だいじょうだんに振りかぶって、大乗だい!

秋もいぬめり。。 ですね。。
さて、っと、感傷にひたっていないで、いってみよう!
以下ににあげるのは
「マジカナ・アーシュラム」(マジカナ道場)No.6437 で
硝煙さまの 「大乗に関する問い」 に応えたものです。
わたしとしては、今のところ、こういう考えです。
「大乗」にかんする わたしの意見として
自分でも、まとまっていると思うので
ここにあげてみます。
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> ・大乗と龍樹の関係について
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龍樹が活躍していた頃に出会えた大乗の経典については、龍樹は、否定しているものはありません。
非常に好意的にとらえ、よく理解し、できるかぎりそれらを世に広めようとしているように思われます。
法華経についても、『大智度論』の中に言及があります。
龍樹は、2~3世紀の人ですから、大乗仏教についても時代的な制約は受けますが、大乗の広がりを歓迎して、積極的に広めようとしているように見えます。『宝行王正論』(瓜生津訳「宝行王正論」(『大乗仏典』第14巻より)という本の中で、大乗をほめています。
大乗は徳の宝庫で、みずからの利益を顧みることなく、他人の利益をともに味わうことを喜びとするものです。(4-69)
施しと戒めによって利他を、忍耐と努力によって自利を完成します。禅定と智慧は解脱のためにあります。これが大乗の要点であります。
仏陀の教えは要約すれば、利他と自利と解脱であります。それらは六つの完全なる徳(六波羅蜜)のなかに収まります。それゆえに、これは仏説であります。(4-81,82)
このように大乗に対する賞讃を説き、また、大乗を非難する人々を戒めています。
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> ・大乗は仏教か
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仏教ですね。たしかに、これまでのブッダの教えには無いようなことが説かれているように、「一見」見えます。
しかし、よくよく読むと、いずれもブッダの教えの中に潜んでいるものであり、それを敷衍し発展させているということがわかるかと思います。
では、なぜ、ブッダの教えに潜んでいるものをわざわざクローズアップしたのでしょうか。
やはり、時代的に仏教が行き詰まりを感じてきていたからではないでしょうか。
大乗仏教は、何を説いているのか。
おおよそ一言で言うならば、「菩薩」について、「菩薩の行」について、集中的に書かれたものであると言えるのではないでしょうか。
ブッダは、仏弟子たち(声聞)のために教えを整備して説きました。それが、原始仏典にまとまっているものです。
ところが、それだけでは、世の中に対応できなくなってきたので、人々は、ブッダ自身が、悟る前の菩薩であった頃を、経典の中から読みとって、自分自身もそれに重ね合わせ、菩薩がいかにブッダへと修行していったかを、探ろうとしたと思います。そのような流れの中で、多くの大乗経典が生まれ出てきたものと思います。
菩薩の自分が、ブッダになる、という、遠大な計画を実行するために、数々の経典が世に出て行ったのであると思います。
ブッダの直接の教えは、阿羅漢になるという教えにとどまっています。
もちろん、ブッダも、阿羅漢です。声聞たちも、それをめざし、結果、多くの阿羅漢を生まれてきました。
でも、ブッダは、阿羅漢だけではなく、如来の十号という称号にあげられているような、いくつもの優れた特徴をもっています。正徧知※とか明行足とか世間解とか、いろいろです。
(※ これは、正等覚者のことです。一切智者でもOKでしょう。
ついでに、明行足は、「知恵と行いを具えたもの」ということで、
世間解は、「世間を知るもの」ということです)
このような特徴を、阿羅漢に加えて、さらにプラスしていけば、ブッダのように、多くの人々を救うことができます。
こうして、菩薩からブッダへの、広大なる目標を掲げて、大乗の運動は興っていったものと考えます。
ですから、大乗経典は、大半、かならず菩薩にかんする内容です。
法華経というのは、わたしの理解ですが、これは、簡単に言いますと、菩薩を励ます経典であると読んでいます。
いろんな読み方ができると思いますが、すごく一生懸命書かれた経典で、読むと励まされますね。ブッダの教えの中から、たしかに生まれてきたものと、わたしは、思っています。
華厳経は、わたしの読み方では、悟りの内容と菩薩行を説くものと簡単にとらえています。まあ、あまりよくはわかりませんが。。。勉強不足っす!
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> ・仏教とは
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ブッダになるための教えを説くもの
と、あえて言ってみましょうか。
だいじょうだん!は、ここかな。。。
え?
なに?
どんな字かって?
大上段。。。
ちがいます?
大冗談。。。。
って、それは、ないすよぉ。。。泣。。
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> ・仏教の習合変遷は是か
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習合変遷は、どうしても起こりうるでしょう。
仏教は、諸行無常を説きますから、この「無常」の特徴をみずからもたねば、仏教は仏教と言えないのではないでしょうか。
縁起(因縁)の理法は、如来が出ても出なくても定まっている、決まっている
ということを、ブッダは述べています。
縁起が、定まっているなら、仏教も、常に「他に縁って起こる」ことになるでしょう。
「他に縁って」の「他」が、さまざまな思想や文化や習慣や風習に彩られたものであれば、とうぜん、それにあわせて仏教の教えも説かれることになり、以前とは異なるようにみえるのではないでしょうか。
このように変化した(ようにみえる)仏教の展開の中に、ほんとうにブッダの教えが入っているのかどうか
この点は、いつもきびしくチェックされねばならないと思います。
仏教を受けとった多くの優れた人々が、法をつないで今日に伝えていると思います。
変化したすがたを持ちながら、しかし、なおかつ仏法であると言えるような要素を十二分に具えて、仏教は、今日も生き続けていると思っています。

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