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2012年9月2日 - 2012年9月8日

2012/09/03

『梵網経』を歓喜する『自歓喜経』

暑い毎日ですね。
ほんとに9月ですか?
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お墓参りにお供えしたお花とネコ。。

あ、「お供えした」はお花だけです。
ネコにはかかりません。

では、お花だけ。
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そんじゃ、ネコだけ。120903_074403
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さてさて、『自歓喜経』と『梵網経』の話題が出てますね。

一昨日の未明、ようやく原稿を仕上げました。
難行苦行でした。

なぜなら、『梵網経』の話題を取り上げようとして、
ほんとに死にそうな目にあっていたからです。

原稿、ボツになるかも。。ドギマギ。。

『梵網経』が、いかにすごい経典か、骨身にしみました。


ブッダさまさま、ほんとにおそるべし!
わたしのような、凡夫未満みたいのが、
おそれしらずに、扱えるようなものではありません。
ごめんなさい、ごめんなさい、ほんとすみません。

っと、
口先では謝りながらも、それでも、
何とか食らいつく。。。かたい!


ほんとに 一切智者 だということを、

無限大で 実感する!!!

なんて、こった!

『梵網経』は、
外教徒の62の見解を、取り上げた だけ!だと、思うでしょ。
そして、
ブッダは、それを乗り越えている だけ!だと、思うでしょ。
そして、
外教徒の62の見解は、否定された だけ!だと、思うでしょ。


そんな、簡単なもんじゃないんです。。
って、これだけでも、簡単じゃないけど、
それが、簡単に見えるくらい、もっとすごいのです。


======
とつぜんですが、
こうして
ボロボロになって、原稿仕上げました。
======

    ~~~~~~ 

起きてみましたら、このブログに、
magagiokさまと前世は一在家さまのコメントがありました。

『自歓喜経』にかんするコメントが寄せられていました。

それを拝読しますと、
なんとなんと、6年以上も前に議論されていた問題が
また、今再び復活しているようなのです。


★★ 輪廻する問題、『自歓喜経』の謎 ★★

6年前に、
前世は一在家さまが、ある掲示板に質問されていたのが
話の発端です。

サーリプッタがブッダの説を讃歎する話を述べた『自歓喜経』の中の
常住論について、次のように述べておられたそうです。
そのままの引用を紹介してもらいました。

> 原始仏典:自歓喜経と法華経:如来寿量品第十六との共通真理
>
> 原始仏典(長部経典)の中の「自歓喜経」は釈尊とサーリプッタ(舎利弗)
> との対話ですが、興味深い一節(常住論)があります。
> 「アートマン(個我)と世界は常住であり、なにものも生み出さず、不動
> であり、石柱のように固定していて、かの生けるものたちは生死流転し、
> 輪廻しているけれども、まさに常住不変に存在している。」
>
> 尊者サーリプッタ(舎利弗)は釈尊の面前で信仰の喜びを表明したので
> 歓喜経と命名されたそうです。
>
> 法華経でも、これまで「常住不変のものは無い」と説いてこられた
> 釈尊が一転して、「実は世界も仏(神)も実相は常住不滅である」と
> 説き、弥勒菩薩ら高弟でも愕然とした次第です。(如来寿量品第十六)
> 四諦などの真理も実は方便(真の如き)だったことがはっきりします。
>
> 長部経典と菩薩乗(法華経)の共通の究極真理のようです。


釈尊は、常住論を説いたのではないか、という内容かと思います。
そして、サーリプッタがそれに感動して讃歎しているのが
『自歓喜経』の内容ではないか、ということでもありましょう。

これに対して、わたしは、コメントを求められましたので、
『法華経』はわからないのでパスして、
『自歓喜経』について、サーリプッタが讃歎したのは、
常住論そのものではなくて、ブッダの解説の仕方である、と、
次のように述べました。

【わたし:管理人エム】
> ブッダは「他人の説だけどね、常住論はこんな教えですよ」と
> 説明したのですが、その説明の仕方が、最高だったと、
> サーリプッタは歓喜しているのです。
> そこでは、第一経の『梵網経』の中の説明と同じものが、
> サーリプッタの口によってもう一度語られています。

このようなお話しで、それはそれで終わって、月日は流れ、
6年経って、2012年9月2日、

また、再び、『梵網経』と絡んで『自歓喜経』が問題になりました。

前世は一在家さまのコメントより抜粋です。

【前世は一在家さま】
> 同じ長部経典の「自歓喜経」では三つの常住論の中の一つを
> 釈尊は最高だと説いたと舎利弗が表明し、
> 仏陀もその表明が正確であると保証されました。
> それは下記の常住論ですが、
> 「梵網経」の62の見解の中に含まれますか?

