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2009/09/14

救う

002
 
  

 
 
 
 
プルーンです。
食べられる運命です。
ジャムになりました。003
 
 
 
 
 
 
 
人の命を支えるプルーン。。
食べ物を食べて人は生きる。
 
だから
プルーンは、人を救っている。
 
でも、
プルーンは、それを知らない。
 
 
 
これですね。。。フムフム。。 
 
 
「救う」について、考えてみましょう。 
 
 
 
菩薩は、生き物を救う、
 

 
っていいますか
 
 
 
生き物を救おうと、願いを起こし
 
悟りに至ることなく 
 
はたらく人を、菩薩という。
 
 
 
「救う」という行為は
 
心に思うだけでも、行為である。
実際に行動しても、行為である。 
 
 
で、行為には、三つありましたっけね。
心の行為、ことばの行為、身体の行為。
 
 
 
「願」はとても強い心の行為です。
 
その願いをもって
 
他の人のため(利他)に何かを行うとき 
 
非常に強い影響を与えるだろう。
 
 
 
そこで、 
利他行は、尊い行為でしょうか? 

 
尊いかもしれない。。。でも。。。 
ときに、余計なお世話にならないでしょうか?
 
 
こういう心配が出てくるだろう。 
 
 
「救う」が、大手を振って、
人々のあいだを
闊歩しはじめると
 
人々は、「救う」ということを
敬遠しはじめる。 
 
 
救うものには、自己満足の行為で
救われるもの(?)には、大迷惑

な~んてことに、なってしまいそう。。。


まずいすよね。。。
菩薩の行為は、まったく救いがたい行為になっちゃうよ
 
 
 
だから、
 
「救う」ということばは、
気をつけて使わなくてはいけない。
 
 
心の中で思う行為は、それはそれ。。。勝手にやりなはれ
                       (菩薩の自己責任だね)
 
実際に行う行為も、それはそれ。。。ま、勝手にやりなはれ
                     (これも菩薩の自己責任) 

 
 
しかし、ことばによる行為
 
「わたしが、おまえを救ったのだ」
 
とは、
 
救ったと思われる相手に向かって 
 
口が裂けても、言ってはいけない。  

 
 
あ、っと言う間に

せっかくの菩薩の利他行は
 
「救いがたい」行為に、転落しちゃう。。 
 
 
「わたしが。。」と言った時点で
すでに終わっている、と知らねばならない。。。 
 
自我の行為は、煩悩の行為だからねぇ。。
 
 
だから、
 
仏教では、
 
救うものも、空である
救われるものも、空である 
 
などと言って、「救う」を行う人は
「救う」ことにこだわらないで、
「救う」行為に、邁進する。
 
 
凡夫風に言うなら、
 
「救う」というのは
 
そうする人にとっては
 
自己完結している行為なのである。
 
 
救おうと、心に強く願い(原因)
 
それを実行する(結果)
 
という 心の行為と他の行為とのあいだでの
 
因果関係で完了する。 
 
 
それで、すべてはきれいに完結する。
 
 
プラットホームから落ちた人を
 
救おうとした青年は
 
 
落ちた人を見た瞬間に
 
 
強く願った。。。。「助けよう」。。。。 (原因)
 

次の瞬間に 

 
かれは、
線路に飛び降りた。。。「助けるぞ」。。。。(結果)
 
 
かれは、ここで結果を受けとった。 
  
 
これから、どうなったか、って?
 

 
後のことは。。。後のことさ。。
 
 
 
だから、

もし、
落ちた人が助かって
助けた人が助からなくても
心配することはない。。 

 
助けたかれは結果を受けとっているから。 
 

 
落ちた人は、助けてくれた人を思って
罪の意識におびえたりする必要はない。  

 
助けたかれは自分の結果をちゃんと受けとっているのだから。
 
 
 
自らの「救う」という行為を、
きちんと自らのうちにおさめて

かれは、
「救う」行為を吹聴せず、また
言い訳をしたりすることもない。

 
 
失敗しても、成功しても、
それは、かれにとって、問題ではない。
 
 
だから、
 
かれの思いを受けとめた人々だけが  

落ちた人と助けた人がどうなったか、
という結果にかかわらず
 

かれの行為を

 
「救う」と


呼ぶのである。
 
 
 
 
 
これが、プルーン菩薩の

空のお仕事ね!
 
