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2011年6月26日 - 2011年7月2日

2011/06/28

一切智者龍樹とゲーデルの不完全性定理 部派の立場を支える(上)

006
大通り公園の昼下がり。

サンドイッチと水で、忙しく昼食。
あわただしいけど、
それでも、
緑はくつろぐなぁ。

008

木陰も気持ちがいいね、
っと言いつつ、
なごり惜しくも

「さ!出かけよ」

~~~~~~~~

さて、そろそろ書いておくべきだろうか。

龍樹について、いろいろ論文を発表したり、本も出したりして、
龍樹のなしたさまざまな仕事を、みなさまに、
できるだけ、あるがままに伝えようとしてきました。

わたしの原点は、やっぱり

『方便心論』

だと思います。

この書の中身が、いかにすごいかを、伝えることが、
使命であるようにも、思ったのですが、
力不足と暇不足のため
中だるみの感がいなめません。

さらには、

龍樹について、従来の説以上には
その理解も進んでいるようには、思えないのです。

やっぱり、このままいくと、
また、龍樹は、詭弁論者のように思われて、
埋没していくのだろうと、思うのです。

だから、やっぱり、言うべきことは言っておきましょう。

何となく、言い争わないように、と思って、
遠慮してきましたが、

別に、

何に遠慮しなければならないこともない、と
思い直したので、

ここに
書いておきましょう。

================

龍樹は、一切智者であります。

================

これが、何を意味するかを分かる人は、あまりいないのです。

とくに、仏教の内部では、ほとんど希望がもてないことを知りました。

こんなことを言っては、まことに申し訳ないのですが、
仏教の宗派などにこだわっている限り、
「一切智」のことなど、
思いつきようもないのです。

一切智を得ている人を、一切智者といいます。

「一切智」は、文字通りに「一切」について、
何らかの形で言及できることを言うのです。

そうできるためには、

仏教の内部にとどまるだけでは、だめなのです。
ましてや、宗派にこだわるのでは、もう終わっています。

仏教の外部の人々とこそ、語り合えることが、必須なのです。

仏教の内外を掌握してこそ、一切智者でしょう?
そうではないでしょうか。

ですから、

語り合う手段(方便)をもっていること、

ここが大事なのです。
その方便の核心が説かれているのが、


『方便心論』なのです。


ここには、語り合うための「論理」と「論法」が
あるのです。

『方便心論』は、

仏教外部の人々と、さらには、仏教内部で意見の異なる人々と
対話する術を記した画期的な書なのであります。

このような書は、仏教広しといえども、論書としては、
わたしの知る限りでは、この一冊しかありません。

===============
何が書いてあるのでしょう。

★1 仏教の世界の中で語るための、文法(論理)です。

いわば、経典の読み方、解読の仕方です。

★2 仏教を知らない人と語り合うための共通のルールです。

妥当な、推論の方法や説得の仕方です。

★3 争わないで、討論を収拾する方法です。

誤った説明方法、論議で敗北するところなどです。

================

この ★3 は、とても大切なのです。

ブッダの法に絶対理解を示さない人、自分の意見に固執している人、
このような人々と、最終的に、

どういう関係を持つか 

ということが、大事なことだからです。


最終的には、互いに関わりあわない、という
離れた関係を構築することになります。

    ***

争わないでいるためには、
相手の意見は、そのまま尊重するしかありません。

しかし、だからといって
相手の意見を受け入れてしまっては、
ブッダの法によって生きようとする立場が保てません。

「あなたの意見は、受け入れられない」と、、
はっきり言わなければ、
なし崩し的に、相手に取り込まれてしまうかもしれません。


    ***

このとき、ただ、「相手の説を否定する」というだけの論法が
必要なのです。

というのは、論法もなく、相手の説を否定するだけなら、
相手は、論拠をもって、こちらにせまってきて、
何とか認めさせようと、ねらうでしょうから。

