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2009/07/07

争わない、って、争うのは。。。

004



 
 
 
せ~んろはつづくぅ~よ、どぉ~こまでも~~

っといいながら、塀の柵にに描かれた電車で、GO!
 
 
今日も暑かったですね。

「カレー日記」書かないと、
コメント欄が掲示板になっちゃうよ

との請問者さまのおことばですので、

油断せず、更新 昂進 ポッポ~~

 
さあ、少し対話がはずんでくれば、

これまでの論理学的な問題点もはっきりしてくるかな

どうでしょうか? 


 
仏教がむずかしいのは、一つには

純粋に学問上の観点からの問題が

くるっと

その人の心のあり方の問題に

転換してしまうところがあるからですね。 
 
 
 
学問上の問題を論じているつもりが

他の人によって、心の問題(煩悩)として

評価・判断されてしまう怖さは
 
西洋の思想・哲学には、絶対ないものです。


 
そういう意味で

西洋的な価値観は、仏教的な世界観の中では

ほとんど通用しません。
 
 
 
そのあたりを、浮き彫りにしようとしたのが

拙著 『龍樹と、語れ!』 なのです。
 
 
 
西洋的な思惟にひたっていた人には、 
びっくり仰天の発想です。
 
知識のある人はエライ!
というのが、西洋的な思惟です。
 
 
善悪のわかる人はリッパ!
というのが、仏教的な思惟です。
 
 
いや~、これじゃあ~、ぶつかりますねぇ~
 
【西洋】
いや、ぶつからないよ。
なぜなら、
知識のある人は、良識もあるからね。
良識があれば、善悪もきちんとわきまえてるよ。

【仏教】 
いや、そうでもないよ。
知識があっても、良識のない人もいる。
知識は、善悪を保証しないよ。
 
【西洋】
しかし、何だって、善悪なんだ?
学問は、正しい、正しくないだろ?

【仏教】
学問の正しい、正しくないは、
決定する手立てがないからだよ。
争うことになるだけさ。

【西洋】
何? ぼくらは、理性によって、学問をリードしてきたんだ。
正しい、正しくないは、ぼくらが決める

【仏教】
いや、それはダメだ。
きみが「正しい」っていう根拠を、ぼくらは受け入れない。
だから、善悪がだいじだ。

【西洋】
いや、正不正だ
 
【仏教】
いや、善悪だ

【西洋】
いや、正不正だ
 
【仏教】
いや、善悪だ  

【西洋】
いや、正不正だ
 
【仏教】
いや、善悪だ

ううん、伸びてく、伸びてく
ツタは伸びてく
002
 
 
  

 
ツタない命だっちゅーのに

おい、おい!
そんなに争うなよ。

ツタが絡まるように
言い争って絡まっても

仕方ないっすよ。。。

それにしても、どうなってんだろね

このツタ。。。

電信柱をまるごと占拠しちゃってるっつた。

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コメント

oさま

>僭越ですが、私ほどM先生を誉めた人はいないと自負しております

わたしも、こんなに誉められたことは生まれてこのかたありません。
ホントにありがたくてうれしいんですけど、でも、死ぬほど恥ずかしいもんですね。。sweat01 にげろ~ runって感じです。

>「仏教、まさか信じてないよね?」という研究者が多いように思います。

ううむ、そりゃ、さびしい。
宗教として信じていないとしても、やはり何らかの「信」をもたなければ、わかるものもわからない、となりそうです。

仏教の教えそのものが、信を基本において学ぶものですから。

考えてみれば、インドの哲学は、みなそうですよね。

投稿: 管理人エム | 2009/07/11 21:05

請問者さま

僭越ですが、私ほどM先生を誉めた人はいないと自負しておりますhappy01

ハイデガー、デルタイ、ガダマーなどの解釈学の方法を仏教に持ち込んだ津田先生がいらっしゃいますね。
解釈学も峻厳な文献学に基づかないと唯の妄想世間話になってしまいます。

「仏教、まさか信じてないよね?」という研究者が多いように思います。
執着でない愛のある研究はいいですね。
木村先生、水野先生、生井先生、片山先生などが思い浮かびます。heart02