 

※ ちょっと、改訂してみました。。。
あんまり変わらないかな。。。
(9.14 午後6時10分くらい) 

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コメント

エム先生

いやはや、どうもどうもです。。。。(トホホ)

いつもは温和なエム先生にいきなり「どしたん?えらく、変よ!」なんていわれてびっくりしましたyoー。でもでも文節の区切りでぜんぜん解釈が異なるってのが非常に興味深かったです。おのおのがそれぞれ「納得した思考の因果関係が表れる」ことについて再度しっかり納得!

で、シャン坊さまのご指摘によって、私はエム先生の敏感なところに鈍感だったのがよぉ~くわかりました。(〆ありがとうございました)私はエム先生が進めたい議論の道筋をいきなり&思いっきり&脳天気に(←これが最大の原因?)外しちゃってますものねー。えーん、すみません、すみません。そこへの気づきが抜け落ちてました、エム先生すみません。。。

しかし、、、きらり~ん☆涙目の隙間から好奇心がムクムク。

エム先生が私に「どしたん?えらく、変よ!」とおっしゃるということは、エム先生は「変でないところからの目線」で私を見たのかしら、と「なんか変!という廊下に立たされた私」側から見える景色をみちゃったりしたわけでして。(すんません、私って不良なヤサグレ者で。。。また涙)

つー、ことはです!「誤解されないように緊張して」というところに「誤解をはらんでいることが「折り込み済み」だったんじゃないかと、おちゃらけ探偵はクンクンと「そこらへん」に「アタリ」がついたというかプチ当っちゃったのかな?というか。。。そこにエム先生の「こだわり」をみちゃったわけなのです。軒下を借りてるだけのヨリミチ者としては管理人エム先生のご意向に思いっきり従うのでありまっす。はいっ、エム先生は龍樹菩薩さま&ブッタ論理学の研究家でありまっす。きりっつ、礼。

(DNAのひもがポロリ~ンとほどけるように話のタネが展開してきたので、以後は道場(の廊下)に移動しますね。)

投稿: おちゃらけ | 2009/09/16 15:58

 「 行為 」

一つの行為が、あなたに投げかけられた(起きた)とき
あなたは、それに対して、反応を起こす

反応は、起きる事柄を解釈することにより、
その姿を決める
反応の仕方、その“意味”である

賛嘆されたと思えば快を伴う反応が起きる
快は手元に置きたくなる

侮辱・批判があれば、深い不快が起き、苦痛を伴う
不快は、無視するか、仕返しをたくらむ構造に移行する

いずれの選択も、行いを為すという行為に移り、
それらの反応は、本来自由から起きる“こころ”を、
反応という、抵抗の壁(溝)とする
(溝には、かならず壁を伴う)

反応は、言葉となるときに、
気高い姿を 装う(外にまとう)

いくら気高い言葉を書き連ねても、
「壁」に、「空海」とか、「親鸞」とか、「ブッダ」とか、「イエス」とかの、
“ 色 ” えお、塗りつけるだけでしかない
「壁」に対する、この「彩色」の行為それ自体が、
壁を、ますます強固なものにする

平等へと導く反応は、それ自体が、快と不快を見つめるところに起きる


“ 見つめる目はいつも顛倒している ”

投稿:   みともり   | 2009/09/15 10:17

おちゃらけさま
 
どうも、課題提出ありがとうございます。

シャン坊さま

フォローしていただいて、サンキュッ!です。

おちゃらけさまの思考の経過は、了解しました。
いや、たくさん引用してくださってどうもです。
な~るほど。。
たしかに、そう読んでしまうと、そう読んでしまうかも。。。というところはありますねぇ。。

抽象的に書かれているので、解釈がいくつかあるかもしれません。結局、どれで解釈してもいいのかな。

わたしは、いつも具体的に考えるので、sarahさまのおっしゃる状況がよく飲みこめなかったのです。
それで、書いてあるとおりに、とにかく解釈したのです。

> 果たして、人を救おうと当人は発心しているのでしょうか?