自説を説かずにいて、しかも、相手の説を認めずにいるためには、
それなりに高度な討論の術を要するのです。

独自の論法をもたねばならないのです。

これによって、相手と無意味に言い争うことなく
討論を終わらせることができるのです。

    ***

相手と完全に、意見が異なる、ということを示し、

なおかつ、

そうでありながら、自説はとくにもたない


ここを世界に明瞭に示したのが、

ブッダや龍樹です。

    ***

これは、20世紀最大級の功績とも言われる
ゲーデルの不完全性定理と関連させて
話をすることができます。

なぜ、ゲーデルを持ち出すかと言えば、
まず第一に
現代にいたるまでの一切の人々を対象として
ブッダと龍樹は、話をすることができるからです。

また、第二に
ゲーデルの定理は、ブッダや龍樹の解明したものと
等しい内容を持っていて、人々によく知られているからです。

    ***

さて、
龍樹の説く ★3が、ゲーデルに匹敵する内容です。

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ゲーデルの定理は、意見の対立の究極に決着を与える内容です。
決裂の定理、とも名づけてもいいかもしれません。

では、その内容を見ていきます。

    ***

意見を持つためには、まず、自説を体系づけて構築しなければなりません。

たんなる意見ではなく、ある種の根拠をもった意見を述べるためには
体系立てて、論理的に根拠づける必要があります。


もし、ブッダにも何か意見なり何なりがあるならば
体系があることになります。

実際
=======================
ブッダは、縁起という論理を基盤にして、体系を作りました。
=======================

ブッダの縁起の体系は、その内部においては、矛盾なく、完全に閉じています。
その体系の内部においては、なんでも分かるので、一切智者なのです。

しかし、体系の外部においては、どうでしょうか。

ふつうは、体系外は、当然、だめに決まってます。

ところが、ブッダの場合、なんとぉー!
体系外が、ないのであります。

なぜなら、縁起は、他に縁って起こる関係なので、
誰でも、話しかければ、仏教の反対派であろうとなんだろうと
縁起が成り立ち、体系内に入ってきてしまうからなのです。


なにぃ~~、そんなぁ~。。ずるいぞ、ブッダ。。

などと言っても、仕方ありません。


ブッダは、体系内部では、一切智者!
しかも、外部がない。。。みたい。。

ではでは、ブッダに逆らうものは、いないのでありましょうか。

それが、そうでもありません。
どんな人にも、逆らうヤツというのはいるのです。

そういう人に対するとき、
ここで、ゲーデル問題が浮上してきます。

◇ゲーデルの第一不完全性定理~~~~~~~
体系の内部では、無矛盾であることが分かっていても、
体系内に、論証も反証もできない命題(文)が存在する
◇~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

◇ゲーデルの第二不完全性定理~~~~~~~~~~~~
公理系において、無矛盾であれば、その体系の無矛盾性は証明できない
◇~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この二つの定理によって、
体系を楯にして、ブッダが好き放題できるということはないのです。
相手に自説を証明することはできないのですから。

ブッダは、そのことを知っていたので、
意見を異にする人とは、争わず、自説を引っ込めました。


控えめブッダ、自説を立てて言い争わない!
えらいぞ、ブッダ、なんでも知っている一切智者!

    ***

そしてまた、龍樹もそうしたのです。
たとえば、こんな風です。

「空なるものは、一切だ」と、主張したくても、
それは、反対派の人には、証明することはできないことを
知っていたので、主張することはありません。

でも、一方、、

相手が、反証したくても、それもできないことも、知っていたので、
この「空なるものは一切だ」という言明は、反証されないないことも
明らかにしたのです。

すなわち
ゲーデルの第一定理と同じ内容を、明らかにして、
かれは、議論をすることなく、相手との討論を終えたのです。

