
「白いカレー日記になってるよ」と
言われてしまいました。
ああ、ちょっと油断すると、白紙状態に戻るのが
こわいブログだわ。
こわいついでに
なんだか、意味ありげな空も、一枚貼ってみます。
北海道は、この季節、お天気が気まぐれすぎるのです。
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さて、また、
橋には、たくさんの街灯が明るく輝いていたのに
写真に撮ると
こんなです。
夜は暗い!ものなのですね。

さすがに携帯のカメラでは
無理がありますね。。。
白いブログにしないため、
という、ただそれだけのために
黒い写真を貼ってしまいました。。。
なんだか、
人生は、
モノクロームですね。。
コメント
苺矢毒蛙さま こんばん。。じゃなかった、おはようございます、かな。。
北海道。。たしかに、ちょっと言えてるかも。
>うるさい先生たちは海の向こうだし、
>坊さんも少なそうだし。
お寺は、そんなに少なくないと思いますけど、どうかしら。。少ないのかな。
ま、ちょっとした、島流し気分ですねっ(笑)!
投稿: 管理人エム | 2009/10/27 04:09
マニカナ先生こんばんわ
北海道というのもいいですよね。
ガールズビーアンビシャス!
うるさい先生たちは海の向こうだし、
坊さんも少なそうだし。
投稿: 莓矢毒蛙 | 2009/10/26 23:40
苺矢毒蛙さま
励まし(?)のおことば、うれしいです、ぐす。。ずるっ。。
>日本は東と西が出会うところだから
ここを読んで思い出しました。
日本に生まれたのは、仏教を研究する上で、とてもラッキーだったということです。
日本人は、最近力が落ちてるとは言え、漢訳が読める。欧米人は、どうしても苦手です。
仏教文化の土壌があるので、感覚的にも理解が容易です。
また、明治以降の欧米思想の教育の成果で、サンスクリット語などのインド・ヨーロッパ語も、なんとかイケル。で、俗語であるパーリ語も読める。
また、日本語と若干文法的にも親近感のあるチベット語も勉強できる。モンゴロイドの仲間意識かな。。。
経済も豊かな日本は、仏教の資料を手にするチャンスも多く、勉強の機会にも恵まれている。。
ヨーロッパに生まれてたら、チベットに生まれてたら、インドに生まれてたら、中国に生まれてたら、スリランカに生まれてたら、『方便心論』を解明することは不可能であった。。。がーん!
投稿: 管理人エム | 2009/10/25 20:30
日本は東と西が出会うところだから、古因明や新因明や命題論理学から数理論理学がごった煮状態になるのは自然の成り行きで、『ブッダ(にインスピレーションを得たマニカナ先生)の論理学』というのも、自然な流れなのではないかと。
ブッダの声明を触媒として、新しい論理宇宙が形成されるかもしれないし、巨大なブラックホールに飲み込まれるかも知れないし。
学問のルビコン河を渡ってしまったわけだし、古代ローマ世界の征服目指して突き進むしかないのではないかと。
と、こころのなかで応援してます。
投稿: 莓矢毒蛙 | 2009/10/25 20:03
シャーンティクマーラさま
お!ちょっとお名前が変わると、印象もどことなくクマーリーさま風でしょうか。。
それだけ、印象が強いんだよね、きっと。
さてさて、『サマーウォーズ』ですね。チェックしなくちゃ。。。
ダフニスとクロエ、ドビュッシーの音楽、三島の『潮騒』。。。なんとなく連想していくとイメージがわいてきそうです。
いつか、見てみたいです。。ほんと、いつになるかわからないけど。。。
ブッダの説は、十二支縁起も含めて、すべて仮設として見ることができますね。
そういうところが、すごいところですよね。
何しろ、無明から話しははじまっていますから、よく考えると仮設以外の何ものでもない、とも言えますが、しかし、この十二支縁起、もっともあるがままに見えるところが、またまたすごいです。真実にしか見えませんです、はい!