一番、反応したのは、ここです。
人を救おうと、救う当人は、発心しているのだろうか。。。うーん。。その疑問は、なんか変だぞ。。

たとえば、支援物資を送るのでも、ほんとに「救おう」と思う心が入っているのと、たんなるつきあいや売名行為でそうしているのとでは、やっぱりちがうでしょう。

「救う」というのは、まず、発心しないとはじまらないのでは、って、これが、わたしのテーマになってしまいました。

でも、とにかく、「救う」「救われる」はむずかしいですね。ちょっとまちがうと、すごくエゴの行為になってしまうし、ほんとにキレイに「救う」ができるのは、よっぽど注意しないとね。三輪清浄が必要ですね、ほんと。

わたしも、誤解されないようにしようと思って、けっこう緊張してたもんだから、おちゃらけさまに過剰反応しちゃったかもしれません。
うまく書けたか、心配だったせいもあります。
おちゃらけさま、どうもすみません。

>つまり過去において救われた者のみ救う者になりえる、みたいな「個人的」な思い入れがあったので

ああ、な~るほど。。。おちゃらけさま、ここは了解!
この文脈、いいですね。救われるものの側からみると、これ成り立ちますよ!!

地震の被害にあって救われた地域の人は、他の地方で地震があると、真っ先に駆けつけます。。

んで、もって、シャン坊さまの

>この2つの〈菩薩の心〉(菩提心)が交叉してこそ、真の菩薩たりうるのでしょう。

これで、締めですね。お見事なり!
シャン坊さま、マニカナ断ちは、お身体にわるいですわ(笑)。
マニカナ断ち断ちにしては?

投稿: 管理人エム | 2009/09/15 01:54

秋の夜長に、何劫までも?〈笑〉

おちゃらけさまのおっしゃる、
>確かに。個人から発するか、普遍から発するかという違いですね。この方向の違いはあんまり気にしてなかったです。
は、日本仏教の伝統教学でいえば、さしずめ「向上門」(凡夫から仏へ)と「向下門」(仏から凡夫へ)に当たるでしょう。仏といっても、法身・法界であることもありえますから、「凡夫と仏」の関係を、「個と普遍」の関係に置き換えてみることも可能と思います。
このあたり、日本密教では〈菩薩の心=菩提心〉の「修生(修行して発こす)」と「本有(もともと備わっている)」の問題として、いろいろと議論されてきたところです。
いつもながら、おちゃらけさまの「冴え」には感嘆いたします。

>(更新してみたら、エム先生がoさまへのレスに「つまり、菩薩は、行を滅ぼさないんですよね。「行」を滅しちゃうと、その前にある原因である無明が滅することになって、解脱しちゃうんですよ。」と書いてあるので、ここがポイントかな、と思いました)
については、日本密教ついでに、これはエムさま向けに、教証を1つ。
「行者未だこの劫を過ぎずして、辟支仏の位と斉しきときを、名づけて極無言説処とす。そのときに、心は無為の法相に滞まる。もし方便を失えば、多く二乗地に堕し、小涅槃を証す。しかれども、(大乗、特に密教の菩薩は)菩提心の勢力をもって、かえってよく悲願を発起す。これより以後、三乗の径路始めて分かる」(『大日経疏』「入真言門住心品第一之餘」)
やっぱり、菩薩は「戯論寂滅」だけじゃ、ダメなんですね(+「方便」じゃなくちゃ……)。
ちなみに、『大日経疏』の「住心品」を注釈した部分は、『大智度論』をベースにするところが多く、エムさまにも、興味深い内容かと存じます(「長爪梵志」も「対治悉檀」も出てきます)。
もちろん、これが空海の思想の根底です。

投稿: シャン坊 | 2009/09/15 01:46

エム先生、こんばんは

あー、パソコン閉じようと思ったら、きゃー!?
でも明日は接続できないのだわ。がんばって課題提出、ゴー!

