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2009年6月28日 - 2009年7月4日

2009/07/01

龍樹との出会い。。系。。ちょっと、イタッ

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ガス灯のある風景、って、感じですね。

しょっちゅう通っていて、
あまり意識してなかったんですけど

写真に撮ると

かっこいいです。。
 
 
ところで、


龍樹くん、きみが出てくると

どうも、話がこじれるね。

困ったヤツね。。。


どんなに

避けようとしても 
 
どうしても、こういう場面が

出てきちゃう。。

三浦氏と久馬氏には、

ご迷惑をおかけしていますが、

これが、

龍樹との出会いで

よく

起こることなんです。

だから、、

勘弁してください。

 
 
たぶん、だいじょうぶ!

痛みはあるようにみえて

ほんとは、

痛くない出会いです。

血ぃ出てないから。。。ね。

いたいのいたいのとんでけぇ~。


 
多くの人は、こうして、

龍樹との出会いをはたしてきました。

 
 
ここで竿灯から一歩を進めると

ぜんぜんちがった世界が広がるんだよ。

ほんとだって!
 


ほら、こんな世界がさ。。。
003
 
 
 
 
 
 
ありゃ、

何にもないジャン、線路だけ。。。
 
 
トップにある、ガス灯のロマンチックな風景とは

 
おおちがいだな。。。なんか、さびし。。。
 
 
 
 
あ、人がいる。。聞いてみよう。 
すみませ~ん
これは何という路線なんですか?

ああ、こりゃ
心のふるさと 菩薩線、
っていう
めったに人の行かない路線だね。。。
 
たまに、線路を歩いてる人もいるけどねぇ。。
 


え、この先?  この先かい。。
 
ず~~~っと先には、
めっぽう、いいもんがあるっちゅー話だが。。。 

さいわい、っちゅーもんらしいけど。。。」

行くまでが難儀だそうでなぁ。。。

アンタも行くんかい?  
ま、がんばってな。。。。。
行き倒れも多いっちゅー話だから。
 
 
 
 
し~~~~~ん

 
 
 
え? 


龍樹と出会うと


やっぱ、イタイんじゃ。。。。 
 

 
 
(今回、落ちが、ほんとに落ちてるわ。。新境地かも)

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2009/06/28

久馬栄道氏の、石飛非難に答えて(ぼく、龍樹が語る)

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みなさん、おはようございます。
一昨日に引き続き、龍樹です。

きりっとしてるぼくって、
あんまり見ることできないと思います。

いっつも、管理人に好きなように書かれてるぼくだから。。
でも、
ぼくは、いざとなると、このように

きりっ!

と、するのです。

きりっとしてるうちに、お話しすることをしてしまおう。。
いつなんどき、
管理人が戻ってくるかもしれないからな。。。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@


さて、6月26日の日記

「三浦俊彦氏の、石飛批判に答えて(ぼく、龍樹が語る)」

の最後の方で、

「ぼくたちは、現代論理学を拒否した」

と述べました。

そして、この理由を、

「この論理学は、ぼくたちには合わない」

と述べたのですが、もう少し詳しくしましょう。

なぜ、合わないか? ですね。

これは、現代の人に合わせて言うと

ぼくらはプライドをもたないことを
ぼくらの守るべき原則(法)としよう

としているからなんです。

プライドは、ぼくらのことばで 我執 というんです。

ぼくらには、

無我(自己ならざるもの)

という法(ことば)が、あります。

また、

空(くう)

という法もあります。

これによって、ブッダ論理学は作られているのです。

そこで、

ブッダ論理学を知ってもらうために

もう一歩、進めましょう。

「マジカナ道場」での
久馬栄道氏の NO.6064の発言から
====================
> 龍樹が、すべてに当てはまる比喩と、
> 部分的に当てはまる比喩といった意味が、
> よくわかります。
> やっぱ龍樹は、別格ですね。

> 面白いことに、現代論理学では、様相論理学で、
> http://ja.wikipedia.org/wiki/様相論理学
> これは「必然」と「可能」という言葉で、
> 語られる事柄なんですねえ。
====================

