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2009年9月13日 - 2009年9月19日

2009/09/15

救われる

002

 
 
  

 
 
「救う」を書いたなら

やっぱ、バランス的に

「救われる」って、こなくちゃ、ねっ!
 
 
 
しかし、このことば。。。究極のことばですね。。。

救う と 救われる

この関係は、わたしたちが生きている世界の中では
 
めったにお目にかかることはないだろう。。。
 
そう。。思われるのに
 
 
でも、
 
 
やっぱり、この短い生涯に何度かは確実に

経験できることがらだと思う。
 
 
救う・救われる、という関係は
 
 
これは、個人的な関係というわけではない

しかし、また

これは、普遍的な関係というわけでもない
 
 
 
別な言い方をすれば

 
これほど、個人的な関係はない、とも言える。

 
また一方で

 
これほど、普遍的な関係もない、とも言えるのである。
 
 
これじゃ、
なんだかわかりませんね。
 
 
 
 
この関係は、不思議な関係である。 
 
 

 
 
大きな災害で被災者になった人たちは
  
 
ボランティアの人の作ってくれた 
 
炊き出しのおにぎりや一杯の味噌汁に
 
何を見るだろう。
 

 
おにぎりの温かいぬくもりを手に感jじ
熱い味噌汁がのどを流れていくとき
 
 
人は、受けとるのである。  
 

 
たくさんの人の温かい心を。
 

 
 
救う心と、救いの手と がある。
救われる心と 感謝のことばと がある。
 
 
これが、救う・救われる、という関係である。
 
 
 
この関係で用いられるのは
 
何だろうか。。。
 
 
それはね
 
 
   
 
 
ただ、それだけなんだよ。

 
 
他には、何も使われないのさ。
 
一つの心が差し出され 
一つの心がそれを受けとる。
 
 
これで完了するから、
 
この関係では、「人」ということばはいらない。
心があるなら、それでいい。。。

だから、個人的な関係ではない。 
 

 
また、
 

 
心と心とのつながりは、人間一般の領域ではない。
心があるなら、それは具体的。。。

だから、普遍的な関係ではない。
 

  
 
純粋に、一つの心は、もう一つの心とふれ合うのである。
確実な関係なのである。
 
そして、それ以上、求めるものは何もない。

エゴもない。価値もない。判断もない。
 

ただ、あるのは、
無私で公平な優しさである。  


だから、第三者の判断?
そんなものはいらない。
心に第三者はないからね。

あるのは、救う心と救われる心だけ。。

======================

 
とはいえ、

世俗では
 
心は人の中にあるとも考えられている。
 
 
「救う」心をもった人は、菩薩(ボーディサットヴァ)といわれる。

 
 
じゃ、
 
 
救われる心をもった人は、なんて言われるんだろう。。

やっぱり、菩薩でいいのかな。。。
 
 
悟りを求めて、救われたい心をもった菩薩は
 
阿弥陀仏のところにお願いに行くのが

いいかもしれないね。。※
  
 

だから、阿弥陀仏と菩薩の、究極の個人的関係 かもしれない。

これはまた、仏と菩薩の、究極の普遍的関係 とも言えるかもしれない。

 
どうなんだろうね。。。  
001
  
 
 
 
 
 
 
さあ、ようやく『教行信証』に行けそうだ。。。


 
 

※ 09.16.午前10:06 追記

ちょっと、唐突だったですか。阿弥陀仏が、出てくるのは。。。。

四十八願の大願を起こして、仏になった阿弥陀仏は、
「救う心」が、究極の形をとったもの

と言えるかもしれませんね。

お釈迦さまもいいけど、
「大悲」に満ちてるのは、やっぱ、阿弥陀さま かなっ。。って

阿弥陀仏にどこどこまでもすがる人々は、
「救われる心」のエキスパートになれるかも。。。親鸞上人みたいにね。
 
 
こういう関係だと
 
阿弥陀仏と衆生との、ちょー個人的関係 だし
 
救う心 と 救われる心の ちょー普遍的関係

とも言えそうだ。

このあたり、わかりにくいかな?
 
ここは、管理人、勉強が足りないから、
 
こんなとこで勘弁ね。。
 
 

 
ああ、予習しなくちゃいけないんだよぉ。。

こんなとこで、いつまでもひっかかるなよ、間に合わないぞぉ。。

うぎゃーーー!
 

