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2013年1月13日 - 2013年1月19日

2013/01/19

かなしみは

001
宮沢賢治つながりで一つ。

宮沢賢治のことばに、こんなことばがあるのだそうです。

=============================
かなしみはちからに、欲(ほ)りはいつくしみに、いかりは智慧にみちびかるべし
=============================

親友の保阪嘉内の手紙の欄外に、書かれている一文だそうです。

実際に、手紙の写真を紹介してくれているブログがありますので、ご紹介。
真ん中くらいまでいきますと、賢治の手紙の写真があります。

http://foodmileage1.blog.fc2.com/blog-entry-68.html

          ***

宮沢賢治の作品というのは、どれも、書いたあとに、

もう一度仕上げに、悲しみのプールに浸してから、

引き上げたようなたようなそんな作品が多い。

読んでいるうちに、どこからともなく、悲しみが滴ってくる。

          ***


自分の心の中にも、ひたひたと悲しみが増してくるような、
そんな作品をたくさん読んで、
上の名言を読むと、ちょっと不思議です。

どうして、かなしみはちからにみちびかるべし、なんでしょうか。
ちからがあれば、かなしまないですむのでしょうか。

どうして、いかりは智慧にみちびかるべし、なんでしょう?
智慧によって、いかりはやむでしょうか。

どうして、欲(ほ)りはいつくしみにみちびかるべし、なんでしょうね?
欲りは、いつくしみの中できえていくのでしょうか?

よくわかりません。

よくわからないけれど、
自分だったら、

かなしみは、智慧によってみちびかれたい。
かなしみを根こそぎ、ほりおこしてくれる智慧がほしい。

欲りは、ちからによってみちびかれたい。
欲のわがままを、ちからずくでおさえこんでしまいたい。

いかりは、いつくしみによってみちびかれたい。
いかりの暴発を、つつみこむいつくしみをもちたい。


        ***


何か、人によって、かなしみや欲りやいかりは、
それぞれ、性質がちがうのかもしれませんね。


かなしみをいつくしみで
欲りを智慧で
いかりをちからで
みちびくことも、あるかもしれません。


これだって、十分ありえそうです。

かなしみ、欲り、いかり、どれもいらない。。だけど、
必ずやってくる。
誰にでもやってくる。
いろんな仕方でやってくる。


だから、

アバウトに言いますと


ちからといつくしみと智慧をもてば、
どんな苦しみにも耐えられる、ってこと、かな?

どうなの?智慧の木、ポプラの精は、どう思う?
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かなしみは、

かなしみはぁ~。。。春になると雪といっしょに消えていくさ。

聞かれてないけどぉ~
かなしみの哲人ネコ。だんちっち、だっち。

ああ、ぼくはね。。
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かなしみは、

かなしみはぁ~。。。いぶくろがカラッポのときにわき起こるもんなのさ。


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2013/01/16

「貝の火」 煩悩の火は燃えて。。

121211_190058
写真がないので、こんなんでも。

生まれてはじめて作ったキッシュという食べ物。
卵と牛乳とほうれん草にハムなど混ぜて、オーブンで焼く料理です。

一度作ってみたいと思っていましたが、なんと!それっぽく出来ました。

しか~し、写真じゃわからないけど、中は、生焼け で~すじゃ。
再度焼き直して、出したら、
評判は。。卵焼きみたいだね、って。。。

=========

さて、昨年、宮沢賢治の「よだかの星」に諸法実相を見て以来、

宮沢賢治という人のすごさに、感じ入っております。

本日、公開いたしますのは、あの有名な「貝の火」というお話し。


http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1942_42611.html

青空文庫さま、ありがとうございます。
宮沢賢治は、人々みなの宝です。


ではでは、わたしの、感想日記をどうぞ!

ホモイは、小さなウサギです。
ちょっと恐がりだけど、ときどき勇気のある強い子、良い子。

透き通るような自然の中で、
ぴょんぴょんうれしそうに跳ね回るすがたがも、自然そのものです。

そのホモイは、川でながされていくひばりの子を見つけて、
川に飛び込みます。
自分も流されながら、
何とか、ひばりの子を救い出します。

助けたのですが、
くちばしの大きなしわだらけのその子の顔が、恐かったので、
そのまま、飛び退いて逃げて帰ります。ちょっと、臆病なのです。

ここが、お話しの序章です。


               ◇◇◇

次から本番のお話しです。

ホモイは、ひばりの親子に、鳥の王様からの贈り物

        貝の火 

という、宝珠をもらうのです。

謙虚にことわるホモイに、ひばりの親子は押しつけるようにして、
貝の火を渡して飛んでいってしまいます。


そのきれいなまるい石は、中にちらちら赤い火が燃えて、
それはそれは美しいのです。

遠くを透かして見ると、美しく冷たく光って、天の川が透き通っています

目を放すと、また、赤や黄色の火がちらちら燃えているのです。


貝の火には、いろいろなことが言われています。

手入れ次第ではどんなにも立派になる。
一生もっていられたものは、ほとんどいない。
とても壊れやすい。
だけど、鷲の大臣が、噴火でみなを非難させているときは、
溶岩にも石にもびくともしなくて、曇ることもなかった。

