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2013年11月3日 - 2013年11月9日

2013/11/06

論理について

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magagiokさま

論理学というのは、目的をもった学問です。

世界について、それを「一切」と規定して語り、
どこまで、一貫して論理をつらぬけるか、
それを追究する学問だと思います。

論理的な基準を設けたら、それを変えずに、
どこまで世界を語りうるか、
そこが論理のおもしろさと醍醐味です。
ときに、現実と矛盾するように見えても
論理を優先して語るということもします。
その体系は、閉じていることが完全性を示しますが、
なかなかそれはむずかしいのです。

矛盾をみせるとき、そのとき、
どのように論理的に折り合いをつけるかも、
論理の仕事です。
命題論理は、論理の一貫性を命題計算の中に認め、
論理的に閉じていることを優先させようとしています。

ですから、論理上はなり立ちますが、
現実的におかしな点も出てくることになるのです。
それは、重々、承知していることなのです。

現実と合わないから命題論理が間違いだ、ということは、
そもそも、論理の出てきた筋道を知っていない、
と批判されることにもなるでしょう。

わたしは、それは十分承知した上で、
命題論理の計算性の上からも、
実は、問題が出てきはしないか、
と、ちょっと指摘しているのです。

これは、まじめに考えてみると、
論理学者なら、何を言わんとしているか、
わかると思います。

命題計算が、体系の中で自在に行われて、
必ず解をもつとするなら、
要するに、
命題計算において体系が「閉じている」と言えるなら、
そのとき、その計算は、

◆◇ 何ごとも述べてはいないだろう ◇◆

と、いうことを指摘するものだからです。
計算しても意味がないのではないか、ということを、
暗に示しているのです。

即ち、真理表の一行目がなり立っていれば
(特に前半の八つについて)、
命題計算は、可能ということになります。
(真理表3も含意の変形として認めたとき)

この辺は、自分で検討してみてください。

これに対して、
論理学者がどう答えるのか興味がありますが、
それは、今のところに沈黙で、答えてはくれません。


        ◆◇◆


一方、わたしの提示したブッダ論理なるものはどうでしょうか。

これは、「現実」というものを、論理の基準にするもので、
認識による「あるがまま」が基本であります。
この点を、
論理的な一貫性を持ち出すために、「縁起」という関係が、
ブッダにより見いだされたのです。

ですから、その点では、論理的に一貫します。
それは、自分でも証明済みという風に思っています。
どこまでも「縁起」を貫いていけるのです。

なぜなら、現実というのは、時間により制約を受けるので、
その「時間」を「順序」に置き換えて、
論理として取り込んでいるからです。

時間をもたないように見える、思惟の世界のことですら、
「思惟の世界だ」と意識するとき、
思惟の流れとして時間が入ってきます。

思惟そのもの(思われた内容)は、
時間を意識しなくても構いませんが、
それをあらためて考えるときに時間が入ってきます。
これが世俗諦です。

第一義諦も、言語によって語られることによって到達されます。
ここにも時間が入っていることがわかります。

そして、思惟の世界について、時間を抜いて考えたいとき、
縁起から導かれる「空」の論理が活用されます。
時間から逃れることはできません。

そして、
最後の到達点「涅槃」は、論理外として、
語られることはありません。


◆◇語りえぬことは、語るな◆◇


論理の鉄則です。これを守って、ブッダは語りました。
語りえぬことと語りうることをきちんと分けることが、
「論理」ということだからです。


ですが、
このブッダの論理にも、欠陥がないわけではありません。

論理的に閉じている世界を、現実に重ね合わせる形で、
ブッダは、取り出し示してみせたのですが、

しかし、わたしが、命題論理の欠陥としてあげたような
「何も語らないことになる」という指摘は、
ブッダの場合には、どうなるだろうか、ということなのです。

実は、これは、ブッダにもあてはまります。
うまく涅槃まで到達しうるなら、
論理的には何も語られなかったことになります。


ただ、論理的に語られていると言える場合は、
輪廻にあるときのみなのです。


ブッダ論理は、輪廻にある場合に限って、
非常に有効にはたらきます。

涅槃に到達したものには、
捨てるべき筏に過ぎず、
論理は必要なくなります。

そこまで説いたのが、ブッダの論理です。
語るものと語らないもの、
これらが厳密に線引きされているのです。


       ◆◇◆


命題論理は、真理表に定義づけられた接続詞を用いて、
命題計算することが可能です。
否定、連言、選言、含意、等値とおおよそ五つが一般的です。
他にもありますが、ふつうは、これらです。