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2009/09/14

救う

002
 
  

 
 
 
 
プルーンです。
食べられる運命です。
ジャムになりました。003
 
 
 
 
 
 
 
人の命を支えるプルーン。。
食べ物を食べて人は生きる。
 
だから
プルーンは、人を救っている。
 
でも、
プルーンは、それを知らない。
 
 
 
これですね。。。フムフム。。 
 
 
「救う」について、考えてみましょう。 
 
 
 
菩薩は、生き物を救う、
 

 
っていいますか
 
 
 
生き物を救おうと、願いを起こし
 
悟りに至ることなく 
 
はたらく人を、菩薩という。
 
 
 
「救う」という行為は
 
心に思うだけでも、行為である。
実際に行動しても、行為である。 
 
 
で、行為には、三つありましたっけね。
心の行為、ことばの行為、身体の行為。
 
 
 
「願」はとても強い心の行為です。
 
その願いをもって
 
他の人のため(利他)に何かを行うとき 
 
非常に強い影響を与えるだろう。
 
 
 
そこで、 
利他行は、尊い行為でしょうか? 

 
尊いかもしれない。。。でも。。。 
ときに、余計なお世話にならないでしょうか?
 
 
こういう心配が出てくるだろう。 
 
 
「救う」が、大手を振って、
人々のあいだを
闊歩しはじめると
 
人々は、「救う」ということを
敬遠しはじめる。 
 
 
救うものには、自己満足の行為で
救われるもの(?)には、大迷惑

な~んてことに、なってしまいそう。。。


まずいすよね。。。
菩薩の行為は、まったく救いがたい行為になっちゃうよ
 
 
 
だから、
 
「救う」ということばは、
気をつけて使わなくてはいけない。
 
 
心の中で思う行為は、それはそれ。。。勝手にやりなはれ
                       (菩薩の自己責任だね)
 
実際に行う行為も、それはそれ。。。ま、勝手にやりなはれ
                     (これも菩薩の自己責任) 

 
 
しかし、ことばによる行為
 
「わたしが、おまえを救ったのだ」
 
とは、
 
救ったと思われる相手に向かって 
 
口が裂けても、言ってはいけない。  

 
 
あ、っと言う間に

せっかくの菩薩の利他行は
 
「救いがたい」行為に、転落しちゃう。。 
 
 
「わたしが。。」と言った時点で
すでに終わっている、と知らねばならない。。。 
 
自我の行為は、煩悩の行為だからねぇ。。
 
 
だから、
 
仏教では、
 
救うものも、空である
救われるものも、空である 
 
などと言って、「救う」を行う人は
「救う」ことにこだわらないで、
「救う」行為に、邁進する。
 
 
凡夫風に言うなら、
 
「救う」というのは
 
そうする人にとっては
 
自己完結している行為なのである。
 
 
救おうと、心に強く願い(原因)
 
それを実行する(結果)
 
という 心の行為と他の行為とのあいだでの
 
因果関係で完了する。 
 
 
それで、すべてはきれいに完結する。
 
 
プラットホームから落ちた人を
 
救おうとした青年は
 
 
落ちた人を見た瞬間に
 
 
強く願った。。。。「助けよう」。。。。 (原因)
 

次の瞬間に 

 
かれは、
線路に飛び降りた。。。「助けるぞ」。。。。(結果)
 
 
かれは、ここで結果を受けとった。 
  
 
これから、どうなったか、って?
 

 
後のことは。。。後のことさ。。
 
 
 
だから、

もし、
落ちた人が助かって
助けた人が助からなくても
心配することはない。。 

 
助けたかれは結果を受けとっているから。 
 

 
落ちた人は、助けてくれた人を思って
罪の意識におびえたりする必要はない。  

 
助けたかれは自分の結果をちゃんと受けとっているのだから。
 
 
 
自らの「救う」という行為を、
きちんと自らのうちにおさめて

かれは、
「救う」行為を吹聴せず、また
言い訳をしたりすることもない。

 
 
失敗しても、成功しても、
それは、かれにとって、問題ではない。
 
 
だから、
 
かれの思いを受けとめた人々だけが  

落ちた人と助けた人がどうなったか、
という結果にかかわらず
 

かれの行為を

 
「救う」と


呼ぶのである。
 
 
 
 
 
これが、プルーン菩薩の

空のお仕事ね!
 
 

※ ちょっと、改訂してみました。。。
あんまり変わらないかな。。。
(9.14 午後6時10分くらい) 

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