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2013年5月12日 - 2013年5月18日

2013/05/16

アーナンダよ、他にたよるな、っつうの!

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やっぱり寒いですが、桜はけなげに咲いています。

で。

すみません、もう、一日中講義でした。

      ◇◇◇


magagiokさまの疑問

>それから、私の死後は阿羅漢たる誰々に頼れ、
>となぜに遺言しなかったのか。

>私の死後は、他に頼らず自分に頼れ、法に頼れ、
>と修業未完成者に言い残すというのは、阿羅漢はいない、
ということではないでしょうか。

>私の死後は、他に頼らず自分に頼れ、法に頼れ、と遺言するときには、
>迷ったら阿羅漢たる誰々に聞きなさい、と言うのが自然だと思います。

>なぜ結集をすることになったのでしょう。

>釈迦はその事態を予想出来なかったのでしょうか。

何せ、ヘロヘロしてるので、引用でとりあえずがまんしてください。


====(『大般涅槃経』より)
アーナンダは、尊師に次のように述べました。

「尊師よ、尊師は安らかになられたように、わたしには見受けられます。
尊師よ、尊師はきっと耐えてくださるにちがいないと思っておりました。
尊師よ、尊師の病のために、

わたしの身体は、

酒に酔ったようになってしまいました。
わたしには、方角もわからなくなり、諸々の法もわからなくなりました。
しかし、
『尊師が、比丘僧団にかんして、何らかのことを述べないかぎりは、
尊師は、般涅槃することはないだろう』
と気づいて、いくらか安堵したのです」

25.
アーナンダよ、いったい、比丘僧団が、
わたしに何を期待しているのか?

アーナンダよ、内もなく、外もなく行い、
わたしは、法を説いたのである。

アーナンダよ、そこには、如来にとって、
師の握り拳(隠された教え)はない。

アーナンダよ、
もし誰かが、『わたしは、比丘僧団を守るであろう』とか
『比丘僧団は、わたしの指示にしたがっている』とか、
このように思っているとすれば、
たしかに、かれは、比丘僧団に関して、何ごとかを述べるであろう。

アーナンダよ、如来が、『わたしが比丘僧団を守るだろう』とか、
『比丘僧団は、わたしの指示にしたがっている』とか、
このように思うことはない。
だから、アーナンダよ、如来が、比丘僧団に関して、
いったい何を告げるというのだろうか?

アーナンダよ、実に、わたしは、老いて、年をふり、高齢となった。
晩年をむかえて、余命もないのである。
わたしの年は八十歳にもなる。
アーナンダよ、
あたかも、古い荷車が革紐で縛ることでようやく行くことができるように、
そのように、アーナンダよ、

如来の身体も、

思うに、革紐で縛ってようやく行くことができるのである。

アーナンダよ、如来が、一切の相(特徴)を心に思うことなく、
ある種の感受を滅して、
無相の心三昧に到達して住まいしているとき、
そのときには、アーナンダよ、

如来の身体は

安楽である。

26.
 それ故に、アーナンダよ、 
自己を中洲として、自己をよりどころとして、
他をよりどころとすることなく、
法を中洲とし、法をよりどころとして、
他をよりどころとすることなく、
住みなさい。

アーナンダよ、比丘が自己を中洲として住み、
自己をよりどころとして、他をよりどころとすることなく、
法を中洲として、法をよりどころとして、
他をよりどころとすることがない、
というのは、どういうことだろうか。

アーナンダよ、今ここに比丘がいて、

身体において、

身体を

観察して住している。
熱心に、気をつけて、気づきをそなえ、
世間の貪欲や憂いを調伏して、そうしている。

諸々の感受において、感受を観察して住している。
熱心に、気をつけて、気づきをそなえ
、世間の貪欲や憂いを調伏して、そうしている。
心において、心を観察して住している。
熱心に、気をつけて、気づきをそなえ、
世間の貪欲や憂いを調伏して、そうしている。
諸々の法において、法を観察して住している。
熱心に、気をつけて、気づきをそなえ、
世間の貪欲や憂いを調伏して、そうしている。

このように、アーナンダよ、比丘が自己を中洲として住み、
自己をよりどころとして、他をよりどころとすることなく、
法を中洲として、法をよりどころとして、
他をよりどころとすることがないのである。

アーナンダよ、今も、あるいは、わたしの死んだ後も、
自己を中洲として、自己をよりどころとして、他をよりどころにせず、
法を中洲として、法をよりどころとして、
他をよりどころとせずに住むようであれば、
学ぼうと望む比丘たちは誰であれ、最高処にいるであろう。
=========

