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2011年7月3日 - 2011年7月9日

2011/07/07

一切智者龍樹と「空」の哲理 般若経典を支える(下)

002

花がほんとにきれいで、いろいろ咲き乱れています。
目移りしちゃうなぁ。

008
バラも見てね。


~~~~~
さて、あっという間に、月日は経って、龍樹のお仕事も滞りがち。

「管理人! 龍樹のお仕事も滞りがち、って、ひどいよ、
ぼくは、いつでも、スタンバイ、OKなのにさ。
管理人だろ、火の車なの」

「あら、内情知っている龍樹くん、暴露しないでよ。
ここんとこ、完全にパンクした状態で、
補講三つ、来週入ると思うと、気が滅入るわ」

「管理人が、(下)なんて、予告するからだぜ。
できないことは、言わずにおくんだよ」

「りゅうじゅっ!あんたのために、がんばってるのに
そんな言い方はない、と思うわよ。
あ、興奮して、名前がひらがなになっちゃったじゃない」

「管理人、そんなことはいいから早くしなよ。
ぼくのアピール、かっこよくやってくれなきゃ、ぼくも困るんだから」

「もう、追い詰めないでよ。。。何書こうとしたか、忘れちゃったんだから」

「ちぇっ! あいかわらず、自分の脳みそも管理できない管理人だなぁ」

「あ、龍樹、それ以上、長い文しゃべっちゃだめ。
二行になっちゃうから」

「ほとんど、人の話聞いてないな、管理人、さっさと思い出せよ」

「ええっと、ええっとぉ~、何だっけ、あ、スマちゃんの続きを。。っと」

ようやく、脳みそかき回して、書くこと見つけたらしい管理人。

困った管理人ですね。
みなさんも、管理人のようにならないように、気をつけましょう。

さて、始まり、始まり。

~~~~~~~~~~~~~~~~
長老さまの『般若心経は間違い?』より
再度引用します。

===========
 しかし、本人(龍樹を指す)も相対論を持ってきて、
「すべては空だ」と言ってしまったところで困ったことになったのです。

 だって、仏教はみんな修行して悟る世界でしょう?
それをどうするのか、という問題が出てくるのです。

 龍樹の失敗は、「哲学を作るなかれ」というお釈迦さまの戒めを
破ったことなのです。(p.108)
============

前回、「すべては空だ」とは、龍樹は言っていないのです、と
このように、申し上げました。

でも、なぜか、みなさま、龍樹は、「すべては空だ」と言ってるように
思ってるみたいなのです。

なぜでしょうね。

それは、当時知れ渡りつつありました『般若経典』の中に、
そんな表現が見られるからかもしれません。

『八千頌般若経典』(梶山訳『大乗仏典 八千頌般若経 Ⅱ』p.137)

=========
世尊は仰せられた。
「スブーティよ、お前はこれをどう思うか。
私は、『すべてのものは空である』と言いはしなかったか」
===========

これに対して、スブーティは、「そうです」と同意しています。

経典の中では、何の抵抗もなく
「一切は空である」
とあるのです。

龍樹は、ずいぶん慎重に
「一切は空である(空であるものは一切である)」
という文を扱っているのに、
一方、
対する『般若経典』の作者は、
いともあっさり、世尊であるブッダから
このことばを受け取っているのです。

◇◇ 1 ◇◇
長老さまのことばで言えば、
「哲学しちゃってる」
ということになりそうですが、どうなんでしょうか。

こりゃ問題ですね。


一つに考えられる理由は、

『般若経典』が、仏教の教団内部の話として、
話を進めているという点です。

つまり、世尊とスブーティ尊者という
仏教内部の身内で話をしているので
仏教の体系の中に、収まっていたと見るのです。

仏教の体系の中であれば、誰も反対しないのですから、
スムーズに理解できるでしょう。

「空」は、縁起から得られる特徴ですので、
理論的には、何も問題がありません。

議論は起きてないし、問題もないので、
哲学している、ってことにはならないかもね。

よかった。

では、「哲学するなかれ」はクリアしたことにしましょう。

でも、さらに、文句が出るかもしれません。


◇◇ 2 ◇◇
スマ長老さま風に言いますと
「修行をどうするのか!」
とい問題です。

理論がわかれば、修行しなくてもええやん、って、
ことになっちゃわないでしょうか。

長老さまの文句も、もっともなのです。

ブッダは、哲学青年マールンキヤプッタに
哲学の議論は、悟りのためにはならない
ということを教えたのです。


ああ、どうしましょう。
『般若経典』は、ブッダの教えを破ってるのでしょうか。

ちょっと見たとこ、破ってるっぽいです。

言い訳できるんでしょうか。

さあ、さあ、さあ、どうなの、どうなの???


