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2011年6月12日 - 2011年6月18日

2011/06/12

『お葬式の才覚』という本あります

002
キングサリという名の木です。
名前とぴったり、とても印象的です。お花が鎖のよう。

さて、こちらは、鎖は鎖でも、輪廻の鎖に絡む
こんな本はいかがでしょう。
Photo

藤本晃氏 『お葬式の才覚』(新人物往来社)

「日本人なら知っておきたい」という副題がついています。

浄土真宗のお坊さまである藤本氏が、
みずからの仏教とお葬式について、
ふつうの人が知りたい疑問に答えていきます。

お葬式って?
遺骨や遺体は、どうしたら?
戒名って?
お布施って?
お金はいくら?

このように書くと、
「お葬式のやり方」にかんするノウハウを教えてくれるだけのように見えます

が、

それはちがいます。

仏教という宗教が、一般の人の死に対して、
どのように向き合うかを書いた本とも言えます。

また、

一般の人には、「死」とは何か、他者の死を弔うとか何か、
仏教の立場から、わかりやすく教えてくれます。

また、

お坊さんが抱える葬式仏教という仏教のあり方にも
一つの見識を示します。

宗教の立場
一般の人の立場
僧侶の立場

それぞれ三つの立場へ向けられた
藤本氏のメッセージです。


そこにあるのは、貫かれた仏法の一つの立場

公平性 が見られます。

公平性?
なんの?


お葬式をしなければ、
死んだ人も
生きている人も
僧侶も

この世で安楽ではありません。
公平に不安があるのです。


死んだ人にも不安があるのか、ですって。

死んでいくときに、あるいは、生きているときに
死についての不安があって、
それが、尾を引いて、お葬式などにかかわる不安へと
発展していくのです。


そもそも、死について、語れる人がいないので、
一様に漠然とした不安があります。

まずは、この「死」ということについて
=================
「心」が「身体」をあきらめて離れること
=================
と説明して


「心」を故人ととらえて、その心に敬意を表するのが

お葬式である

という説明が、なされます。

そして、お葬式にかかわる一切のことは、
一つの基準で語られます。

それは、どんな基準?

それは、
善なる行為になるかならぬか
ということなのです。


ノウハウ本のようでありながら、
さりげなく、真理(法)がひそんでいます。

心の問題を解決するのが
仏教である

という、根本的な方針で貫かれているので
お葬式という儀式にも、ぶれがありません。

論理的な側面から
人々の安心が得られるように
巧みに説かれています。

論理的であることは安心であり、
そこに
倫理的でもあればいっそう安心なのです。

この二つを柱にして

人々が、語りたいと思いながら
語るすべをもたなかった一つのもの

こころ

それが、死の現場をとおして語られています。

葬式仏教は、死をとおして生きることを見つめる大事な場面を
受け持っていると思います。

もっと、死を語れ!

具体的で実際的でありながら
倫理的・道徳的であり
奥底に、哲学的な深淵を秘めた本でした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
さて、さて、
お葬式より、もっと「死」そのものへ
といきたいわたしの思うところは、次のよう。


より深く、わたしたちが考えるなら

不生を求めて、不死へと到達した

お釈迦様にまで行きつくことができますが、

それは、遠い遠い道です。

「不生」「不死」

このことばは、わたしたちを迷宮に誘って

いまだに、仏教は、むずかしい教えのまま

わたしたちの前に横たわっています。

生があるなら、不生があっても良いだろう。
そして、それを求めることもできるだろう。

ここに、人間の可能性が広がります。
こう思ったのは、お釈迦さまが菩薩だった頃

はるか昔、昔、スメーダといわれるバラモンのとき、

このときから、輪廻を乗り越える長い旅がはじまるのです。

生まれたら死んでいくのがならいなら
生まれないことを求めることもありうる!

なんて、すごいことを考えるんでしょうか。
人間を超えるためには、限界を超えなくちゃだめなんだと

思うのでありました。

とりあえず、終わり。

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庭の牡丹が見事です。

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