迷ったら、誰かに聞くことは、「他による」ことに
なるのではないでしょうか。


もし、ほんとうに、「他によらず」を守れるのであれば、
経典の結集は、いらなかったかもしれません。

ほんとうに

他によらない

が、できれば。。。


しかし、「他によらない人」というのはいるのでしょうか。

magagiokさまも、

>私の死後は、他に頼らず自分に頼れ、法に頼れ、と遺言するときには、
>迷ったら阿羅漢たる誰々に聞きなさい、と言うのが自然だと思います。

このようにおっしゃいました。

わたしたちは、ブッダのことば、ブッダの教えを、
心の底から頼りにしている
という、ことでしょう。

それなしには生きていけない

そんな人々のために

完全に煩悩を捨てて、
阿羅漢となったものだけで
仏典を編纂することが

是が非でも

必要だったのです。


何せ、21世紀の


わたしたちが


もう絶対必要としているからです。


わたしたちを見すえて

マハーカッサパは

疑いのかけらも残さないために


アーナンダに


悟らなければ

メンバーに加えない


言った


のだ

と思うのです。


えらいぞ!
カッサパ!
えらいぞ!
アーナンダ!

えらいぞ、さくら。。かんけいない?
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※ あと「身体」っていうことばに、注意してね!
アーナンダに有効だと思うけど、ここに「自洲」がぁぁぁ~

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2013/05/14

アーナンダの悟り(自己を中洲とし、法を中洲とせよ)

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木の葉のあかちゃん。
これから、大きくなるところ。

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やっと桜が!
もう、うれしくて、桜の花にピントがあってませんっ!


            ◇◇◇

★ 「チュンダ」という経典は、「自らを中洲せよ、法を中洲とせよ」と説いた
ブッダの有名なことばを含む大事な経典です。

http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/cunda.html
『サンユッタ・ニカーヤ』47.13

ここでは、
サーリプッタ尊者の死の報に接したアーナンダの悲嘆の様子が、
描かれます。
これに対して、ブッダが、アーナンダに教えを説くのです。


★また、この他にも「自らを中洲とせよ」と、
ブッダがアーナンダに告げる経典があります。

これは「大般涅槃経」(『ディーガ・ニカーヤ』第16経)の中で説かれるものです。

ここでは、
年老いたブッダの病に心痛の色を隠せないアーナンダの様子が、
描かれます。
これに対して、ブッダが、アーナンダに教えを説くのです。


★これ以外にも、比丘たちに、「自らを中洲とせよ」と語る経典もあります。

「チェーラ」『サンユッタ・ニカーヤ』47.14
「自らの中洲」『サンユッタ・ニカーヤ』22.43


         ◇◇◇


しかし、何といっても、
アーナンダに語りかけるブッダの懇切丁寧な説法が、
人の心を打つのです。

サーリプッタの死(般涅槃)に際して
また
ブッダ自らの死(般涅槃)に際して

ブッダは、アーナンダに語りかけます。

======== 
「それだから、アーナンダよ、
自己を中洲として、自己をよりどころとして、
他をよりどころとすることなく、
法を中洲とし、法をよりどころとして、
他をよりどころとすることなく、住みなさい」
========

しかし、なぜ、ブッダは、わざわざ、このことばを、
アーナンダに告げたのでしょうか。


アーナンダは、ブッダに付きしたがって25年もの長い間、
ブッダの身近にいてお世話をしてきた比丘であったのです。

『ブッダ論理学五つの難問』173頁で、
わたしは、これらのことばは、
「修行間もない弟子たちに向けて言ったのだろう」と、
書きました。

アーナンダは、ふつうに考えますと、
修行間もない弟子、というわけではありません。

わたしは、間違ったのでしょうか。


      ◇◇◇


アーナンダは、他の比丘たちとは少しちがった境遇にあります。

ブッダのそばにたえず付きしたがい、
ブッダのお世話をしたり、
また、
尋ねてきたさまざまな人々に気を配ったりしなければなりません。

自分の修行に専念できる環境ではなかったことが
推察されます。

ある神が、アーナンダに、
「もっと努力して、禅定に励みなさい、
雑談が、あなたにとって、何になるだろうか」
と説く経典もあります。
(『サンユッタ・ニカーヤ』9.5)

