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2013年3月31日 - 2013年4月6日

2013/04/01

四つの悉檀(シッダーンタ) =話し方のいろいろ=(訂正しました)

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4月に入りました。
なのに、この雪は、 なんだっ!
窓をふさいでいます。

きっと、エイプリールフールだ。。

明日になったら、
冗談だよと、空が笑ってくれないかな。
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4月の終わりころには、全部、融けてほしいわ。

     ◇◇◇

さて、さて、リクエストを頂戴しましたので、

『大智度論』の最初に説かれる

四つの悉檀 について お話ししますね。


といって、はじめたのはいいのですが、ミスをして、
みなさまにご迷惑をおかけしてしまいました。

間違って、各各為人悉檀と對治悉檀を入れ替えてしまいました。

再度、挑戦して、訂正いたします。


申し訳ありません。
以下に、あらためて改良版を書きますので
ご覧ください。

何かありましたら、教えてくださいね。 

========================
コメントでもお話ししましたが、

四悉檀は、龍樹せんせが、論法を編み出したとき、
明らかになった
ブッダの「話し方」の極意のようなものです。


『方便心論』という本の中にある、「執の四種類」というのと
同じものです。(1・3・2)

でも、説明の仕方が、それぞれ本によりちがっているので、
あわせてみると、よくわかりますよ。


お釈迦さまの語り方には、全部で四つの種類があります。
『大智度論』から

1.世界悉檀 (せかいしっだん)
2.各各爲人悉檀 (かくかくいにんしっだん)
3.對治悉檀 (たいちしっだん)
4.第一義悉檀 (だいいちぎしっだん)

必ず、これのどれかによって、お話しするのがお釈迦さまです。
なぜ、四種類で全部かって?

それはね、こんな風な構造になっているからです。
今度は『方便心論』を参考にしてみましょう。

話をするときは、二人の人が必要です。

その二人の人が、話をすると

1 意見が同じになる      (直接知覚して語る)     
2 最初ちがうけど後は同じ  (経書を参考にする)
3 意見がまったく異なる    (推理して語る)
4 最初同じだけど後がちがう (喩えを用いて論法を使う)

こういう場合が考えられますね。

実は、最初に、ここでミスをおかしてしまいました。
『方便心論』の順序を間違って当てはめましたので、
ここで、おわびして訂正します。


このように、意見が同じかちがうかで分けると、
四種類できます。

二人のうちの一人がブッダの場合、

1.ブッダが、相手と同じことを説く  
2.ブッダが、人にあわせて説く    
3.ブッダが、相手の症状に合わせて説く
4.ブッダが、最後は沈黙してしまう


★★1の場合、これが 「 世界悉檀 」 です★★

相手の使うことばにあわせて、
相手が「人」というなら、ブッダも「人」と説きます。

目でみてわかることを説くとき、反論は起きないので、
相手の言い方を用いて説きます。

世間一般に通用する説き方なので、世界悉檀といいます。

『大智度論』より、詳しく引用してみます。間違わないようにね。

~~~~
「瓶沙王迎經」の中で、ブッダが
「凡人は法をきかず、凡人は我に著す」と説くように。

また、ブッダが「二夜経」の中で、「ブッダが得道の夜から
般涅槃の夜に至るまで、この二夜の中間にとく経典の教えは、
一切みな真実であって、顛倒ではない」と説く。

もし、実際、「人」というのがなければ、ブッダはどうして
「わたしは天眼によって衆生を見る」というだろうか。

このことからわかるであろう。
「人がある」というのは、世界悉檀だからいうのであって、
第一義悉檀なのではない。
~~~~~~~~(『大正蔵』25,p.59c)

凡夫の使うことばにあわせて
「人」「わたし」「凡人」などのことばを、ブッダも使います。


★★2の場合、これが 「 各各爲人悉檀 」 です★★

こちらが、人にあわせて語るタイプです。
はじめはちがっているけど、後は同じになるタイプですね。

「人」に執着していなければ、
「感受するもの」「触れるもの」と言います。

「人」に執着している相手には、
「感受するもの」「触れるもの」とは言わず、
「感受がある」「触がある」と説明します。

『大智度論』で詳しく見てみましょう。

~~~~~~~~~
法を説くのに、一つのことがらについて
ある人には許すが、ある人には許さないことがある。

経典の中に説くところでは
「さまざまな業報のために、(人は)世間にさまざまに生まれ、
さまざまな触を受けて、さまざまな感受を受ける」とある。

さらに、「パッグナ経」では
「人は触を受けることなく、人は感受を受けることはない」と説く。
~~~~~~~~~~(『大正蔵』25,p.60a)

上の文では「人が触や感受を受ける」と説くのに対して、
下の文では「人が触や感受を受けるのではない」としています。

これは、各各為人悉檀で、個人の過失にあわせて説きます。
しかし、最後は、ブッダの法に両者とも行きつくのです。


★★3の場合、これが 「 對治悉檀 」 です★★

相手の病状にあわせて処方するおしえです。

常住に執着する衆生に、無常を説くのが、
これにあたります。

『大智度論』には、このようにあります。

~~~~~~~~~~
(ブッダが)無常と説く場合を考えると、これは、衆生が三界において
楽に著するのを抜こうとして、ブッダは、
「どうやって、衆生を欲からはなれさせたらよいだろう」と
考えて、このために、無常法を説くのである。
~~~~~~~~~~(『大正蔵』25,p.170c)

無常法を説くのも、症状に合わせて教えを説く對治悉檀です。
第一義悉檀ではないことが、強調されています。


★★4の場合、これが 「 第一義悉檀 」です★★

相手が、見解をもって議論する場合、
ブッダは喩えを用いて論理的に語りますが、
述べ終わると、
ブッダは、最後には、黙ってしまいます。

こうして、
あらゆる見解から離れていることを示します。

これは、誰とも意見がちがう沈黙の語りです。
これを、第一義悉檀と言います。

むずかしいね。『大智度論』で見ましょう。

~~~~~~~~~~~~~~
一切のことばや表現の道をすぎて、
心の行いは滅してしまい、
あまねくよりどころとなるところもなく、
諸法を示すこともない。
諸法実相は、はじめなく中なく終わりがなく
尽きることなく壊れることがない。
これを、第一義悉檀という。
~~~~~~~~~~~~(『大正蔵』25,p.61b)

ここにおいて、ブッダは、言い争うことなく、
過失を離れています。


         ◇◇◇


1,2,3に含まれないものは、みな4になってしまう
と言われます。

4のおかげで、ブッダの語りは、けっして壊れることなく、
否定されることなく、はじめなく中なく終わりのなく、
諸法を示さないものとなるのです。


この四つの語り方は、全部が真実であって、
どれもウソではありません。

ブッダは、
この四つを、どうやって使い分けたのでしょう。

ブッダみたいになりたいから、
わたしもやってみよ、って、思って、
安直にマネしない方がいいですよ。


だって、
テキトーに、好きなように、この四つを使うなら、

「インチキなヤツ」って、言われるような人になっちゃうからね。

インチキ、って言われないためには
間違わずに、四つを使い分けなきゃいけないのです。


コツは何かというと、

必ず、相手のためになるように、使うこと。

ちょっとでも、自分のためになるように使うなら、
すぐさま信用なくしちゃうので、
くれぐれも気をつけてね、わかった。

お返事は?
はーーーい、って、いうのよ!ほれ!
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ぷいっ! しらないもんね、ぼく。

五番目は、
サム丼の発明した檀ボール箱の語り方、檀ボール悉檀。。

にゃんだ、それ。


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