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2012年9月30日 - 2012年10月6日

2012/09/30

なぜ、いま瞑想なのか、な

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『サンガジャパン Vol.⑪』「なぜ、いま瞑想なのか」

何か、また、タイムリーに瞑想についての特集が組まれました。

「タイムリー」というのは、マニカナの掲示板でも話題になったからです。


全部は、読んでいませんが、
「瞑想」で気になるものをいろいろ拾い読みしています。

個人的には、

★テーラワーダ仏教の系統の瞑想の いろいろ
(スマ長老、ナラテボー長老)

★ネルケ無方禅師による大乗仏教の系統の 坐禅

★ティク・ナット・ハン禅師の正念(気づき)の瞑想

など、現在行われている瞑想の方法を、垣間見て、
おもしろく思いました。


            「瞑想」


ということば、非常に包括的ですね。
でも、これで、いいのだな、と思います。

「生活」の一切と、深く関わっていることが、よくわかるからです。

「哲学」や「思想」だけの一切ではなく、

「生活」や「生き方」の一切に関わるように、特集は組まれています。


ですから、特別に何かをする(たとえば、坐る)ことが、瞑想ではなく、
ありとあらゆるところで、「瞑想」が行われている、ということがわかります。

            ◇◇◇

大きなテーマは、「気づく」 ということですね。

ここに「瞑想」のありかをみているのが、’現代的な’瞑想なのかもしれません。

テーラワーダ仏教の瞑想法が、大きく影響を及ぼしているのでしょう。

「気づき」は、ヴィパッサナー(観察)瞑想ともかかわるからです。

            ◇◇◇

このように、『サンガジャパン vol.⑪』を概観したあと、

あとは、自分の関心にそって、あれこれ思いをめぐらしています。


わたしは、ブッダの説く瞑想だけではなく

インド哲学における瞑想  
とくに、
ヨーガ学派の説くヨーガ
アドヴァイタ・ヴェーダーンタ学派のヨーガ

にも興味があります。


なぜなら、明らかに「哲学」や「思想」が異なっているからです。

生活?

過去に生きた インドの沙門たち、インドの比丘たち、インドの遊行者たち

かれらは、およそみな似たような生活をしているように思われます。
書物、伝承から知られるものは、それほど変わりがないようです。
詳しく調べるとちがうかもしれませんが、それを示す資料がありません。

多少ゆるやかな戒を守りながら 修行する 僧院の修行者
厳しい戒律に我が身を縛りながら 遊行する 頭陀行の修行者

かれらは、みな、尊敬すべき沙門・バラモン であったことでしょう。


それなのに、それなのに、

仏教と 非仏教(バラモン教)の 思想は、大きくちがうのです。

圧倒的に違う、その差を無視してしまうことは、
わたしにはできないので、

とうとう、今回、意を決して『梵網経』を取り上げてみました。
(「瞑想と学説を乗り越えて」というタイトルで書きました)

比べる さまざまな見解は、みな、ここにある!

と思ったからです。


つまり、わたしの中にある 一つのことがらは、こうなのです。

瞑想も、また、思想と同じように、種々であって、
それだけのものである。


この、「それだけのものである」ということが、わたしには、大事なことです。

思想をぜったい的な真理と、すぐには考えないように
瞑想もまた、ぜったい的な生き方の基準にならない

ここをはっきりさせたかったのです。

『梵網経』の中で
ブッダの取り上げた六十二の見解(思想)は、
全部が全部、瞑想をともなっている、といってもいいのです。

中には、「思索」「推論」による思想もありますが、これとて、
瞑想皆無といえないのが、インドです。

ですから、たとえ、
瞑想によっていかなる見解が出てこようとも
つまり
瞑想がいかなる真理へと導びくように見えようとも
それだけで、真理かどうか、わからない、ということなのです。

言い換えれば、
そこにおいて「生きること」を見出しうるかどうか
決めかねてしまうのです。

わたし的には、瞑想は、すなわち、生活そのものというなら、
その中には、「生き方」を示す思想をもっていなければならない、
と思っています。

瞑想と生き方と思想 
かりに三つを取り上げるなら、
三つは、一つのことがらを異なる角度から照らすもの、と考えます。

三つがひとしく一つのことがらを指しているとき、
一貫した論理があるでしょう。
だから、三つの中に一つの論理が見えるはず。。

そうであるとき、
ブッダの、
瞑想・生き方・思想が気になります。


『梵網経』で述べる ブッダの 「生き方」は、

あらゆる見解を、すべて手中に収めているけれども
それらを捨てて、寂静にある

という、

じつは、見解も瞑想も、さらには、生きることすら 乗り越えた姿にある、
ということだろうと見ています。

見解:捨ててる  自己ならざるもの
瞑想:心解脱    自己ならざるもの 
生き方:他に縁る 自己ならざるもの

一貫してる!
すばらしい。。。けど

こういう「生き方」は、いわゆる、生きている、という生き方ではないかもしれませんね。


            ◇◇◇

そこまでいかないわたしたち。

瞑想もさまざまに、思想もさまざまに、生き方もさまざまに

そんな風に、生きていくのでしょう。。。

あら、まとまることはまとまったけど、
なんか、さびしかね。。ええんですかね、こんなんで。

意欲満々で書こうとしてたのに。。
せめて、こんな写真で景気づけ。
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