引用符が色分けできないし、長文には向いていないのでここに投稿していいのかどうか迷いましたが話の流れとしてここに投稿しますね。

さて、sarahさまの文を読み直してみました。
道場:No.6207
> 果たして、人を救おうと当人は発心しているのでしょうか?
> 行為の前に人を救おう・・という意識の存在が、当人にあるのでしょうか?
> 人を救おう・・という意志や意識は、もともとないのではないのでしょうか?

ここを「ダレがダレを」という疑問(問いかけ)と取ったワケです。

> 人を救おう・・という意志や意識は、もともとないのではないのでしょうか?
> 後から、つまり結果がある程度生じ、複数他者の関係者の間で、
(略)
> やっと、救う、救われる・・・という両者の関係の出来事が見えてくるのではないでしょうか?
> 最初から、人を救う・・・という意識は、ないのではないでしょうか?そのように考えないと、全く関係をもたない他者への普遍化の現象に繋がらないと思うのです。
> 救う為に何かの行為に至るというのはすでに何かの目的に帰属してしまわれているように思うのです。

で、ここで関係性と普遍性を述べており、「普遍性に繋がらないと思う」という文は「関係性の中では普遍化の現象に繋がるのでは」というsarahさまの思いではないかと取り、エゴと普遍性は繋がらないしー、という思い込みでどどっとまとめて「エゴをもっては救えない」としちゃいました。。。(涙目)

> その目的はその人個人の価値判断によるものに、思えるんです。
> 述べたい事は、救おうと思ってしまった地点、、
> その地点において、すでに何かしらの真の意味での普遍性とは別に、個人の価値感が優先されてしまっているように思えるんですね。

「『救う』という意識をもっていては、『救う』という普遍的な行為には至らないのではないか」という意味はエム先生のおっしゃる通りだと思います。

私はダダダーッと走って「救おうと思ってしまった地点」において「すでに何かしらの真の意味での普遍性とは別に、個人の価値感が優先されてしまっているように思える」という結論に「救おうと思ってしまった地点」ですでに個人的自意識があるのでは?」と(断定よりも)「読者への問いかけ」だと思ったわけなのです。つまり私はsarahさまにとっては普遍性が基調テーマにでそちらに重点が置かれているようにみえるからです。「救うという行為」は個人のものか普遍的なものなのか」という文頭の「疑問」も含んで私の頭の中で「結局、ダレがダレを救うの?」というようにまとめてしまったのです。

=============
次に先生のレスに対してです。

> これに対して、わたしは、
> 純粋に「救う」という行為は、かならずどこかで「救うぞ」という強い意志(願)がある!と述べています。その意志によって、
救う行為が可能になります。
> ただ、そのとき、純粋に「救う」行為になりうるのは、「わたしがこの人を救う」という意識は持たない場合だと述べているのです。

私の受け止めは前項が弱いですね。「思いっきり受け身」という私の表現も先生の上の両者をまとめすぎちゃいました。。。「思いっきり」の方に強い意志が入ってるという意味を込めていて他力本願っぽいんですが、その言葉だとしっくりこないのです。

> sarahさまの場合は、
> 「救う」という意識はないと述べているのであって、
> 「ダレがダレを救う」という点は、むしろ、はっきりしているように思われます。
> どの時点でダレに接触したとか説明をつけられているからです。あえていえば、sarahさまが誰かを救う、ということであってもいいかもしれません。

これは
> あの時、あのような事が生じ、あの時期OOさんと接触があったのか???という疑問が生じる地点において、
> やっと、救う、救われる・・・という両者の関係の出来事が見えてくる