さらに、
アーナンダは、心優しく、
友や師や在家の人々を大事にする人柄でもあったのでしょう。

サーリプッタを慕い、かれを頼りにして、
かれを師とも友とも思い、
かれの死には、身体がふらふらになって、
酒に酔ったようになってしまいます。

ブッダの病のときも同じです。
心配のあまり、同じように身体がふらふらになり、
酒に酔ったようになってしまうのです。


        ◇◇◇


『大智度論』(25、p.66b)には、このブッダ般涅槃の出来事を、このように記しています。

北首臥將入涅槃。
爾時阿難親屬愛未除未離欲故。
心沒憂海不能自出。

(ブッダは)北を枕にして伏し、
まさに涅槃に入ろうとした。
そのとき、アーナンダは、まだ、
親族の愛着を除くことができず、
欲を離れることができなかったので
心は憂いの海に没して
自らそこをでることができなかった。


このとき、アニルッダにうながされ、
付法をうけんと
アーナンダは、ブッダのもとにいきます。

こうして、有名な「自らを中洲とせよ」のことばが、
告げられることになります。


       ◇◇◇


「それだから、アーナンダよ、
自己を中洲として、自己をよりどころとして、
他をよりどころとすることなく、
法を中洲とし、法をよりどころとして、
他をよりどころとすることなく、住みなさい」

説かれているところをよく味わうなら、
アーナンダは、自らをよりどころとせず、
サーリプッタやブッダのような
「他をよりどころとして」いることが、
見えてくるでしょう。

サーリプッタを愛しいと思い
ブッダへの思慕を除けないアーナンダ。。
智慧にすぐれていても、
あまりに、心優しく、世俗的な思いを捨てきれません。


そこで、四念処の教えが続けて説かれるのです。

「身体において、身体を観察して住しています。
熱心に、気をつけて、気づきをそなえ、
世間の貪欲や憂いを調伏して、そうしています」

「世間の貪欲や憂いを調伏して」とあるところで、
アーナンダには、たいへん有効な教えであることが
わかるでしょう。

酒に酔ったように、
身体がふらふらになってしまったアーナンダ。

身体において、身体を観察して住しなさい、
と、ブッダは語っているかのようです。

同じように、感受・心・法についても説かれます。

「アーナンダよ、今も、あるいは、わたしの死んだ後も、
自己を中洲として、自己をよりどころとして、他をよりどころにせず、
法を中洲として、法をよりどころとして、他をよりどころとせずに
住むようであれば、
学ぼうと望む比丘たちは誰であれ、最高処にいるでしょう」

「他をよりどころとせず」
自らをよりどころとしなさい。

そして、「自らをよりどころとする」とは、
身体・感受・心・法の四つに
気づきをもっていくことなのです。


      ◇◇◇


仏法の重要な基本が、ブッダによって
説かれていると思います。

アーナンダは、長きにわたって、修行生活をしてきたのですが、
気の毒なことに、
なかなか、諸般の事情で、
自らの修行に専念できない状況であったと
思われます。

とうとう、ブッダは般涅槃してしまい、
アーナンダ一人が、まだ、阿羅漢位を得ないまま
残されます。

マハーカッサパは、
アーナンダを、経典結集からはずすと告げ、

進退窮まったアーナンダは、
必死で悟りを得ようと
「自らを中洲とし、法を中洲とする」実践に取り組みます。

『大智度論』は、
アーナンダについて、
智慧が多くて禅定の力が少なかった
と語っています。(p.69a)

必死に悟りを得ようとしますが、
なかなかうまくいきません。
とうとう、疲れ果て、明け方に
横になろうと、枕に頭をつけようとした

そのとき


アーナンダは悟りを得るのです。


      ◇◇◇


アーナンダよ、いたしかたないとはいえ、
自らの悟りなくしては、また、仏法を受け継ぐこともできないのだよ

と、マハーカッサパ、アニルッダなど比丘たちは、
心を砕くのです。

何とか、アーナンダに悟りを得させようと、
マハーカッサパが叱咤するする様子もうかがえます。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
アーナンダは、ブッダの滅後でなければ、悟れなかった
という事実が、
わたしには、「修行に入って間もない比丘」と見えるのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ブッダの滅後、アーナンダは、ようやく、ほんとうの修行に入ることが
できたように思うのです。


仏法の獲得は、修行年数の多寡によるのではありません。

自己を中洲とし、自己をよりどころとし、他をよりどころとしないで
法を中洲とし、法をよりどころとして、他をよりどころとしないで
いることができるかどうか、

まさに、そのことによって、悟るのだ!