こんな話とともに、貝の火をもらったホモイは、毎日鳥の羽で
玉を磨きます。

それと同時に、貝の火の効果で
外に出ると、みなの態度が変わって
ホモイに平伏するようになります。
恐いキツネもぺこぺこします。

こうして、周りの変化に合わせて
次第に、ホモイは、
高慢になっていくのです。

      
       ***


ここまできますと、誰でもわかります。
「貝の火」という、思わぬ宝物を手に入れてしまった子ウサギが
それに翻弄されていくのを、
読者はドキドキしながら見守ることになるのです。

盗んだパンをもらったり
みなに命令して鈴蘭の実を集めさせたり、
モグラを脅したり、

悪いことをしているのに、

貝の火は、よりいっそう赤や黄色の火を激しく散らして
それはそれは美しく燃えているのです。
そのたびに、ホッとしながら
ホモイの心はだんだん大胆になっていきます。(恐い!ドキドキ)

ホモイは、次第に 「自分は貝の火と永遠に離れないのだ」 とさえ
思うのです。

お母さんやお父さんは、半信半疑ながら、
貝の火の美しさにものが言えなくなって、
やはり状況に飲み込まれていきます。


          ◇◇◇


しかし、とうとう、限界が来ます。

キツネが網でつかまえた鳥たちを、
ホモイが逃がしてやろうとしたとき、
甘言でだましていたキツネが本性を表して、
ホモイを恐い声で脅すと、
ホモイは、なんと、情けなくも、逃げ帰ってしまうのです。

そのときについた、貝の火の一点の曇りは、
磨くたびに広がっていきます。
最後は、
とうとう
魚の目玉のように銀色に光るだけになってしまうのです。

それを見て、激しく泣くホモイ!

ようやく事に気づいたお父さんにいさめられ、
鳥たちを救うべく、キツネと対峙しますが、
やっぱり、ホモイは泣いているだけ。

けっきょく、お父さんがキツネを追い払い、
鳥たちを救います。

お父さんが、なまりのようになった宝珠を、鳥たちに見せると、
宝珠は割れて、かけらがホモイの目に入って、
目は見えなくなってしまうのです。

そして、また、貝の火は、もう一度、もとの形に戻って、
どこかに飛んでいってしまう、というのが、あらすじです。


          ◇◇◇


よく読んでいただけましたか。
なんと、ドキドキ胸騒ぎのする恐い童話でしょうか。

このお話は、ホモイのお話しですが、
実は、わたしたちをまるきり巻き込んでいますね。

まるで、自分を見るようです。

さあ、ホモイに代わって、
わたしたちが、作者賢治のしかけた謎を解かねばなりません。

これは、法華文学なのです。
仏教の教えが、いっぱいに満ちているのがおわかりでしょうか。


   貝の火


これは、何なのでしょう?

ホモイを、誘惑する意地悪な魔の玉なのでしょうか。
いや、
やはり、すべての人のためにある宝の珠なのでしょうか。

見方を変えますと、いろいろに見えてくる宝珠、貝の火。


そう思いませんか。
この童話は、なんだろう、何を言いたいんだろう、っていう気がしてきませんか。


ちらちら燃えていた赤や黄色の火は、あの美しい輝きは何だったのでしょう?


この謎を、読者は解かねばなりません。

そうでないと、ホモイと同じように、目の見えないウサギになってしまいます。
解明しましょう。ブッダの教えを使って、謎解きをしましょう。


            ◇◇◇


貝の火は、ほんとうには、やはり宝珠でしょう。

ちらちら燃えていたのは、
きっとホモイの小さな欲望や怒りの煩悩ではないでしょうか。

ブッダの教えに、「燃焼」(『サンユッタ・ニカーヤ』35.28)という題の経典があります。
ブッダは、一千の比丘たちの前でガヤシーサの山で、語りかけます。

=====
比丘たちよ、眼は燃えている。色は燃えている。眼の認識は燃えている。
眼の接触するところは燃えている。
また、すべてこの眼の接触を縁として生ずるところの受(感受)の、
あるいは楽なる、あるいは苦なる、あるいは苦でも楽でもないものも
燃えているのである
では、それらは何によって燃えているのであるか。
それは貪りの火によって燃えているのであり、
怒りの火によって燃えているのであり、
愚かさの火によって燃えているのであり、
あるいは、生老死により、愁悲苦憂悩によって燃えているのである、
と、わたしは言う。
======増谷文雄訳『阿含経典』第三巻より(少し改変あり)

なんと!