のことだと思いますが、私は「救う、救われる、という両者の関係性が見えてくる」のを「見ているsarahさま」を取ったので「(sarahさまが)誰かを救うという点がはっきりしている」とは取らなかったのです。「(個人には)人を救おうという意志や意識は、もともとないのではないでしょうか?」を個人ではなく普遍にあるとsarahさまは見ているのでは、と取ったわけです。うーむ。おもしろいですね(コラコラ)。途中まで先生のおっしゃる意味と同じなのに結論の受け止め方が違ってます。これはどこの文節(息継ぎ)で区切って理解したかの違いなんだと思います。


> わたしの場合は、
> 「救う」という意識は、これは明確に持たねばならないと述べているのです。
> でなければ、「救う」ということが、どこにも出てきません。誰の心にも浮かばないなら、そこに「救う」ということはないのです。
> しかし、「ダレがダレを(救う)」と考えてはならない、と述べています。

> この点が、sarahさまとわたしの完全に逆転している点ですね。

確かに。個人から発するか、普遍から発するかという違いですね。この方向の違いはあんまり気にしてなかったです。
多分、私がこの点を気にしていないところにエム先生が私に対して「えらく、変よ!」というところかもしれないなぁーと思いました。(更新してみたら、エム先生がoさまへのレスに「つまり、菩薩は、行を滅ぼさないんですよね。「行」を滅しちゃうと、その前にある原因である無明が滅することになって、解脱しちゃうんですよ。」と書いてあるので、ここがポイントかな、と思いました)

> 主題は、「救う」ということで、「救われる」ということではありません。

うまく説明できないんですが「救われる」の意味に「祝福された者」という印象が入ってるがゆえに「救う者」になりえる、みたいな。。。つまり過去において救われた者のみ救う者になりえる、みたいな「個人的」な思い入れがあったので。。。この文脈ではハズしちゃいましたね。ここはsarahさまの言う「普遍」が頭にあってそれに影響されたのかもしれません。

お二方のご意見をまとめようとしたら的ハズレになってしまいましたーー。原因は色々まとめ過ぎ、つめこみ過ぎ、走り過ぎでしたね。きっともう少しまとまったら(何度まとめるの?!)すっきりした言葉が出てくると思います。しかしながら、先生がここに決定的な違いを見たならば、アンド「菩薩」についての理解がぜんぜん足りてないみたいなので、私は先生のポイントを理解できるまでもっともっと勉強しないといけないのかも。。。ひゃー!大変!(>_<)
(あーん、これ以後しばらくネット接続できないから気になりますぅ~)

=============
あららら、投稿しようと更新ボタンを押したら、プチお久しぶりです、シャン坊さまっ!
もう遅くなってきたので、とりあえずのご挨拶にてっ♪グラッツェ・ミッレ!

投稿: おちゃらけ | 2009/09/15 00:38

贅言の屋上屋……〈笑〉
先のコメントを書き終わったら、またたく間に、いろいろな投稿があって、さすが、「如意宝珠」は、衆生を魅了するようです……。

どうも、ヴィーナの奏者は歌姫に「いささか難あり」とおっしゃっているようですが〈笑〉、面白い問題ではありますね。
確かに、奏者のいわれる「救おう」とする不屈の意志は不可欠です。つまり誓願と行への決意、ですね。これは、インド後期大乗では「世俗菩提心」といわれるものにあたると思います。
でも、歌姫のおっしゃるプルーンの「無作任運(むさにんぬん)」がなければ、真の仏道たりえないことも確かです(これは、もちろん、奏者も十分に踏まえられていますが)。すなわち、三輪清浄の空性の智慧、ですね。同じく「勝義菩提心」に当たると思います。
この2つの〈菩薩の心〉(菩提心)が交叉してこそ、真の菩薩たりうるのでしょう。
(この問題については、以前、奏者が「カレー日記」で紹介されていた生井智紹先生『密教・自心の探求』も、参考になるかと存じます。)