>やはり、私は、エムさまとは、少なくとも「個人的には」、ちょっと「別の道」だったのかも、とも思われてきます。
わたしも、もともとはシャーンティクマーラさまと同じ道にいたんですよ。だから、わかります。じつは、ずいぶんよくわかります。
もう、むりやり、というか、泣く泣く、というか、問答無用に、龍樹道に行かされているというところはありますね。。。
やっぱ、優れている道ではありますけど、仏教の道は、ほんと、キツイです。
ふつうの仏教徒の人は、みなさま、どうしても、チャラカ・ニヤーヤ派の道の方によっていきます。
わたしは、自分じゃ、こういう道で、もう仕方ないと思ってます。龍樹の奴隷になってる感じやねん。
投稿: 管理人エム | 2009/10/24 18:04
カラスノエンドウ さま
ありがたし。
>つまり、「賽を投げろ!(投げられた賽とせよ!)」という意味になります。ルビコン川をカエサルはまだ、渡っていないわけですので、部下を激励する命令法の方がすっきりするような気がします。
なるほど。wikiにあるように"The dice have been cast"じゃなくて、"Let the dice be cast!", or "Let the game be ventured!"ってのもありですね。
Iacta alea esto. が肉声だったかも。
すぐに傾いちゃう(笑
投稿: 莓矢毒蛙 | 2009/10/24 14:53
莓矢毒蛙 さま
「賽は投げられた」の出典はスエトニウスの『ローマ皇帝伝』の「カエサル伝」第32章で、語順は「iacta alea est」です。実は、この箇所には有力な別の読みがありまして、estの後ろにoが抜けているじゃないかというのです。estoなら、完了形でなくて、命令法になります。つまり、「賽を投げろ!(投げられた賽とせよ!)」という意味になります。ルビコン川をカエサルはまだ、渡っていないわけですので、部下を激励する命令法の方がすっきりするような気がします。しかし、もうルビコン川の手前まで来ていますので、取り返しは付かない。そこで、「賽は投げられた(投げられた賽である)」とカエサルが言ったとも取れます。
投稿: カラスノエンドウ | 2009/10/24 13:40
わずかに、おひさしぶりです(笑)。クマーラは「坊ちゃん」……「坊」、ですね(笑々)。エ・ム・センセ……おわかり、デスネ〜〜〜〜〜〜〜〜〜♪♪♪
カラスノエンドウさまはラテン語の詩を読まれるとのこと、「マニカナ」には、こんな方も見えるのですね! びっくりしました。でも、若いとき、そうした方面にもちょっと関心があった者としては、なんとなく、嬉しいです。
トツゼン、ハナシがコケますが、たまたま、夏に公開された『サマーウォーズ』というアニメの映画を見ました(細田守監督)。ネットやグローバリゼーションへの問題意識、あるいは、それとうらはらな日本的大家族への想いもあるのでしょうが、個人的には、信州上田を舞台にした「幼い恋の物語」に、なんかムネが熱くなりました!!!
美しい田園を背景にした、どっかで見たことのあるようで、ないような、高校生の健二と夏希のストーリーは、あまりにも主観的な連想ですが、ローマ後期にギリシャ語で書かれた『ダフニスとクロエー』をも想い起こさせるものでした……ドビッシーの音楽、三島の『潮騒』のモデル、でもありますね。
これが書かれたのは、ローマが衰退を始める2世紀末から3世紀といわれています。黄昏の時代に「虚空」に描き出された、なつかしい田園と、無垢の恋の「幻」という点では、どこか、通じるところがあるのかもしれません。
で、「幻」といえば……前回のブログで、無宗だ!さまがおっしゃっていた、
>> 十二支縁起は、不滅です!
