが固定されない、という感じ。

ここかな、
ポイントみたいな気がしますね。

願わくば、「自分」が無い方で、行きたい、行ってくれぇ。

こうすると、多変数解析関数論、っていうのも、
どこか、分かりそうな感じがしてきます。

ブッダにも行けるかもしれないし、ね

ウパニシャッドに行くのか、ブッダに行くのか、みたいな。

じっくり読むべし、ね!

Dsc00715s


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コメント

みなかみさま

雨の気分と岡潔は、よく似合いますね。
自分のこのブログを読んで、てっせんの花の写真を入れたのは、合っていたなと思っているところです。

しばらく前に読んだもので、ちょっと忘れていましたが、次第に思い出してきました。
岡潔独特の世界が蘇りますね。。何ともいえない感じがしてきます。

>  「不一不二」とは何か?:岡潔博士、グリア博士、フラーの解釈 http://quasimoto.exblog.jp/22826165/

ありがとうございます。
しみじみしたい。。

この感覚とこの香りは、やはり、岡潔の世界のウパニシャッド的な、そして、神道的な思惟へと誘うものだ、という気持ちがしています。

明らかに「こういう世界がある」と言っている世界を示しているように感じてなりません。

よく味わってみたいです。

投稿: 管理人エム | 2017/05/15 05:56

> 超能力者の秋山眞人さんは「人の心は一分一秒たりとも同じところにはないんです」と言っていました。

同じところにいるかどうかは
同じところから 観測しないと 言えないことです

超能力者の秋山眞人さんは 
人ではないから 同じところにいることが適うようです

投稿:  春間 則廣  | 2017/05/14 15:46

「固定された自分というものは無い」というのは、自分というものは千変万化・四季のごとくうつろいゆくものであるという意味だと思います。
超能力者の秋山眞人さんは「人の心は一分一秒たりとも同じところにはないんです」と言っていました。

「男ならば誰でもτ₁⁰の分身だから、わたしと同じ経験をすることが出来る筈である」。
「男ならば誰でも月読尊の分身であるから、私と同じ経験をすることができるはず」。月読命といえば「懐かしさそのもの」と言っています。そこから流露して「喜びそのもの」となって、さらに流露して物質になるのではないかと思います。これは宇宙の歴史を辿るようなものではないかと思います。さも赤ん坊の成育が、生物の歴史を辿っているように。

岡潔思想研究会と岡先生の既刊本の軽く読んだ程度の青二才ですが、こんなふうに思いました。不一不二については井口和基博士のブログに書いてある「フラクタル(自己相似系)」の説明が、私は腑に落ちました。その記事はこちらです。↓

  「不一不二」とは何か?:岡潔博士、グリア博士、フラーの解釈 http://quasimoto.exblog.jp/22826165/

私もいつかは岡先生の『春雨の曲』が読んでみたいので、早く復刊するといいなあと思う今日このごろです。

投稿: みなかみ | 2017/05/14 13:55

遠佐さま

> エム先生、読んでいらっしゃるかな、と思っていました。

ああ、すみません。
本の仕事をしていて、これが、7月に入ったら終わるはずだったのですが、長引いていて、なかなか落ちついて読めません。

すごく気になっているので、本を書いていても、つい『春雨の曲』を考えてしまいます。

岡潔は、どこまで追求したんだろう、どこまでいったんだろう、というのが、もっとも知りたい疑問です。

帰納的な追求は、どこまでも進みますが、演繹的におさえるということがあると、どこかで折り合いをつけることになるのだろうと思うのです。
造化というのが、どこで作用してくるのかを見つけることができればいいのかな、とか、ぼんやり思っています。その辺が、モヤモヤしていて分かりません。

ここ1-2日で終わらせて、『春雨の曲』に行く予定です。
すみません、ほんとうに。
待っててください。

投稿: 管理人エム | 2014/07/22 07:33

 エム先生、読んでいらっしゃるかな、と思っていました。
 今私は鬱で負のスパイラルです。どうにかしたいのですが。
 春雨の曲も、第八稿読んで、これは証明抜きの数学だ、と。第七稿読もうか読むまいか、つまみ読みしようか、と思っています。
 もうこれに時間をかけるには私の人生は残り少ない。もっとも、何時終るかわからないという気持ちで、読む本を選択しなければいけないのでしょうが。今は本をたくさん捨てようと思っています。

投稿: 遠佐 | 2014/07/21 16:42

前世は一在家さま

>変性女子、変性男子という言葉もあり、疑団ですね。

たしかに!
ほんとですね。

これは、どう解釈したらいいんでしょうか。

岡潔としては、自分は男に生まれることに決まっているように思っていたのかしら。。。

もっとよく読んでみますね。どこかに何か書いてあるかもしれません。

7月に入ったら、集中して読んでみます。

投稿: 管理人エム | 2014/06/25 07:11

ミチ先生sun、住人各位、おはようでごんす。

>男ならば誰でもτ₁⁰の分身だから
>天地開闢のはじめに生まれた男女一対の男の人を指す。

変性女子、変性男子という言葉もあり、疑団ですね。

幾多の輪廻の中でずっと男ばかり、女ばかりとは思えませんので。
撫で肩の男性は前世は女性で、いかり肩の女性は前世は男性かも。

投稿: 前世は一在家 | 2014/06/24 06:36

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