久馬氏の意見は、論拠がほとんど示されず
何を言いたいのか、内容がはっきりしません。

ただ、何か「文句は言いたい」という
気持ちだけ伝わってきます。

学問的には取りあげるまでもないでしょうが
「気持ち」 的に、何を言いたいかをくみ上げつつ
ブッダの説くところを、少し説明しておきましょう。
 

というのは


~~~~~~~~~~~~~~
ブッダ論理学では、様相論理学 は、 

まったく

こんりんざい、 扱わないからです。
~~~~~~~~~~~~~~

ここに、仏教の根本があり

そして、また、

ここは、ブッダ論理学が、
非常に注意してきたところだからです。
 
 
 

様相論理学(モーダル・ロジック)というのは、

簡単に言いますと

義務・妥当・可能・必然というような

いわば、人間の「判断」を、

論理的に示そうという試みです。

ヴァリエーションとして、

時制を扱うものもあります。
 
 
 

実際に、様相論理学を勉強した人はわかるでしょうが、

自分で、意味論的に検討しようとすると、

非常に錯綜し混乱することが多く、

「判断」について判断できないことも多いのです。

たとえば、

真理様相・認識様相の区別の「判断」で

論理学的な「判断」が分かれてきたりします。
 
 
 

つまり

様相論理学によって

論理的にどう表されるのか
それによって何がわかるのか

ぼくとしては(石飛も含む)
 
様相論理学を、
「使える論理学」として

了解できません。

哲学的な基盤が危うい論理学

と思います。

学問の目的と方法が、まだあいまいです。

 
 
 
そういう点から見ると

 
ブッダ論理学的には
 
 
今のところ 
 

様相論理学は

ひと言で言えば

戯論(けろん)の産物

なのです。


「戯論」 というのは
思惟や言語が際限なく広がって
錯綜していくことを言います。

別のことばで言えば
「妄想」という意味です。

ブッダの法では、現実を離れて思惟の世界に
おぼれていくことは、妄想であると考えます。


こういうわけで
様相論理学を捨てるのですが

しかし、

それでは、あまりに身も蓋もないとするなら
次のように言えるでしょう。
 
 


様相論理学が、論理学的な基盤をもつ

と解釈できるとすれば

それは、けっきょくのところ、命題論理学の方法である

★1 二値による

からでではないかと思います。

また、

様相論理学が、論理的な基盤が危うい

と解釈するのは

★2 人間の「判断」を論理的に解明するのも
    人間の「判断」による

ということではないかと思います。
 


★1に、救いを見いだすなら、二値を追及する命題論理に

立ち返ることは、意味があります。 

ここに、ぼくたちは、けっきょく認識の根拠を求めていくのです。
 


★2に、錯綜・矛盾の原因を見いだすなら、様相論理を妄想として

捨てることは、意味があります。

ここに、ぼくたちは、けっきょく、論理学者のプライドを見るのです。
人間の「判断」をさらに「判断」しうるのは、論理学者のみだからです。

プライドのないぼくらには、捨てることには意味があるのです。


★1 は、認識の地平です。
認識論を基礎とする世界が広がります。

ぼくたちは、あるがままに見る、というこの観点に

立ち返って、論理学を組み立てていこうとしているのです。

ここが、まず、ブッダの基本的立場となるのです。

常にここに立ち返ることによって

★2の、人間の「判断」を、妄想として捨てようと

努力してきたのが、仏教のあり方なのです。


したがって、

錯綜する様相論理学の思惟や言語世界は

ブッダ論理学とは、関係しないと

思ってもらうと、混乱がありません。

 
●1 ブッダ論理学が、用いるのは、

命題論理学で、基本的に用いられている

真と偽にかかわる、真理表という表なのです。

それと

●2 「ブッダの公式」という真理表の三番目を、

わかりやすく、使える公式にしたものを用いるのです。

これは、「縁起」を表します。

 
この他にも、さまざまな論理の公式が

ないわけではありません。

しかし、どれも、上の●1と●2から

生まれてきます。

これを、論理学的には

「生まれる」と言わず

「演繹する」

というのです。


ブッダの論理学は、演繹論理学です。

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