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2014/04/13

『サンガジャパン』vol.17 仏教とキリスト教

2014sanga17

今回の『サンガジャパン』Vol.17は 「仏教とキリスト教」の特集です。

わたしは、執筆の期間が短かったために、
日頃、講義などでも扱っている内容を書きました。

そのため、ちょっと、ありふれていた内容だったかも。。。

って、いう気がして、申し訳ないような感じもありましたが、

出来上がってみると、
あまり、そんな感じにも見えず、ちょっとホッとしました。


問題そのものは、けっこう普遍的なところもあり、
それぞれの宗教に特徴的なところもあり、

というところで、
自分的には、よかったかな、と思っています。


教えの中でも、とくに大事なところ!

のような気がします。


なにせ、 

「愛(いとしいもの)」 

という、テーマですから。
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キリスト教では、「愛」は、大事な中でももっとも大事 ですが

仏教では、どうなん?

と思われる方もいるでしょう。


わたしにとっては、

「愛」は、仏教でも大事な中でももっとも大事、だと思います。

「愛 (いとしいもの)」

これを語って、語り尽くせないなら、
どうして、宗教と言えようか、
どうして宗教でありえようか、

という気もします。


「愛 (いとしいもの)」の、マイナス面もプラス面も、

素朴に語れ
深く語れ

その心のありようを。


というところでしょうか。


       ◇◇◇


ブッダは、愛の根を示しています。
イエスも、愛を露わにしています。


いとしいものは、
ただの感情であらわされるのではなく
ただただ、関係で築かれていくのだ
と思います。


       ◇◇◇


特集の巻頭言に

ティク・ナット・ハン師の言葉があって

「真の幸せを知る仏教徒は同時にキリスト教徒であり、
真の幸せを知るキリスト教徒は同時に仏教徒であると
私は信じます」

と、説かれています。

もし、ほんとうにそうなら、共通項がありますよね。

きっと、それは 「いとしいもの」 というのにちがいない、

ということも思ったのですが、ほんとかどうか、確信はもてません。

つらつら考えていくと、キリスト教も仏教もなくなりそう。。。


 いとしいもの をもつ人は、いわゆる 「宗教」ということから離れる


とも言えそうですね。
そんな気がしてきた。。。
Dsc00580s
「宗教」があってもなくても、サフランは、今、愛しい。

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コメント

> ハハハ、これは名付けて「すってんてん」。

すばらしい(笑)。
空の境地、「すっからかん」と相通じますね。 happy01

投稿: 管理人エム | 2014/04/29 16:31

>「お手上げです」というのは、実は、なかなかすごいことばではないか、という気がしてきますね。

ハハハ、これは名付けて「すってんてん」。ちょっと木に登って見ました。happy01

投稿: えび天サンバ | 2014/04/28 12:14

春間さま

「いかがかな?」 と来ましたね。

>証明できていなくても、出来ているということになります

これと、エビ天サンバさまの「お手上げです」をたして、出てくる道が、仏道でしょうか。

他には押しつけないけど、自らには信がある。。。こんな感じでしょうか。

主体性こそ真理である

真理のひびきを感じますね。

投稿: 管理人エム | 2014/04/27 21:16

エビ天サンバさま

「お手上げです」というのは、言ってみれば、証明を乗り越える道ですね。

ブッダも、だから、「争ってはいけない」と言ったのですよね。
「お手上げです」というのは、実は、なかなかすごいことばではないか、という気がしてきますね。 confident

投稿: 管理人エム | 2014/04/27 21:07

> 対外的にアピールはできないのが、「証明できない」ということでしょうね。


> 。「証明できない」は、相手には納得してもらえないかもしれないが、自分たちは、教えを実践し続けている、それが、自分たちの「証明」です

と 、 言葉に出来ます
「 それが、赤です 」 という時に、その「赤」は、証明することではありません
「 しかし、それが、この赤です 」 と、 言葉に出来ます

この「赤」 を示しても、それを「赤」と認めないものに、
赤 は 虚しく響く 、、、、 ( 言葉 は 「空」 となる )
 
倶舎論(アビダルマコーシャ) では、
観念は本来誤謬である  とされます
真実には、その対象ではない個物を認識していると信じ疑わず
真実には、相異なる個物とその観念像を、同一であるとみなし
個物とその観念像に対して、“誤った” 特質を付与する    ということです

異なる観念が同一個物に関連する
同一観念が多数の個物に関連する

観念の対象は個物自体ではない
( 異なっている ということによって成り立つ 複数の個物は、
         同一観念によって認識され得る同種性を保有しない )


出来ないことを証明すること は、
出来ること を証明すること と 同義です
( 証明できることの内に入ります ))

証明できていなくても、出来ているということになります

これを、言葉の綾で済ますと、
言葉の証明が出来なくなり
使うことが出来る言葉で、涅槃に行くことが出来なくなります


(伝統的)ドイツ(哲学)風に考える時 「真理」 を 求める時、
求めるモノが、いかなるモノかを把握 していなければなりません

「 主体性 こそ、真理である 」 キルケゴール  (ヘーゲルに対する批判)

管理人 エム 様 いかがかな ?


