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2012年9月23日 - 2012年9月29日

2012/09/26

聖者はひとりぼっち

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これは、何というお花でしょう。
あまりにも見事なので、思わずぱちり。 南国の花?

もう一枚、少し下がったところから。
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完全無欠、ということばが浮かびそうなくらい完成してます。

さて、寝ながら、起きようとして、いろいろ考えていました。

よくあることですけど。

そうしたら、


聖者はひとりぼっち


ということばが、ポッと浮かんできました。

なるほど、聖者は、ひとりぼっちだなあと思います。


十字架にかけられたイエスは、十字架にいたから、
ひとりぼっちだったのではない。

人々の中に入っていったから、ひとりぼっちだったのだろう。


涅槃にいるブッダは、涅槃にいるから、
ひとりぼっちなのではない。

遊行するから、ひとりぼっちなのである。


歩いている姿というのは、ひとりぼっちなのである。

たとえば、畑を歩く宮沢賢治は、ひとりぼっちなのである。


歩いていかねばならない人は、いつでも、ひとりぼっちなのである。


そうか!

プラティエーカ・ブッダ(独覚)という人たちも知られている。

ただ独りで悟る者、教えをとくにとかない者たちのことです。

かれらは、「独り」で悟り、他の人に教えを説かないので、
ひとりぼっちのはずなのだけれど、

わたしには、あまり、ひとりぼっち、という感じが起こらない。


かれらは、きっとどこにも行かないからだろう。
去っていくことがない人々なのだ。


如来(このように来たもの)
如去(このように去ったもの)

いずれも、ブッダのことを指していうことばです。

来たり、去ったりして、しまうのは、歩いているからである。

歩いていくものは、ひとりぼっちなのである。


だからこそ、わたしたちは、如来を求めて涙するのかもしれないね。


どこに行くのでもない、どこから来るのでもない(不去不来)


そんな風に、「般若経典」で、如来を説明するのも、

如来は、ひとりぼっち、と知っているからだろうね。

===

煩悩と、中道が、微妙に絡むところに、

如来が、一瞬、たたずんで見える のかな。。

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独りいく宮沢賢治。
だけど、じっと見ると、
不去不来。。たたずんでいるようにもみえるね。

このご本を、ときどき出しては読んでいます。
西郷竹彦氏『宮沢賢治「二相ゆらぎ」の世界』です。

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