> 「アートマンと世界は常住であり、何物も生み出さず、不動であり、
> 石柱のように固定していて、かの生けるもの達は生死流転し、
> 輪廻しているけれども、まさに常住不変に存在している。」
> (参照:長部経典Ⅲ、春秋社)

> 62の中に含まれるか否かに関係なく、
> 釈尊の悟りに近い論だということでしょうか。


         ◇◇◇ 

 ここで、お答えしなければなりませんね。
■1■サーリプッタは、ブッダの説いた何に讃歎しているのでしょうか。
■2■ブッダは、ほんとうに三種の常住論(の一つ)を説くのでしょうか。

サーリプッタの理解の仕方は、
お城の一つしかない門を見張って、そこを通る人々を掌握するように、
法の入り口を見張って、そこから種々の系統の法のあり方を知る
というものです。

サーリプッタは、系統立てて知る方法を得て、
それによって、ブッダの常住論の立て方は、最高!と
知ったのです。

その常住論は『梵網経』に述べられています。
サーリプッタは、なんと!あの、むずかしい『梵網経』を
みずからの力で、理解していたのです。ほんとすばらしい。

でも。。

ここは、わたしも、サーリプッタの気持ちがわかるような気がします。

なぜ、わかるかというと、
わたしも、サーリプッタに倣って、同じようにして、
ブッダの法を探って行ったからなのです。

そこから、サーリプッタと同じように、感嘆してしまうのです。

では、常住論もみましょう。

常住論は、三種であって、このような説き方は最高だ、と
サーリプッタは述べます。

どんな風に説いたか。

心統一(サマーディ)により
個人の過去世をずっとたどって見ていくのが、一つ。
個人の過去世をたどり、世界の生成か破滅かを見ていくのが一つ。
個人の過去世をたどり、世界の生成と破滅を見ていくのが一つ。

これをわかりやすく言い換えると、
1 人がどんな境涯をたどったかを見る場合
2 人の境涯と、世界の周期を破壊か生成かだけを見る場合
3 人の境涯と、世界の周期もずっと見ていく場合

このような分類で、常住論を解説したその論の立て方は最高なのです。
もっと明確にしてみます。サーリプッタ尊者の解釈によります。

過去と未来に分けて、ブッダは分析しています。
1 過去だけを知るが、未来についてはわからない常住論
2 過去を知り、未来の一部について知る常住論
3 過去を知り、未来も見通す常住論

アートマンと世界についての常住論は、この三つです。
こういう分類で説かれるなら、ほかに、常住論はないでしょう。

すばらしい。。ここに気づいたサーリプッタ尊者もブラボー!


===
で、ここからなのです。
===

ブッダは、それでは、これら常住論を説いているのでしょうか。

つまり、アートマンと世界について常住だ、としているのでしょうか。

残念ながら、それは、ありません。
これらの常住論は、接触によって感受されたもので、
渇愛から生まれたものだ、とします。

ブッダは、「さらに勝れたことを知る」と述べて、
アートマンと世界とが常住だ、とする説をとりません。

この説を採らない、とするのはたしかなことですが、

しかし、

まったく、何もかもすべて否定している、というわけでもありません。

よくよく見ますと、この常住論は、
常住論という部分だけを抜いてしまうなら、
常住論の中身の解説は、実にすばらしいのです。

ですから、ブッダは、このような解説を、自分の法の説明にも使っているのです。
過去世をずっと見ていく智慧について、
ブッダは、同じような説明を用いているのです。

ですから、常住論の説明は、捨てずに、
ただ、「常住論」という主張だけを、捨てている、と言えましょう。

ブッダは、常住論よりもっと勝れていることを知っている、と
述べています。

それは、なんだと思いますか。

自分の目で見たことだけを語って、見ていないものは、語らない、
とする態度です。

ですから、過去世をずっと見たなら、それは語りますが、
アートマンと世界が常住かどうかは見ていないので
語らないのです。

====
で、前世は一在家さまの、おっしゃること、いくらかわかります。
====

3の常住論について、ブッダは、その説明を採用しているのです。
ただ「常住だ」とはいいません。

いわないのですが、
ずっと過去世をどこまでも見ることができますし、
未来の世界の生成と破壊の周期もすっと見ることができるのです。

過去も未来も見ていけるブッダ

『法華経』の「如来寿量品」に出てくる如来も、同じですね。

ただ、『法華経』も、「常住だ」とはいいません。

如来の寿命は無量である、とはいいます。
過去にどこまでも遡ることができます。
だから「久遠である」といいます。

でも、「常住(サッサタ)だ」とはいわないのです。


「常住」は、数えなくてもわかってしまう永遠性をいいます。
「久遠」「無量」は、数えていくと数え切れないことをいうのです。

如来は実際に非常に長い時間この世にとどまって滅することがない、のです。


年を数えなければ、ブッダは生きられません。
数えもせずに、永遠だ、とは言えないのです。

だから、無数の劫を数えて、ブッダの寿命を知るのです。無量であると。


こういうことではないでしょうか。

前世は一在家さまのおっしゃりたかったことは、
こういうことではないかと思います。

=====
ちなみに、
「常住論」と「無量の寿命」という考え方のちがいは、

数学の、実無限 と 可能無限

の考え方のちがいに等しいようにも思われます。


ふーーーっ!
ようやく書きました。

もう少し、うまく書けたらよかったですが、
それでも、何とか、言いたいことをまとめられたかな。

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