反対に仏教なのにエゴまみれの研究は気持ち悪い。まさに我利我利亡者shock

投稿: o | 2009/07/11 20:21

請問者 in Tokyo さま

掲示板はくせになりやすいですから  happy01

それにしても、oさま同様、ほんとうによく読んでいただいてありがとうございます。

> 「研究者の志向によって、ニヤーヤ・仏教の思想は、そのすがたを、変える」
ということは、世間の「仏教学者」「インド学者」には、なかなか類を見ないタイプの自己反省か、と思います。

今まで、二種類を体験した人はいないからじゃないでしょうか。

おっしゃるように、「解釈学」という研究方法、もう少しクローズアップされてもいいかもしれませんよね。
解釈学には、愛が必要だというのも納得しました。

研究対象を愛さないで、どうやって研究できるだろうか。。。ですよね。
どうしても、過激で熱くなりますね!

投稿: 管理人エム | 2009/07/11 00:35

(静まる、静まる、といって、静まらず、まことに申し訳ございません……。これはもう、「凡夫らしく」やめときますか。〈笑〉)

>気持ち的には下の方ですが、無理を承知で上に挑戦してみようかな。。。 shock こうなりそう。。

管理人さま、こうやって1年、アップアップして、『龍樹と、語れ!』書かれたんですよね!!!

本書は、一応、管理人さまの「研究書以外のご本」では珍しく、「世俗の習慣に合わせて」歴史的背景から文献の概要、そしてその内容の検討に入っていますから、世間の「近代仏教学的」思考からでも、比較的入りやすいものに仕上がっているように思います。
0さま、どうか、そのあたり、ほめてあげて下さいね。

ただ、その第1章末、p.109最終行「が、しかし、その前に、注意してもらいたいことがある。」以下、同章ラストまでに縷々、述べられる、
「研究者の志向によって、ニヤーヤ・仏教の思想は、そのすがたを、変える」
ということは、世間の「仏教学者」「インド学者」には、なかなか類を見ないタイプの自己反省か、と思います。

これこそ、かつてハイデガーなどがいった「解釈学的循環」における「先理解」に、ほかなりません。だから、私は、先のコメントで、管理人さまの学問を「解釈学」と呼ばせて頂いたのです。
さらにいえば、同書「はじめに」の「龍樹を探せ」にあるように、これは「縁起」にもとづく「解釈」です。従って、管理人さまの学問は、「ブッダと龍樹の〈ことば〉」についての「縁起にもとづく解釈学」である、といえるのかもしれません。

〈ことば〉は一義的なのだから、〈文献〉を文字どおりに読みさえすれば、疑う余地のない〈事実〉がわかるはずだ、というのが、文献学的〈素朴実在論〉(≒有自性論)です。

 ただ、実際には西洋人もバカではありません。
 彼らがもっとも心血を注ぐ「新約聖書」については、20世紀に入ると、こうした〈解釈学的〉もしくは〈現象学的〉(≒無自性論、的)問題意識が鮮明に浮上し、従来からの精緻をきわめた文献学的手法とあいまって、聖書学は新たな展開を迎えたものです。

問題なのは、日本の「近代仏教学」が、なお、管理人さまを含めた一部の例外を除くと、19世紀の「古典文献学」のレベルにとどまっていることでしょう。
これは、なぜでしょうか? もしかしたら、やはり仏教への〈想い〉が薄い、のかもしれません。

「愛さなくては、理解できない」(アウグスティヌス)
「〈ことば〉に依らず、〈意味〉によれ」
               (『大乗涅槃経』)

それゆえの「過激」、な発言でした。〈笑〉

投稿: 請問者 in Tokyo | 2009/07/10 20:41

みともりさま

>「逆」とあらわしては、間違いなのです

逆必ずしも真ならず、が、そのまま成り立ちますね。
縁起は、相依相関関係ではない、と言いかえられるかもしれません。 

>縁起は、成立する要件として、
「中道」を必須とします

な~る。。。こういう言い方もありですか!
世俗諦の「縁起」は、第一義諦の「中道」へと変換可能です。。。なかなか scissors

投稿: 管理人エム | 2009/07/10 17:59

oさま

わたし的には、顔マークは、こっちかな?!

