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2014/06/11

お釈迦さん、お釈迦さん、あのねのね

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いつも似たような花の画像なので、たまには、こんなのも。
北海道大学理学部の建物です。

絵はがきみたいですね。
で、やっぱり、花の画像も。
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最近は、お天気があまりよくないですね。
梅雨っぽい雰囲気がただよってきました。
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         ◇◇◇


今、『サンガジャパン』という雑誌に寄稿してきたものを、
読み返しているところです。

毎号欠かさず執筆させてもらって、
とうとう17号までやってきました。

書いたなあ、という感じです。


時間があれば、
もっと丁寧に調べられるんだけど。。。

という思いが、いつもありながら、

でも、

時間があっても、
なかなか実際はできないだろうとも

思いながら、

締め切りに追われて、書いてきました。


うーん、仕方ないす。。
これが、自分の実力なんだし、

って、ところかもしれないです。


まあ、書いたものは、大事にしよう。
もう少し、
練って、自分の中で育てよう、って思ッてるところです。


         ◇◇◇


それにしても、思うことは、


なんだって、

お釈迦さんは、

こんなにもむずかしいんだっ!!


って、ことです。


『サンガジャパン』の雑誌の、たくさんの記事は、
それぞれ現代という時代を切り取っている感があります。

時代の中で、知識人の人々や活動家の人々、
学者や修行者、お坊さんなどなど、
たくさんの人達が、寄稿したり、対談をしています。

専門的でむずかしい話しもたくさんあるけど、
だけど
お釈迦さんのむずかしさには、かなわない。


ことばは平易で、簡単そうに見えても
お釈迦さんのわからなさは、
ほんとに天下一品のわからなさだ。


お釈迦さんのことばを、
自分が扱っている記事は、

そこだけ、
自分だけ

もだえている感があります。


雑誌の中で、自分だけ浮いてるなあ

とか、思いながら、

浮きっぱなしに浮いてますねぇ。


わたしにとって
お釈迦さんとは何か?


格闘してはねかえされるもの!


あたってくだけるもの!


かみついて歯が折れるもの!


這い上がって落ちるもの!


だけど、どこか、
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癒されるもの。

どこか
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すがりつくもの。

こう、書いてみると、
たんに、自分が、矛盾してるだけも。。。


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コメント

>  でも、世の中がどうでも、
   やっぱり、自分は善いことをして悪いことはしないようにしよう、
   とか、思っている人たちが多いのも事実なのですが。   <

どういう世の中であるか ?
世の中を、 「世間」 と読めば、虚仮に入ります
夜の中 と 読めば 夢の内 (五里霧中)
仏の在する世 と すれば、一つの仏世界(仏国土)

善い悪いに、自我から挑むのが、衆生の生
真理に“たがう” ことなきが、善であると、
(仏は)在世で語り、
如是我聞と 言葉にする菩薩

「とか」 という時の、 “ホカ” は あるよう で、
善くよく穿つ までは、あるような気がする“想い”にあるだけ

自分の、尺度に適う時に、人は存在を認め、
(そうで)“ある” という

だから、ある無い は 縁起に “ある”

多い少ない  も、 覆いが多ければ、
表われているところは、多いと言ったところで、
裏にある多さ に 支えられている 、、、、

“一人” の “思い” が 少なければ、
その  一人の人(瞑想にあるブッダ) の思いは、少ないかな ?

慈善事業に関わって、人は善いことをしていると、安心する
その事業が、何に向かっているかは、その思いにある人の顛倒によって決まる
善いことをしている と 思うから、(その時)そう思う だけで あって、
悪いことかもしれないと、不安を持つことが出来る時に、
初めて、
その悪いこと(慈善事業)が、善い方向に変わっている
( ブッダはそうして、その道にあり、今も説く )