重ね重ねの、贅言まで……。

投稿: シャン坊 | 2009/09/14 23:15

oさま

こんばんは。

>分かりやすい三輪清浄の解説ですね。

あ、そうですか。。よかった!ホッ。。

いや~、わかりにくかったかなぁ、って、ちょっと悩んでたとこでした。

ここでの発見は、「願」「行」で因果関係がなり立つと見たところです。

結局、ここは、願でも行でも、サンスカーラになりますよね。

つまり、菩薩は、行を滅ぼさないんですよね。「行」を滅しちゃうと、その前にある原因である無明が滅することになって、解脱しちゃうんですよ。

だから、ここで自己完結させる以外にはやりようがないんだな、って思って、えらく感動してしまいました。

菩薩って、解脱できない分、ほんっと、辛いですよね。声聞になりたい、って、思いたくなるのもわかります。


投稿: 管理人エム | 2009/09/14 22:48

気も早く、秋の色に染まりゆく、北の島の主婦菩薩、
家事にこと寄せて、法のヴィーナを奏で、
いたずらな心は、それに振るえて、
プルーンの甘味を讃えて、楽しい歌をうたう……

おひさしぶりです。エムさまには、「マニカナ断ち」を申したこともございますが、〈菩薩〉の話となりますと、つい、心も揺らぎます〈笑〉。
このところ、「カレー日記」もブッダの論理から唯識、そして菩薩の願行と、インド後期大乗や空海が説く修道のプロセスにも似た興味深い展開を見せ、「エムさまの心境は、これいかに?」とも思っておりましたが、今回のおちゃらけさまのコメントは、すばらしいものと存じます。

「誰かが、私に対して怒ろうとも、信仰の心を生じようとも、それが常に彼らのすべての利益を成就する原因とならんことを。……
 私は保護者のいない者の保護者に、旅路にある者の船長に、河を渡ろうとする者の小舟や船、橋となろう。……
 そのように虚空の果てるまで、有情界に対して、つねに、すべての有情が涅槃を得るまで、私が彼らの生存の原因になろう。」
(シャーンティデーヴァ『入菩提行論』第3章/ソナム・西村訳『入菩薩行論』による)

菩薩の「一切衆生を救うためにブッダとなろう」という志(菩提心)や、菩薩その人は、しばしば「如意宝珠」に喩えられます。「如意宝珠」とは、すべての人の願いを自然にかなえる、宝の珠、のことですね。
そのように、菩薩も、自らはそれとして意識することはなくとも、おのずから人々の願いに応え、人々を利益と安楽(その窮極は「ブッダの菩提」です)に導いてゆくと説かれます。
おちゃらけさまのいわれる「プルーン」とは、こうしたことでもあるように感じました。

「薔薇は〈なぜ〉ということなしに、咲く、
 咲くが故に咲く。
 それは誰が見ているか、といったことなど、
 気にとめもしない」
(アンゲルス・ジレジウス。ただし、記憶なので、多少の間違いもあるでしょう。)

ただし、本当に、これができるのは、やはり空性をありのままに悟った「聖者の菩薩」になってからでしょうね(龍樹でさえ、ようやく、その最初の段階である「初地」に至ったという、到達困難な境地です)。
それまでは、拙い自身であっても仏性があることを信じて、一歩一歩、たとえ有漏ではあっても、歩みを進めるしかないでしょう。「凡夫の菩薩」として……。

ヴィーナと歌声への、随喜を込めて。
(なお、「豊穣の海」4部作は、私も大好きなものでした。特に、第3話『暁の寺』で、主人公が王女ジン・ジャンに幻視する「赤い孔雀明王」は、まさに、かつて私がいった後期密教のダーキニー的イメージのようです。)
では、贅言はこれまでにて、失礼いたします。

投稿: シャン坊 | 2009/09/14 22:45

>受け身なプルーン君が言ってる気がしま~す

ここ(だけ)が、「少し、、、」 かな ?