>異議あり!十二支縁起は砂上の楼閣ならぬ、無明の上の因果関係です。
>順観においては堅牢にみえようとも、
>逆観においてはガンダルヴァの城の如し。
は見事、と存じます!!! ある意味、大乗の立場、かもしれません。
十二支縁起も、衆生が解脱するための自性空なる方便門……では、なぜ、こうした方便門が仮設されたのかを問うのならば、自ずから、如来大悲のこころに想い至ることになるでしょう。
で、これは、あまり知られていないことですが、「衆生がことごとく解脱して、世間がカラッポになってしまう時は、あるのか?」という問いに対して、インド後期大乗では、「いや、輪する衆生は尽きることがない」という考え方があります。
ということは、ガンダルヴァ城の如きものでありながらも、十二支縁起は、輪廻する衆生がいる限り、説かれつづけられねばならない……ということになりますね。
『華厳経』に起源を持つ、空海やダライラマ14世の「衆生尽き、虚空尽き、涅槃尽きるまで……」の誓願、また、『現観荘厳論』(インドでもっとも流布した『般若経』の註釈)にいう「輪廻の尽きるまで、法身のはたらきは不断である」ということも、この十二支縁起の役割と重なるもののように思います。
闇の中に輝く「無垢の恋」と「法のはたらき」について、想いをめぐらしてみました。(一見、まったく別のベクトルですけれど、いずれも「幻」「ガンダルヴァ城」「水月」etc.の如し……という点では、同じことかもしれません。)
それにしても、しばらく、こころ静かに考えてみますと、やはり、私は、エムさまとは、少なくとも「個人的には」、ちょっと「別の道」だったのかも、とも思われてきます(まあ、これはオモテの立場とは別の話、ですが……)。また、素直にう認めることによって、少なくとも私自身は、かえって、こころが安らぐような気も致します。そう、ちょうど、龍樹と、チャラカのように……です(笑)。
投稿: シャーンティクマーラ | 2009/10/24 00:54
横レス
>ラテン語のものも、語順は、韻にあわせて相当流動的になりそうですよね。
Alea(賽は)iacta(投げられ)est(た)
Iacta(投げられ)alea(賽は)est(た)
カエサルの肉声はどちらだったのでしょうか?前者かな?
ラテン語とパーリ語はなんとかくシンプルでいいですね。
投稿: 莓矢毒蛙 | 2009/10/24 00:35
みともりさま
>正負だったり、
>+-だったり、、、、、
有と無、ってのも、ありますね。
色は、本来、モノクロですか。。。
世間の人は、多く、灰色の人生をおくる所以でしょうか。。。
思いの外、深い色あいになったかしら?
投稿: 管理人エム | 2009/10/22 10:55
カラスノエンドウさま
こんにちは。
ご丁寧にありがとうございます。真っ白ブログは、焦りますよね。。。自分のブログを見て、自分で「おお!」と驚いてりゃ、世話ないです。。汗
さて、韻文は、たしかに語順は乱れますね。
その韻文でも、語順が乱れてない人は、龍樹なのです。『中論』は、その辺がとても印象的です。
また、パーリ仏典の韻文も、まずまず素直な語順で、ブッダの説くものは、それほど困難を感じません。ぜんぶ訳してないので、ぜったいとは言えませんが、まあ、今のところだいじょうぶのような気がします。
こうしてみると、語順を重視して、ほんとうに意味がでてくるのは、ブッダと龍樹のことばに限定されるかもしれません。
論書などでも、他の人々は、あまり語順に気を使っていないことがわかります。
あと、対話の中で出てくることばの順序は、大きいと思います。その人の気持ちのとおりに出てくるので、対話形式の書き込みなどには、語順の影響はあんがいはっきり出るかもしれませんね。
アートマン論者チャラカの書『チャラカ・サンヒター』の中にある韻文は、ほんとに、めっちゃくっちゃな語順で、すごいです。わたしでも、「何じゃ、こりゃ」と言いたくなるくらい、あっち、こっちことばが飛び回ってます。
これを読んで、龍樹もあきれ果てたのかなぁ、って、思ったりしています。
ラテン語のものも、語順は、韻にあわせて相当流動的になりそうですよね。
格変化がしっかりしているので、語はどこに置いてもいいですものね。
語順を考慮してうまくいくのと、いかないのとが、やっぱりありそうですね。。どうでしょう。何かわかりましたら、教えてくださいね。
投稿: 管理人エム | 2009/10/22 10:45
レスにご返事をしようと思ったら、ブログが真っ白であせりました
ご返事ありがとうございます。
実は増谷先生の『原始仏典』が一揃い近所の古本屋さんにありまして、お値段は大丈夫なのですが、置く場所が・・・
最近、先生の影響で語順通りに読むようにしてみているのですが、散文はともかく、韻文は結構大変です。レトリックが巧妙だったり、韻律があったり。
私が読んでいるのはラテン語の詩なのですが、パーリ仏典などにも韻文は結構出てくると思います。
語順どおりに読むと、韻文の場合に散文にはない困難などはありませんでしょうか?
投稿: カラスノエンドウ | 2009/10/22 00:37
>なんだか、人生は、モノクロームですね
正負だったり、
+-だったり、、、、、
高低、大小、遠近
みんなモノクロームです
色は、本来、モノクロです
(可視の範囲は、色界にあたります)
投稿: みともり | 2009/10/21 13:50