この中で

真理表の3を
「真理表の5(含意)における前件と後件を入れ替えた関係を示すもの」
とするとき、

あらゆることが、一見計算可能であるように見えるのですが、
それは、
あらゆるものがあらゆるものとあらゆる関係を結びうる、
という、
ただの「有」の理論を推し進めることになるだけではないのか、
という風に、考えています。

「何があるのか?」「何でも!」 (クワイン『論理学的観点から』の序文より)

このように答えた、クワインの問いと答のように、
あらゆるものを、結果的に、無秩序に認めることになる論理が、
西洋論理である、と理解しています。


このことは、ブッダに出会うまでは、
わたしには知られませんでしたが、
ブッダの世界を知って、
また、
命題論理にも、それが語りうる世界があることがわかりました。
パルメニデス、プラトンと続く
「ある」という存在論の強固な世界です。

語られる世界が、「ある」の存在論として示され
語る論理が、西洋論理学としてあると、理解しています。

これに対して

語られる世界が、
「あるのでもなくないのでもない」の認識の世界として示され、
語る論理が、ブッダ論理としてあると、理解します。


終わります。
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おじぎにみえる?

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2013/11/05

久しぶりに『無畏註』などなど、雑記

やっぱり、紅葉の残り物で、ごめんちゃい。
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何だか、おもしろい紅葉の写真かな、って、思うので、アップします。

それに久しぶりに、こんなのも。
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何とかと煙は、高いところが好き、っていうけど、
「何とか」って、サムのことだったのね。

ダン吉君は、ぜったい、高いところにはあがりません。

重くてあがれないかも。。ダン吉よ
ネコであることを捨てているのか、君!

なかなかだっこさせてくれないし、すぐ逃げるけど、
最近、それでも、だいぶなついて、
鼻をすりすりするまでになりました、えらいぞ、ダン吉!

でも、かわいがってると、すぐ、サムがよって来て
ダン吉を、いじめるにゃん!

ネコにはネコの「自我」。。エゴならぬ、ネコがあるのね。

わかった、わかった、おまえはネコの中のネコ

サ゛ム゛だ  ん?
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フン!

サムの写真しかないのじゃ、さびしいね。
ダン吉、君も被写体になっとくれ。
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ま、まるい。。

うーーん、動かないし。。あれ?

Dsc00330
やっぱり、自己主張してるなあ、サ゛ム゛

にゃんだ、もんくあっか
Dsc00337s
わかりましたよ、きみ、きみが、大将  サ゛ム゛将軍!


      ◇◇◇


ようやく、わずかの暇を盗んで、『無畏註』を読んでみました。
それから、
また、『八千頌般若経』も、サンスクリットで少し読んでみてみましたが、
『金剛般若経』のギルギット本に比べると、
よみやす~~~いです。
ヴァイディヤ本だからかもしれませんが、
スムーズです。

梶山先生の訳があって、これが、今では、
ほんとに、貴重だなあ、って思います。

中公文庫の中に入っている『八千頌般若経』(1)(2)
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こういう訳を、きちんと出すのが、学者の仕事だな、と思いつつ。。

なかなかできない自分がうらめしい。

っと、グチっぽくなってはいけないよ、わたし。

ところで、
『無畏註』は、一般的に龍樹の作品ではないと思われています。

いろんなことが言われていて、学者の間では、
龍樹の自註であるのは、あやしいということになっている。。

のだが!


どうして、どうして、論理の追求の確実さには、
いつも、驚いてしまいます。

似ていると言われるけど、
青目とは、やっぱ、違う。


『無畏註』の短い一言が、解釈の無限性を想像させます。
確実に、ブッダにつながっていることを示すかのようです。

一方

青目は、いかにも、誰かに教えてもらった注釈者の域を
でない感じがして、
青目自身への興味より、むしろ、
かれに教えた人を知りたくなります。

たぶん、龍樹が、教えたんじゃなかろうか、と想像してみたりもします。


結局、『無畏註』の作者が、誰であっても、
かれは、ほとんど龍樹クラスの人だ、ということがわかります。

龍樹クラスの人は、誰であっても、みな、龍樹でいいような気がします。
なぜなら、空だから、それでいいのだ、という風に思うのです。


そんなことは、まあ、どうでもいいのだけれど、
これをヒントに、『中論』をあらためて、見直しているところです。


発展途上なので、決まらないなあ、最後が。

最後は、時間がほしいよおぉぉぉ

って、さけんでみよ


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