    ***

このようなことを知るとき、龍樹についての見解に
訂正を入れておきたいと思います。

スマナサーラ長老さまの『般若心経は間違い?』にある次の説を取り上げます。


===========
 しかし、本人(龍樹を指す)も相対論を持ってきて、
「すべては空だ」と言ってしまったところで困ったことになったのです。

 だって、仏教はみんな修行して悟る世界でしょう?
それをどうするのか、という問題が出てくるのです。

 龍樹の失敗は、「哲学を作るなかれ」というお釈迦さまの戒めを
破ったことなのです。(p.108)
============


これは、『方便心論』『中論』『廻諍論』により、
あたっていません。
「すべては空だ」とは、龍樹は、言っていないのです。

龍樹は、「すべては空だ(空なるものは一切だ)」と主張するなら、
この文は、論証することも反論することもできない、と
述べたのです。


=============
論争の中で反駁を行うとき、空性を持ちだして語る人は、
何ものをも反駁できていないのであって、
ただ証明すべきものに等しいものが生じているだけである。
(『中論』4.8)

論証の中で非難を行うとき、空性をもちだして語る人は、
何ものも非難できていないのであって、
ただ証明すべきものに等しいものが生じているだけである。
(『中論』4.9)
===============


「空性を持ち出す」とは「一切は空だ」と主張することを言います。
「一切は空だ」と主張しても、証明できないし、
反論者は、反証することもできない、と言うことが説かれています。

    ***

だから、お釈迦さまの「哲学するなかれ」という戒めも
破っていないのです。
むしろ、哲学できませんから、自説も説きませんよ、と、
龍樹は、他の人々に述べて、部派の「ブッダの体系」を守ったのです。


部派の持つ「ブッダの体系」とは、
十二因縁、苦集滅道、三十七菩提道品、四沙門果のような教説をいうのです。
これは、仏の正義と名づけられている、とあります。(『方便心論』一・三・七・一)


スマナサーラ長老さまは、きっと、
これらは、修行の方法であって、哲学ではない、とおっしゃるでしょう。
「ブッダの哲学体系」はない、とおっしゃるかもしれません。

それは、それでよいのですが、
反対派の人々は、そんなことにかまわず、いろんなことを
やいのやいのと言うでしょう。

縁起の理法を持ち出せば、哲学体系だ、とか何とか、
やいのやいの言うかもしれません。
逆らうヤツは、どこにでもいて、いろんなことを言うのです。

そうなってくると、長老さまは、議論できませんので、
黙ってしまうことになります。

   ***

ですが、龍樹ならば、相手が哲学体系と見ても、対話できるのです。

このような哲学体系を打ち立てて言い争うことは、
決着のつかない水掛け論になることを
ゲーデルの第一と第二定理は示しているのです。

そのような内容のことを、龍樹もまた語ることができるのです。
なぜ、水掛け論になるかを、立証できるのです!!

お黙り、君たち、議論は終わった。
ぼくも証明できない「すべては空だ」は主張しないさ。
だから、君らも黙れよ。
君らだって、反証しきれる論理を持たないのだからね。
スマちゃん、いじめるのは、よせっ!

==========
こうして、龍樹は、テーラワーダ仏教を、大乗の言い争わない立場で
支えているのです。
==========

●スマナサーラ長老さまは、智慧あるサーリプッタ尊者のようですが、

しかし、

哲学するなかれ

という教えを守って、修行の方法をとくにとどめます。


●龍樹は、智慧波羅蜜により、一切智者となって、

哲学するなかれ

という教えを守って、哲学しても意味がないことを

ことばで説明しているのです。


えらいね、龍樹。
なのに、みんなは、分かってくれない。。。

いいよ、わたしが、嫌っていうほど、しつこく書いてあげるからさっ!

次は、一切智者龍樹は、般若経典をも支える、という点について、
述べてみます。


でも、何で、こんなに、龍樹のために尽くしてるんだろう。。
少しは、自分で何とかしてほしいわよ、龍樹ってば。
わたしみたいな能力ないのを頼りにしないでね、ブツブツ。


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