投稿:  春間 則廣  | 2014/04/25 08:14

ゲーデルの場合は、「証明できない」ということを「証明した」と言っていませんでしたっけ。つまりそこから先はお手上げです、ということになるのでしょうかね。僕にもお手上げです。coldsweats01

投稿: えび天サンバ | 2014/04/25 02:47

> ブッダの悟りについて、『サンガジャパン』で書いたとき、悟りの証明は、ブッダは、生涯をかけて証明し続け、今も、まだ証明している、って書いた記憶があります。
それは、人々に教えを説き、実践し続けている、ということですね

人は生きている
ということを、迷謬すると(自分の生き様を見つめないと)
自分の言語化した対象が、働きを為していないと迷謬し、
「 シンデ イル 」 と いる と いない とを、顛倒する

生きているということは、
自らに働きかけるモノが(生きている者から)ある
ということです

( 自分を見つめる時に、見つめられる自分に、働きを受けている )

自分の自我 を 自分とすると、
自我に沿って、万物の価値を商量する

自我が価値を認めないと、死んでいるとする
(死んでいるということさえ、迷誤に沿って観念化する)

生きている・死んでいる  その 言語化の シャベツ は 
顛倒するモノ の シャベッツクリ どうりではないことを、
 “顛倒している” と いう

仏法 = ブッダ = 仏陀
ブッダ は 、 心中即近 = 眼前 に いつも 瞑想している
「  ブッダ非遙心中即近  」

死んでいる という意味 は、そこから 自我 が 、
仏法を受け取ることが出来ない  ということに過ぎない

投稿:  春間 則廣  | 2014/04/23 08:00

エビ天サンバさま

>「証明」というのは実践のことなのではないかと思います。

そうですね!
以前に、ブッダの悟りについて、『サンガジャパン』で書いたとき、悟りの証明は、ブッダは、生涯をかけて証明し続け、今も、まだ証明している、って書いた記憶があります。
それは、人々に教えを説き、実践し続けている、ということですね。

ゲーデルの場合は、どうなるのかな。「証明できない」は、相手には納得してもらえないかもしれないが、自分たちは、教えを実践し続けている、それが、自分たちの「証明」です、ということになるのかな。

投稿: 管理人エム | 2014/04/23 03:59

「証明」というのは実践のことなのではないかと思います。提供、と言ってもよいかも。

投稿: えび天サンバ | 2014/04/22 21:05

> 命題をおく時点で、真偽は 決しています

実際問題、そうなんですよね。
だけど、それを対外的にアピールはできないのが、「証明できない」ということでしょうね。

世の中は、こんなもんです。。。

投稿: 管理人エム | 2014/04/22 16:49

> 「自分の体系」を少しずつ広げていけば、ブッダの「一切」に通じるかも

「自分の体系」 のなかで、 “ 真とも偽とも証明できない命題 ” 

命題をおく時点で、真偽は 決しています

そういう命題をおく、「自分」 が あるかどうか ?

その自分が、「 洲 」 であるかどうかは、「自分」 が 決めている
( 命題として置いてみれば、真偽は決することは出来る  )
( 決したくない時には、 決することが出来ないと決める )

広げる (自分の周りにおく)円 は、限界に過ぎない

どれだけ広げても、一つの円に相違がない

bell

仏エン(仏法) は、 「 非遥 心中即近 」

遠近・大小  は 縁起 に  過ぎず(起きる)

投稿:  春間 則廣  | 2014/04/22 07:59

エビ天サンバさま

下の方の「自己は絶対」は、ちょっと自信がありません。「空」の方は、前から、そんな感じがしてました。

「自分の体系」を少しずつ広げていけば、ブッダの「一切」に通じるかも。note

投稿: 管理人エム | 2014/04/22 06:25

僕の言い方でいえば、苦しみや悲しみを分かち合うための家族や教会、友人などの存在が、先生の言葉でいう「自分の体系」ということになると思います。いつもありがとうございます。

投稿: えび天サンバ | 2014/04/21 09:27

エム先生、相変わらずサービス満点cat。非常によいです。しばらく味わわせて頂きます。

投稿: えび天サンバ | 2014/04/20 18:59

エビ天サンバさま

エビ天サンバさま的には、神と隣人は、ゲーデルにいくんですね!

