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2011年6月19日 - 2011年6月25日

2011/06/20

生者と死者と

014

『お葬式の才覚』を読んだからではないでしょうが、
親族の死に出合ってしまいました。

『お葬式の才覚』で説かれていたことが、
実況中継するかのように起こってしまって、
いったんはまるとそうなるシステムを体験してしまいました。

悲しむ暇も何もなく、
レールに乗った哀れな死者と生者は、
お葬式セレモニーの嵐にもまれながら
すべてを無事に終えて、ホッとしているのです。

これからさびしくなってきそうですが、
まだ、
感覚が麻痺しているので、
今のうちに
こんな話を書いてみましょう。

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火葬場で待ちながら、従兄弟がこんな話をしてくれました。

昔、ぼくが、まだ学生だった頃、あるお通夜の席で、
おじさん(わたしの父)と、ずっと夜通し話をしていたことがあった。

そのとき、ぼくは、若かったので、おじさんに、

「こんなに科学が発達して、なんでも可能になってくると、
そのうち、宗教なんて必要なくなるんじゃないでしょうか」

と、聞いてみた。

そうしたら、おじさんは、忘れられないことを言ったんだ。

「いや、科学がどんなに発達しても、
人間に死というものがあるかぎり、
宗教はなくなることはない」

ぼくは、そのことばが忘れられなくて、ずっと心に残った。

それから、いろいろな出来事にであってきたけど、

このことばは、いつも、つじつまが合っているんだ。

なんて、おじさんはすごい人なんだと、思ったんだよ。
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へぇ~、知らなかった。
こんなことを覚えている従兄弟も、すごい人です。


でも、わたしが、お通夜で法話を聞きながら、
思ったことも、同じことでした。


お坊さまは、いろんな話をしていました。

死は、誰にでも訪れ、他の誰も代わってくれない。
不老不死を求めても、得られることはない。
だから、老いや病や死は、受け入れるしかない。
お釈迦様も、あるがままに受け入れよ、と言っている。

このようなことを語っていたように思います。

最近は、浄土真宗でも、極楽往生を積極的に説かないのでしょうか。


ああ、だめだなぁ、死を説けない。
死について語ることができない宗教家は、
宗教家になれない。
人々の疑問に答えられないのだから。

だから、葬式仏教と言われるのだなぁ。

葬式仏教と言われるのは、お布施が多額だからではありません。

宗教家なのに、死について語れないからです。
死について語るだけのものがないと、どうしても、
世俗の価値の中だけで生きることになる。

こうして、葬式仏教という、うれしくない呼び名がついてしまうのか。。

こんなことを考えながら、

不死を求めて、ついには不死を得た沙門ゴータマのことを
考えていました。


死は苦しみである。
苦しみからの解脱は、涅槃である。


もっと、死について語れ!


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