★経典作者の気持ち★

「破ってるわけではない、
悟りが、そんなに大事なのか。

ぼくらは、ブッダをめざす菩薩なんだ。
衆生を救うために大事なのは何だ。
菩薩の行は、空を極めて、
智慧を生じなければやっていけないんだ。

『一切は空である』という文は、智慧のために必要なんだ。
自分の悟りのためじゃなく、
利他行のために、必要なんだ」

ほんとに、こう言ったかどうか、わかりませんが、
気持ち的には、こんな感じでしょうか。

空は、智慧のために必要だ、となりますと、
まさしく、修行のために、「空」はあります。

『八千頌般若経』にも、
空性、無相、無願の修行をすると、
般若波羅蜜が増大すると、
書いてあります。(梶山訳『八千頌般若経典 Ⅱ』pp.150-151.)

ブッダの法は、部派の説く修行の枠を超えて
広がってきたようですね。

菩薩行のためjに、必要なことばなら、
これは、修行にさしさわりがあるどころか
修行を推進することばになりそうです。

よかった、ホッ!

部派で説く
『諸行無常』とか『一切皆苦』とか『諸法無我』と同じように、
『一切皆空』もまた、修行のためのスローガンと
思えばいいのだ。
これは、菩薩の波羅蜜行には大事なのだ。

こう言えば、何とか、通用しそうです。

◇◇ 1と2 ◇◇
まとめてみますと、

「一切皆空」と言っても、仏教内部で説くなら、哲学したことにならない。

このことばは、菩薩の般若波羅蜜行のためのスローガンで
修行に役立つ。


長老さまの批判は、すべてクリアできたようだわね。

よかった、よかった。。。あら?

どうも、そんなに、うまいこと言ってないみたいだわ。

◇◇ 3 ◇◇

『中論』24.1に、反論があるぞ。

====================
「もし空であるのが一切であるならば、生じもしないし滅しもしない。
おまえには、四聖諦はないことが帰着するであろう。
====================

ありゃりゃぁ、まずかよ。

そういえば、『八千頌般若経』(梶山訳、p.147)にも、
「生じもしないし滅しもしない」について、
こんなことが、書いてあったっけ。

===============
世尊。「スブーティよ、おまえはこれをどう思うか。
いったい、生じもせず滅しもしない性質をもつ心というものは、
消え去るだろうか」
答え。「そうではありません」
世尊。「スブーティよ、おまえはこれをどう思うか。
いったい、もともと本体の消えている(存在しない)もの、
そういうものは消え去るだろうか」
答え。「そうではありません、世尊よ」
================

「本体」とは、「自性」とも訳されます。
それにしても、これだけ見たら、何言ってるのか、よくわかりませんよね。
むずかしいすよね。

さらには、
『二万五千頌般若経』には、
「四聖諦はない」と似ているこんな文もあります。

=================
一切の法は自性が空であって、衆生もなく、人もなく、自己もない。
一切の法は幻のごとく、夢のごとく、こだまのごとく、
影のごとく、陽炎のごとく、変化(へんげ)のごとくである。

(一切法自性空無衆生無人無我。一切法如幻如夢如響如影如焔如化。)
=====================

空であるなら、生じもしなくて滅しもしないようですね。
そして、
空であるなら、自性もなくて、
そうなると、
すべては、幻のような変化のような、そんなもののようです。

そしたら、ほんとに人もいなけりゃ、自己もなく、
また、そうなら
反論者の言うように、四聖諦もないことになるのではないでしょうか。

そして、この話に乗っちゃうと、哲学の議論をしちゃうんじゃない?