端緒 とは、 そういうふうに顕われ出、
“発起”とは、そういうところから起きる

悪いことかもしれないと思う、「発起心」 を
 「 大乗起信 」 と いい、  “御国への道につく” とも 表される


> 生と死も、学生の中から、意表をつくような意見が出てきそうな気もしてきます。

(意)表 を つく時に、裏が顕われ出る
表はいつも、顛倒にあるから、
裏から つついて、菩薩が地涌する

意表を突く とは 地表をつくこと
地表とは、意識の地平 
いくら広がりをもっても、ささえられるところがない
頭蓋 の 覆う ところ

言葉で割れるといっても、割り方は、割り切っている自分に拠る

投稿:   春間 則廣   | 2014/06/22 06:34

前世は一在家さま

>ある先生が「生と死の区別無し、善と悪の区別などあろうか。」と授業で言った場合を想定しては如何でしょうか。

生死は、ともかく、善悪は、哲学の講義でやりましたが、生徒の方から「善悪は、人それぞれで決まらない」という意見を出てきたりします。

善因楽果、悪因苦果というのも、世の中ではあまり成り立っていないようだという意見もけっこうありました。

でも、世の中がどうでも、やっぱり、自分は善いことをして悪いことはしないようにしよう、とか、思っている人たちが多いのも事実なのですが。

生と死も、学生の中から、意表をつくような意見が出てきそうな気もしてきます。

哲学の講義だから、こうなるのかな?


投稿: 管理人エム | 2014/06/21 22:59

ミチ先生sun、おはようございます。

>旦那さんは、絶対奥さんに言っちゃだめ。
>奥さんも、旦那さんの趣味には素知らぬふりで。
>そういう、わたしは、いったいどっちにころべばいいんだろう。。。

この譬え話で、旦那を先生に、奥さんを生徒に置き換えれば、どっちにころべばいいか分かるのではないでしょうか。

ある先生が「生と死の区別無し、善と悪の区別などあろうか。」と授業で言った場合を想定しては如何でしょうか。

投稿: 前世は一在家 | 2014/06/21 10:37

前世は一在家さま

>もし座禅が趣味の旦那が少し酔って奥さんに「生と死の区別無し、善と悪の区別などあろうか。」と言ったとします。

この旦那さんと奥さんの会話、どっちもよくわかります。

旦那さんは、絶対奥さんに言っちゃだめ。
奥さんも、旦那さんの趣味には素知らぬふりで。

これが、苦楽を離れる 中道 なりぃ~

って、ところかも。

そういう、わたしは、いったいどっちにころべばいいんだろう。。。coldsweats01

投稿: 管理人エム | 2014/06/17 20:32

2013/07/06

> 経典は、並んでいる。
> ことばが並んでいる。
> 行いが並んでいる。
> そして、心も並んでいる。


> 善い心も
> 悪い心も

悪い心がある時に、善い心が起きる
悪い心がそこになければ、善い心もそこにない


並んでいる悪い心は、善い心に読まれて、
善い行いに回向されて、
善い心となっている

悪い心は、ない

あるうちは、悪い心にある

投稿:   春間 則廣   | 2014/06/17 10:30

ミチ先生sun、住人各位、こん**は。

>たとえば、日常まじめに暮らしていて善悪をわきまえている、と思われるような人がいうなら、「おお?!」って耳をかたむける人もいるかもしれませんが、かなりアブナイことはアブナイです。

もし座禅が趣味の旦那が少し酔って奥さんに「生と死の区別無し、善と悪の区別などあろうか。」と言ったとします。
多分、奥さんは激怒して、
「休みの日にあんたがお寺で坐るのは趣味だと思ってみてきたけど、そんな危ないことを言うなら今すぐ座禅は止めなさい。
もし子供達にそんなことを言ったら離婚ですから。」との夫婦の会話が想定されます。