捨て身な( 素敵なかな ? )、
プルーン君が、

言ってる気がするのではなく、
チャント聞こえます

投稿:   みともり   | 2009/09/14 22:40

分かりやすい三輪清浄の解説ですね。

これまた素晴らしい。

随喜、廻向しときます。

投稿: o | 2009/09/14 22:03

おちゃらけさま

こんばんは。

>「結局、ダレがダレを救うの?」という話ですよね。「エゴが入ったら救うとは言わないでしょ?」というのがsarahさまの大筋の疑問ではないかと。

ちょっと、ニュアンスがちがうと思います。。だいぶ、ちがうかな。。ぜんぜんちがうかなぁ。。。

えっと、どっちかってぇと、「『ダレがダレを救う』ということはない」というお話ですね。。

おちゃらけさま、どうしたん?
えらく、変よ!
いつものおちゃらけさまとちがう感じですが。。。

sarahさまのお話も、「エゴをもっては救えない」というお話ではないでしょう?!

「『救う』という意識をもっていては、『救う』という普遍的な行為には至らないのではないか」というお話ではないでしょうか。
だから、最初から「救う」という意識はないのだ、とおっしゃってると思いますけど。
 
これに対して、わたしは、
純粋に「救う」という行為は、かならずどこかで「救うぞ」という強い意志(願)がある!と述べています。その意志によって、救う行為が可能になります。
ただ、そのとき、純粋に「救う」行為になりうるのは、「わたしがこの人を救う」という意識は持たない場合だと述べているのです。

sarahさまの場合は、
「救う」という意識はないと述べているのであって、
「ダレがダレを救う」という点は、むしろ、はっきりしているように思われます。
どの時点でダレに接触したとか説明をつけられているからです。あえていえば、sarahさまが誰かを救う、ということであってもいいかもしれません。

わたしの場合は、
「救う」という意識は、これは明確に持たねばならないと述べているのです。
でなければ、「救う」ということが、どこにも出てきません。誰の心にも浮かばないなら、そこに「救う」ということはないのです。
しかし、「ダレがダレを(救う)」と考えてはならない、と述べています。


この点が、sarahさまとわたしの完全に逆転している点ですね。

主題は、「救う」ということで、「救われる」ということではありません。

ええっと、これでいいかしら。。。ほんとに、どうしたん?

投稿: 管理人エム | 2009/09/14 21:57

(昨日分の自己レスの続きです)
この記事は多分、道場(掲示板)のsarahさまのNo.6207の書き込みにエム先生がNo.6213で応え、それに続いて縁起していると思ってます。「結局、ダレがダレを救うの?」という話ですよね。「エゴが入ったら救うとは言わないでしょ?」というのがsarahさまの大筋の疑問ではないかと。

もしも、ダレかを救いたい!と強力に思うならば、プルーン君になればいいんじゃない?と先生はおっしゃってるのかと。プルーン君はダレの役に立つとか立たないとかはて~んで思ってない。でも、自分の実がおいしいってのを十分自覚してるはず。(果物は食べられるものとして進化したから)。プルーン君は誰かの役に立つとき、徹底的に受け身でおもいっきり利用される「ダケ」の存在になることによってその「タネ」が働くように出来ているんじゃないかしらん。

> かれの思いを受けとめた人々だけが  
> 落ちた人と助けた人がどうなったか、
> という結果にかかわらず
> かれの行為を 
> 「救う」と
> 呼ぶのである。

私的な受け止め方だと、
 救われたかったら、プルーン君を勝手に食べなはれ
 なぜなら、プルーン君は救われる必要が全くない
 ということによって救われているから
 果実を味わうのはプルーン君じゃないから
 これが菩薩の自己責任だから

プルーン君が「オレの味、うまいっしょ!」と「主張しない」から、「食べる方」の味覚によって「おいしい」と感じるんではないかしらん。(この語順であってますかしら?)

凡夫としてはあーだこーだ、なんだかんだ、と言われつつ、ひとつづつ「語順」を整理してゆくのが必要なんじゃないかしら。いっぺんに「ダレかを救う」のは無理→だってエゴだから。でも、ちょっとづつ努力する姿に救われるダレかがきっといるハズじゃないかなー。「そうそう、【言いたい人】には【言いたいこと】を【言わせておけ】」と、全方向において受け身なプルーン君が言ってる気がしま~す。(なワケで言っちゃいました)

投稿: おちゃらけ | 2009/09/14 21:11

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