あれほど、美しく、激しく、さまざまな色に彩られてめまぐるしく
燃えていたのは、
ホモイの心の中に湧く、さまざまな煩悩の炎であった。。。ようですね。

リスや子馬に命令しても、
むぐらを怒っていじめても、
また、
むぐらを許してやっても、

貝の火は、激しくいろいろな色で燃えていたのです。

悪いことをするたびに、貝の火がどうなるか、心配するのですが、
よりいっそう激しく燃える火に、眼を奪われて、
自分のした悪いことを忘れてしまうのです。

わたしたち小心者は、まるきりホモイのようです。
ちょっとした悪事やごまかしなどに、びくびくするのですが、
何もその報いがないようだとわかると、
がぜん元気になって、その悪事を忘れます。

そして、調子に乗ってしまうのです。
『ダンマパダ』にこうあります。

=====
69 愚かな者は、悪いことを行っても、その報いの
顕れないあいだは、それを蜜のように思いなす。
しかしその罪の報いの現れたときには、苦悩を受ける。
=====

現状に流されていくありさまは、自分たちのようでもあります。
それと同時に、
「貝の火は、いったい何だろう、どうして、きれいになるのだろう」
とも、疑問が出てくるのではないでしょうか。

その疑問が、最後には、こんな答えになってしまうのです。
「僕がどんな事ことをしたって、
あの貝の火がどこかへ飛とんで行くなんて、
そんな事ことがあるもんですか」

根拠もないのに、悪いことをしても壊れない珠に、
自分の都合のよい解釈を与えてしまうのです。


これが、無痴でなくて、なんでしょう。


で、ホモイに代わって、
この謎を、わたしたちが、自分で解かなくてはならないように、

このお話しは、
そんな風に
なっているのです。

作者賢治は、とても巧みな作家なのです。
きっと意図せず、ただ、仏法にしたがっているだけでしょう。

でも、わたしたちの心が勝手に動いて、
この作品をいろいろな色に燃えているように見せてしまうのかもしれません。。

             ***

心のきれいなうちは、貝の火は、透き通ってそのまま世界を移します。
しかし、
眼を遠ざけると、ちょろちょろ燃える心の煩悩の火も見えるのです。

その火が激しく燃え盛るのを、美しいと見るのは、そもそも、
煩悩にとらわれた者が、煩悩の火を見るからかもしれません。

珠の、「 ほんとうの美しさ 」に気づかない、

それは、すなわち、無痴 ということなのでしょう。

この童話のテーマは、貪瞋痴の三つのうちの、
最後の 「無痴」を 扱ったものだと思います。

いったい、何が大事で、何が大事でないのか
原因によって、どんなことが結果するのか、

もう、燃える煩悩の火にくらまされて、何もわからなくなった子ウサギ。

わたしたちは、子ウサギホモイなのです。

ほんとうの悪(わる)、というほどにはなれないのです。

善いこともします。だけど、たまには、悪いことも。。。
優しいのです。ただときどき怒るだけ。。。
勇敢で賢いのです。誘惑さえなければ。。。

こんな感じです。
周りに流されて、
悪いキツネといるときは悪くなり、
両親に教えられるときは善くなる、そんな小さなウサギなのです。

だから、

宝珠貝の火は、無痴を防止するためのものではなかったのでしょうか。

悲しみで曇ってしまった眼には、すべてが銀色のなまりのよう。。
その心を映して、貝の火の炎は消えるのです。

最後は
怯えて、欲も怒りも消え失せ、ただ悲しく惨めで苦しいホモイです。

ブッダの説く「燃焼」のとおりに、貪り、怒り、無痴などすべてを味わって、
ホモイの眼は閉ざされます。

これは、不幸でしょうか。


ホモイのお父さんのことばは、作者賢治のメッセージです。


「泣なくな。こんなことはどこにもあるのだ。
それをよくわかったお前は、いちばんさいわいなのだ。
目はきっとまたよくなる。
お父さんがよくしてやるから。な。泣なくな」


このとおりですね。
ホモイは、やはり宝を手に入れたのです。
そして、ちょっと痛い思いをしたのですが、
「無痴をはらう」ということを、学んだでしょう。

因果応報ということを、少し知ったのかもしれません。
自分の心のことを知りかけているのかもしれません。


彼が、ほんとうに 目覚めるならば、おそらく眼は戻ってくるでしょう。

欲望や怒りや無痴に燃えずに、ものごとをあるがままに
見ることのできる眼が、戻ってくるのでしょう。


「貝の火」


それは、わたしたちの、心そのもの。

読者に、読者自身の心を覗かせる そんな手法がとられた作品です。

ブッダの教えを、子ウサギに乗せて
012
ぴょんと届けてくれる、そんな童話です。

子どもの頃に読んで、失敗するということを学ぶんだろうね。


しかし、こんな人生終わりそうな頃になって読むなんてぇ~。。。。

やっぱ、飛びそこねたうさぎだったなあ。

        

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