>空を先に読んでしまうと、善悪を忘れます。順序が大事になってくると思います。

先生の至言がまた一つ増えましたね。happy01

前回の至言は「一切智もまた衆生済度の為にある。」でした。

投稿: 前世は一在家 | 2014/06/12 20:43

>>むずかし い ( く“する” ) のは、
自分の見ている生き様が根拠であるから

>それが、わかっていても、やっぱりむずかしい
>生きるということは、そういうことなんだ、と、無限遡及を眺めています。


それさえ分かれば、簡単なことが目の前にある
見ている生き様を、正しく見ることができれば、
正しいモノの見方が出来ている

それが、顛倒のない、簡単な生き様

顛倒を重ね、それ(その顛倒)を顛倒に因って眺めると、
複雑で、難しい様相を見出す

顛倒なく、自己の起こした顛倒を見る時、そこに顛倒があっても、
見る者には顛倒はない

先にあなたが、言及した、
一切不浄 の 眼で眺めると、不浄が見えなくなる
ということはあり得ない

生老病死を見つめて、その労苦を知る時に、ブッダは成就した

知る対象がなければ、知ることはおきない

知っていることだけで判断すると、顛倒で判断することになる

無限であるということに縁起するところを知れば、
“ 即今 ” に “生きる” ことが適う

誰にでも適う、その生を、誰でも生きている
諸仏は、そうした仕組みで 成就している

      ・angry

投稿:   春間 則廣   | 2014/06/12 09:02

>むずかし い ( く“する” ) のは、
自分の見ている生き様が根拠であるから


それが、わかっていても、やっぱりむずかしい

生きるということは、そういうことなんだ、と、無限遡及を眺めています。

投稿: 管理人エム | 2014/06/12 08:03

前世は一在家さま

>それは釈尊の対機説法における「四悉壇」が因だと思います。

うむむ、なるほど。。そういう方面も、確かにありますね。

いろいろな説法を見たり聞いたりしてしまうので、どうしても、混乱してしまいます

この四悉檀説、何とか、もう少しわかってもらうため、なるべく世に出していくように心がけてみます。

>例えば家庭や職場で「善と悪の区別などあろうか。」などと言ったら、危険な人物だと見做されて孤立しますでしょう。

ことばは、ほんと文脈が大事ですね。それと、日々の行動と。

たとえば、日常まじめに暮らしていて善悪をわきまえている、と思われるような人がいうなら、「おお?!」って耳をかたむける人もいるかもしれませんが、かなりアブナイことはアブナイです。

沈黙も、大事な語りである、ところ、お釈迦さんから有効に学びたいですね。
語る、というのは、むずかしいなあ。。。。。 think

投稿: 管理人エム | 2014/06/12 07:58

>ことばは平易で、簡単そうに見えても
>お釈迦さんのわからなさは、
>ほんとに天下一品のわからなさだ。

それは釈尊の対機説法における「四悉壇」が因だと思います。
でも、最近ミチ先生sunが論文を書いて下さったので「なあんだ、そうだったのか。」と腑に堕ちた人も結構いるのでは。

更に第一義悉壇は「言葉では表現できない」と幾度も伺ってきましたが、最近「言葉では表現してはならない」と思いました。
例えば家庭や職場で「善と悪の区別などあろうか。」などと言ったら、危険な人物だと見做されて孤立しますでしょう。

投稿: 前世は一在家 | 2014/06/11 22:10

>>  なんだって、
>>  お釈迦さんは、
>>  こんなにもむずかしいんだっ!!


むずかし い ( く“する” ) のは、
自分の見ている生き様が根拠であるから

お釈迦さんって、なんて簡単なんだろう

一番簡単なことを、簡単に分かりやすく説いているから、
誰でも(わたしでも) それを 聞いて、見て
自分の人生に(お釈迦さんの生き様を)活かすことが出来る

自分の生きざまに、お釈迦様のそれを重ねて、
同じと知ることが適う


むずかしい考え方を好むとき、
むずかしい聞きかたが好まれている

簡単な生きざまを見る時、お釈迦様の言葉にその証を見る

証があるから、正しいのではない
正しいから、明らかにされていることと一致する

わたしにとって、
お釈迦さまとは、
自分の姿にほかならない

すべての 無明・労苦 を知るから、
すべてに通じて語ることが適う

誰の人生にも、そのすべてがある

だから、お釈迦様は、それを見ている

目の前にいても、いると認めなければ、
いるということが出来ない
言ったところで、「 虚仮 」 となる

いるかどうかは、目を凝らせば、誰にでも分かる

どの様に分かるか (どういうふうに、分かることを選択するかは)
は 、
見る人 次第 (見られている自分次第)


投稿:   春間 則廣   | 2014/06/11 07:23

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