普遍世界と仏教世界
「自己」をもつ人たちのいる世界
と
「自己」をもたない人たちのいる世界
「自己」をもつ人たちは、自己をたよりに
ユニヴァースを形成する。
ユニヴァースは、一つの価値観からなる世界であって
「普遍」世界である。
それは、「宇宙」とも呼ばれる。
西洋的な思惟の中にも、みられるが
東洋的な思惟の中にもみられる。
たとえば、宇宙の根元にブラフマン(ことばの力、マナ)を
おく思想が、そうである。
ブラフマン(梵)は、自己(アートマン、我)に等しい
という思想が
梵我一如
である。
この世界に住む人は、
一切のものが、自己(アートマン)からなる
と
知って
大気に向かって、ことばを投げるのである。
大気にあるのはブラフマン(ことばの力)だからである。
宇宙全体を包むブラフマンは、
空中に放たれたことばの力によって
他者のアートマン(自我)と一緒になる。。。
このとき
あらゆる人に共通の「普遍」が成り立つのである。
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★このようにことばを使う人★は、
ブラフマンのいる普遍世界の中「だけ」で
ことばを空中に放たなくてはいけない。
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一方
「自己」をもたない人たちは、どうだろうか。
自己をもたないために、どこにもよりどころがない。
せいぜい、他者が何か働きかけたときだけ
それに対応して、一見、「自己」に見えるものが
生じてくる。
これにすがって会話するのが、仏教世界である。
誰かが何かを行ってくれるとき、
誰かが何かを心に思ってくれるとき
誰かが何かの行為をするとき
そのときだけ
自己は生じて、相手に話しかける。
対話は、かならず、「問答」である。
相手が話すなら、こちらも話す。
相手がやめるなら、こちらもやめる。
こうして、縁起する世界は、転変していくのである。
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★このようにことばを使う人たち★は、
(他に)縁って起こるとき「だけ」
ことばを交わすのである。
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予習だ!予習だ!予習だ!
ああ、間に合わんかも。。。
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コメント
さちさま
こんばんは!
意表をつくコメントありがとうございます。
でっかいどー、ほっかいどー。。でっす。
ほんとは、この道路の正面つきあたりに、道庁の赤レンガの建物が見えるんですけど、写真に撮ったら小さすぎて、なんだかわからなくなっちゃったっす。
投稿: 管理人エム | 2009/10/02 19:32
エム先生、こんばんは。
北海道の道路は、広いんですねっ!
投稿: さち | 2009/10/02 18:51
無宗だ さま
人は、引っかかっているところに、
引っかかっているのです
貴方のパンツの中のことです
投稿: みともり | 2009/09/30 10:46
PS:
> ひっかけはまずい。
しかし、しっかり掃除をすれば、ウンがつくとか。
投稿: 無宗だ | 2009/09/30 10:09
方便、不便の他に、「便」といったら、快便を忘れてはいけません。
快眠快便の快便です。
くだらないのも問題
だが
つまらないのも問題。
過ぎたるは尚及ばざるがごとし。
快便は、その両極端を避けます。
ひっかけはまずい。
(ちょっと、前振りが足りませんでした。すみません。)
投稿: 無宗だ | 2009/09/30 10:04
無宗ださま
>自分のすべてをコントロールする自己などは存在しないが、方便としての自己がなければ不便で仕方がない。
こうして、諸仏は、「自己はある」とも説き、「自己はない」とも、説きました。
投稿: 管理人エム | 2009/09/30 10:03
<追伸>
漢字の成り立ちは、
「感」に拠ります
私の説明が、ひっかけだとオオモイなら
諸橋でも、「設文」でも、ひも解いてください
(信頼のおける漢和辞典ならなんでも結構です)
そして、
漢字を生んだ、
中国に“いた”人たちの、
感受性(叡智)に触れてみてください
貴方の泳ぐ(溺れる)世界が、
見えるかもしれません
投稿: みともり | 2009/09/30 09:47
無宗だ 様
貴方にとって、つまらないことが、
つまらない ように、
私にとって、大事なことが、
大事と されます
人は、常に、自らの尺度で、
ヒトを計ります
( 計りが置かれるところはどこでしょうか ? )
(その尺度で、自らが計られます)
(計るだけの根拠を持つと信じて疑わないからです)
投稿: みともり | 2009/09/30 09:38
>「便」
>(ヒトが二つに足を開いてしっかりと立つことに差しさわりがない )
ひっかけはまずい。
くだらないのも問題
だが
つまらないのも問題。
投稿: 無宗だ | 2009/09/30 08:56
方と不は元来、同じような音で読まれ
同じところの意味を含みます(便もそうです)
フタツ というところです
両横に張り出すのが「方」で、
二つに分けるのが「不」です
方便が分かれば、フベンが分かります
(フベンと證るところに、「便」があります)
「便」
(ヒトが二つに足を開いてしっかりと立つことに差しさわりがない )
押し開く、押し広げるという“感じ”をもちます
「佛」の語も、ここら辺りに由来します
投稿: みともり | 2009/09/30 07:26
国家の意思、国家の責任などを考えてみる。
国家など存在するのか?
しかし、国家の存在を否定することはできない。
自分のすべてをコントロールする自己などは存在しないが、方便としての自己がなければ不便で仕方がない。
投稿: 無宗だ | 2009/09/30 06:46
zapoさま
ほんとにお久しぶり。
>だから本来は、二つの世界は交じり合うことがないのではないかとも、神秘主義ですかね‥。
そうですね。。交じり合わないですね。
でも、仏教世界の世俗諦は、普遍世界を模造できるので、二つの世界の住人は、一見!対話できますね。
けっして、交じり合わない関係で、ガラス越しに対話する感じ。。
空の世界が神秘主義かどうか。。。え?ひょっとして、「神秘主義」も概念・言語だけぇ~~。。。こういうこともおかしいかも。。。
神秘主義ですらない。。。最近、空がよくわかるようになってきました。
のマークをつけて、修行中なりっ!
「空の使い手」になるよう、
投稿: 管理人エム | 2009/09/30 00:56
みともりさま
二つの世界に属する人は、仏世界に住する人ですね。。。
でも、ちょっと、普遍は、知ってて使わない人かな。
普遍世界だけにいる人は、仏世界を知らない人です。。。
そういう人も多くいます。現代人はほとんどそうかな。
投稿: 管理人エム | 2009/09/30 00:39
エム先生
こっちはすごくお久しぶりです。
普遍世界は、概念によって形成されます。
任意の概念ですら、任意であるという、抽象概念が必要です。
つまり、それは言葉の自性によって成り立っている。
また、仏教で説かれる認識的な世界観ですら、認識や現象ですら、抽象概念がないと言い表すことすらできません。
したがって、空を説こうとしても肯定的な言葉や積極的な言葉でそれを示すことができないのでしょう。
なぜなら、概念自体を根底では否定しているからです。
だから本来は、二つの世界は交じり合うことがないのではないかとも、神秘主義ですかね‥。
投稿: zapo | 2009/09/29 23:40
二つの世界に属する人がいます
どちらにも属しない人のことです
仏世界に住するということです
( 紐は交わってはいないようです )
投稿: みともり | 2009/09/29 11:08