ああ、どうしたらいいの?
困った、困ったわ!
ああ、誰かぁ、たすけてぇ~~!

助けを呼ぶのは誰かな?

ジャーン!!!
さっそうと、登場したのは、我らがヒーロー、
仏教の難問解決いたしますマン。
その名も お助け菩薩の 龍樹なりぃ!

ぴゅーぴゅー、いいぞ、いいぞ、待ってましたっ!

管理人!はしゃぎすぎだよ!
冷静になれよ。

あ、ごめん、龍樹、ついつい興奮しちゃうもんだから。
で、どうやって解決したの?
ね、ね、おせーて、はやく。

ぼくが言うのは、そんなにむずかしくないさ。
「時にしたがって語ること」、これを守ればいいのさ。

最初から、「空だ、空だ」と、語るからわからないんだよ。
空なら、生じも滅しもしない、と言われると、

そうなら、
人(プルシャ)もなくて、自己(アートマン)もなくて、四聖諦もなくて、
煩悩を断つこともなくて、涅槃をうることもなくて、修行もなくて、阿羅漢もない、
と、
こうなるのは、、愚か者には、道理のように聞こえてしまう。

だから、話の順序を考えて、こう話すのさ。
『方便心論』一・四・五 「随時而語」

===================
 【問い】どのような語りによって人々は信じ了解するのだろうか。

 【答え】もし愚か者のために深遠なる事柄を区別して(こう言うと)しよう。
すなわち、諸法は皆ことごとく空寂であって、自己はなく人(プルシャ)もない、
幻のごとく変化(へんげ)したもののごとくであって真実はないと。

このような深遠なる事柄は、智者は了解するが、普通の人が聞いたら、
迷って理解するのを断念してしまう。
これは、「時宜にしたがって語るもの」とは言えない。

もし、諸々の存在には行為(業)があり、結果や束縛や解脱など、
行為をなす者や享受する者があると説くとすれば、
知恵の浅いものがかりにこれを聞くならば、たちまち信じ疑うことはない。
棒と台木を錐もみして、たちまち火が生ずるようなものである。

もし説き明かされた(空の譬喩)が直前(の業・輪廻説)にしたがっているならば、
人々は皆信じ楽しむであろう。
このようなものを、名づけて「時にしたがって語るもの」というのである。
========================

なんだ、話し方の順序を考えろ、ということね。

最初から、空だ空だと、説いてしまうから、わからなくなるのね。

さいしょに、縁起を説いて、行為によってその結果が得られる、
煩悩によって輪廻があり、煩悩を断つと解脱がある、と説いてから

このようにものごとは、すべて自性がなく、空であって、
永遠不変のアートマン(自己)やプルシャ(人)のようなものはいない

と、こうすれば、問題ないのかぁ、なるほどねぇ。。うまい手だわ。


縁起を語ってから、空にいく
善悪を説いて世俗を語ってから
空である第一義諦に向かうのね。


そうね、そうかもね。

『般若経典』がむずかしいのは、すぐ第一義諦の「空」に
ずぼっと入ってしまうからなのね。

龍樹は、般若経典も、支えているのね、えらいわ!


そうそう、そういうことからすると、
従来の、
「アビダルマの有の理論を批判するために
龍樹は、空を説いた」
という説は、ちょっと問題があるのかもね。

哲学批判のために、空を出したのではなく、
ブッダの法の中で、修行のために必要だから
空を出した、

って、言えそうだよね。

この辺は、もう少し、検討した方がいいかも、ね!
もっといろいろ出てくるかな?どうかな?


とにかく、龍樹!
たいしたこと言ってるわけじゃないのに、
すごく、かっこよく見えるところが、さすがだわ!

何だよ、管理人っ!
そんな誉め方、ないだろ、ひどいよ、ひどいよぉ。。。。
これ、論法なのにぃ。。争わない論法なのにぃ。。
もう、ぼく、帰っちゃうからっ!

あ、帰っちゃった、意外と、人間できてないのね。

でも。。。
部派を助け、大乗を助けても、さっさと帰るところが、

龍樹は、空 。

やっぱ、かっこええよ、龍樹!

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