ということがわかるのではないでしょうか。

しかし、それにしても

仏道の修行を、ブッダ般涅槃とともにはじめたアーナンダ。
あっという間に悟ったところが、やはりすばらしいお弟子さんです。

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2013/05/13

キツネ、キツネ、お宿はどこだ

先日から、キツネをちらほら見かけておりました。
北海道大学の構内です。

今日は、アップで見ました。
実は、かもの夫婦がいたのです。

それをねらうかのように、キツネが一匹。。。すたすた。

かもの夫婦は逃げてしまいました。
昔の写真だけど、かも一匹の写真もあげておきますね。
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オスはこんな感じです。メスは茶色であまりきれいではありません。

で、キツネくんです。
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お、すごーーい! でしょ。

いや、まだまだ。
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近寄ってみるよ。。

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全然,平気で何か探してる。


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こっちに気づいても、へいちゃらだ。

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最後は逃げちゃった。

これで、おちゃらけさまに,笑われないですむにゃん。

それにしても、猫を飼ってみると、
動物と波長が合うようになってきて、

キツネも牛も、なんとなくお友達の雰囲気です。

それに、困ったことに

どんな動物を見ても

猫に見えちゃう。。。。

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ね、ねこそっくり。。あ、ほんものだったのか!

 

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2013/05/12

空気を感じて!

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ようやくツツジが咲いているところに出合えました。

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おお、つくしだぁ、っつうことで。

だんだん、北海道も緑色をしているところが増えてきましたよ。

そのうち、桜も咲くだろな。。。

        ◇◇◇

今年は、聴覚障害の学生さんが講義を受けているので

大きな声で
はっきりと
ゆっくり
顔を学生さんの方に向けて

話してください

といわれています。

ノートテイク

という、ボランティアで行う支援があります。
講義をすべてパソコン入力で書き写すのです。

テレビの手話講座などでも紹介されているので、
よく知っています。
家族も、それに参加しているのです。

だから、

ノートテイクをしてくれる人が、
間に合わなくならないように
ゆっくり
気をつけて話しをしています。


そうしたら、

講義が
あまり進まなくなって
なんとぉ~
今までの3分の2程度の量になってしまいました。

まあ、いいのかな
って、思っています。

盛り込みすぎてたのかもしれないなあ。


      ◇◇◇


講義というのは、フィーリングなのだ
という気がしています。

細かい内容は、そんなに大事ではなく、

物事を見る目
物事をとらえる嗅覚
物事を味わう感覚
物事を聞きとる聴覚
授業にただよう雰囲気

こういったものを、キャッチしてほしいのです。

学生さんには、こう言っています。

「耳で聞いて、ハートでとらえて」

授業で述べたら

聴覚障害の学生さんに出会ったので

「身体で感じて、ハートでとらえて」

言い換えました。

同じことだなあ、と思うからです。


     ◇◇◇


二度と同じ川に入れないように
二度と同じ講義はできないようになっているのです。


講義というのは、その瞬間瞬間、

教室の中で、声が空気をふるわす
その振動を、味わうことじゃないか

という考えにいたりました。

その教室の中の空気の振動に
身を置くことが、

講義を受ける

ということであり、

何かを得るということなんだろうと

思うのです。


     ◇◇◇


ヨガ教室で、講義の後の雑談で
昨年、札幌で行われたスマ長老さまとの対談風の講演が話題になりました。

スマ長老さまのお話を中心にして
他の先生と一緒に、ときどき合いの手を入れる役目でしたが、
邪魔にならないように、ただ居ただけだったので、
自分では、あまりお役に立てたとも思いませんでした。

そしたら、
合いの手みたいに入れたことばが、
うまく説明になって
分かりやすかった

言われました。

スマ長老さまのお話で、ことばは分かるけど、
なんのことを言おうとしているのか、
つかめないときに

ちょこっと、解説を言ってもらえると
「ああ、そうか」
と、分かるのだそうです。

   
      ◇◇◇


ふーーむ、
わたしは、ただ、スマ長老さまの話の中の

空気を感じていただけだったなあ

と思い出しました。


スマ長老さまは、けっこう、退くんですよね。
相手を立てるようにして、
すっと退いてしまわれるので、

そういうときに、場をとりもつために
「すかさずなんか言わなくちゃ」と思うと

長老さまの言われたことを、
自分で反芻するようなことになるのです。


まあ、空中に漂う ことばの断片を 

虚空の中から、拾っているような 

そんな感じです。


      ◇◇◇


行為(カンマ)というのは、

つきつめると

「取る」
「捨てる」

のどちらかしかないのかも、ね。

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よっしゃ、取(撮)りますわよ、ぱちっ!

執ります、のほうかな。。。

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