どういう風につながっているんでしょう?

わたしも、この不思議な三角関係を、ずっと考えていました。ゲーデルにもかかわるのか。。ありえますね。そこも潜在意識にあったかも。

隣人愛を徹底すると、神は空になりますね。そうすると、絶対他者である神が空なら、自己も空。自分の体系は自分自身で無矛盾を証明できない?

神を絶対とするなら、自己も絶対。自己のように愛する隣人は、自己に含まれる。自己が絶対なら、自己は自己を知っているはず。となると、’知らない’隣人があってはならないが、隣人なら知っているとは言えない。自分の体系の中に、真とも偽とも証明できない命題がある。。。

どうかな。。変でしょうか?

投稿: 管理人エム | 2014/04/20 14:12

神と隣人、これはまさにゲーデルですね。happy01

投稿: えび天サンバ | 2014/04/19 21:51

エビ天サンバさま おはようございます。

>両者はともに自我を直接的なテーマとしている点でやはり同じだと思う。

わたしも、そう思いました。「自己の探究」ということ、やはり、仏教もここに尽きるかな。

今回、イエスの立場が良くわかってきた感じがあります。

「行い」という点から言えば、自分の行いにかかわるかぎり、隣人愛を徹底することが求められ、それが神への愛に直結していると見るんですね。

エゴを出してしまうことが、不幸(苦)につながる、と見て、それを自然におさえるシステムを、イエスもブッダも考えているように思います。

自分でも、従来の仏教解釈とは、少しちがう視点を見出したような気がした今回のテーマでした。

投稿: 管理人エム | 2014/04/19 07:46

縁起=空から行くか、神実体を措定するかのアプローチの違いはありますが、両者はともに自我を直接的なテーマとしている点でやはり同じだと思う。ハン師の言葉に同感です。

投稿: えび天サンバ | 2014/04/18 21:38

直ぐ近く のことを、離れている  と言います

遠きにありて  思う 時に、
心の近くに、思いを呼び寄せます
( 思いの近くに、心を近づけます )

愛しいモノ は 手の届かないところにあるから
欲しいモノとなります

身にする(なる)までは、欲しいモノ
(  軽く読むと、「 論理 」 に “ 離れる ”  )

>  いとしいもの をもつ人は、いわゆる 「宗教」ということから離れる

アガペー は 人の間にも成り立ちます
神の愛(アガペー )は、神にあるから、宗教となりえます
人の間に成り立って、人はそれを知る
知るには、その実践が根拠となる

根拠を持つ人は、「 宗教 」 から離れるかな ?

離れるということ(遠近) を 縁起と知るまでは、
「 仏法非遥 心中即近 」 の 意味をたがえる


投稿:  春間 則廣  | 2014/04/15 10:45

前世は一在家さま

>釈尊は慈悲、イエスは愛、孔子は仁と、世界の三聖は「仁愛」という根本原理を説かれたということでしょう。

ああ、ほんとですねぇ。。
そして、それを説いただけでなくて、身をもって示された、ということですね~~。

ああ、遅れる、ではでは。

投稿: 管理人エム | 2014/04/15 08:55

ミチ先生sun、おはようございます。

釈尊は慈悲、イエスは愛、孔子は仁と、世界の三聖は「仁愛」という根本原理を説かれたということでしょう。

そしてこの根本原理は『共通項』となり得ます。

投稿: 前世は一在家 | 2014/04/14 07:15

ブッダ の 意味することは、人の(保持していると信じる)真実によって変わります

本当に信じている時には、疑うことがありません
「わたしは真実を保持していない」 という真実

「愛」 も同じ です
ましてや、 “LOVE” の 意味はするところは 、、、

“LOVE” を 「愛」 と訳したところで、「愛しい」 と訳そうと、
その “LOVE” は
884..
  かれらはめいめい異なった真理をほめたたえあっている。それ故にもろもろの<道の
  人は同一の事を語らないのである。
と同じく、
同一のことを語られていると迷誤される

語が、対象表示を比量する
対象にあらざるものを否定する観念のアポーハ(離)

言語は、観念の分離によって、対象の共通性を認識とする
(詳しくは、ダルマキールティにあたるとよい)

更に発展した考察は、金倉園照「インド精神文化の研究」にて、ラトナキールティにあたるとよい

投稿:  春間 則廣  | 2014/04/13 22:01

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