>もうちょっと、世俗の習慣に合わせて方便に巧みな方がよろしいかと思います。 bleah

>いや、やっぱりもう騎虎の勢いで突っ走るしかないかもしれませんね。 coldsweats01

気持ち的には下の方ですが、無理を承知で上に挑戦してみようかな。。。shock こうなりそう。。

投稿: 管理人エム | 2009/07/10 17:51

請問者 in Tokyoさま、

>「文献学」的実証性を第一とする「インド学」「近代仏教学」(本当は、もはや19世紀ヨーロッパの遺物と化した学問、なのかもしれません)

>管理人さまの学問の、少なくとも主要な方法論は、もはや「文献学」というよりは「解釈学」である、と、私は感じております。

M先生、

>おおおお、なんとおおお、過激なご意見ではないでしょうか。
>でも、賛成です。おそらく文献学は、仏教に関しては、失敗する部分がでるような気がします。

>もっと過激な意見を述べてしまいました。
ブッダと龍樹については、文献学が効かないないからです。「言失」がありますから。

直球でいったら、もう無理ですね。奇才ということになってしまうでしょう。
もうちょっと、世俗の習慣に合わせて方便に巧みな方がよろしいかと思います。coldsweats01

いや、やっぱりもう騎虎の勢いで突っ走るしかないかもしれませんね。bleah

投稿: o | 2009/07/10 17:15

請問者 in Tokyoさま oさま

> というより、「文献学」的実証性を第一とする「インド学」「近代仏教学」(本当は、もはや19世紀ヨーロッパの遺物と化した学問、なのかもしれません

おおおお、なんとおおお、過激なご意見ではないでしょうか。
でも、賛成です。おそらく文献学は、仏教に関しては、失敗する部分がでるような気がします。

っと、もっと過激な意見を述べてしまいました。
ブッダと龍樹については、文献学が効かないないからです。
「言失」がありますから。

とはいえ、英訳も考えた方がいいか。。。って気もしてこないわけではありません。

ただ、時間がないので少しでも時間があると、英訳するより、ついつい新しい研究に進んでしまいます。

投稿: 管理人エム | 2009/07/10 00:39

0さまへ、「復活」ついでに。〈笑〉
管理人さまの目的は、もう「インド学の発展」位の枠、には収まらないような気もするのですが……
というより、「文献学」的実証性を第一とする「インド学」「近代仏教学」(本当は、もはや19世紀ヨーロッパの遺物と化した学問、なのかもしれません)と、管理人さまとでは、すでに、目指されるところが大きく異なりつつあるような気がいたします。
そこのところは、アマゾンの書評で、0さまも的確に指摘されていたもの、と思い込んでおりましたので、ただ今のご発言は、いささか予想外の感じです。
西洋近・現代の学術用語でいっても、管理人さまの学問の、少なくとも主要な方法論は、もはや「文献学」というよりは「解釈学」である、と、私は感じております。
(ちなみに、英文での発表は、私も管理人さまに勧めたことはありました……でも、管理人さまの意図は、そういったこととは、少し別のようにも感じました。)

また、〈弟子〉さま、先に、訳の分からないこと書きましたけれど、元気出して下さいね。
私もイエスは好きですよ。

 なお、先のコメントの補足。
「法身説法」(空海)「法身の光輪」(親鸞)に加えて、インドの例として「法身の業用」(『現観荘厳論』)も加えるべきでした。
「菩薩は煩悩を捨てない」は、別に「通俗的な」煩悩即菩提、をいっている訳ではありません。部派でも、菩薩の修行のためには、輪廻に「生存」を続けるべく、「あえて」煩悩を残す、とする思想があります。龍樹の『菩提資糧論』をはじめとする大乗のこの種の思想も、以上のような背景を踏まえて理解すべきか、と考えております。

さて、そろそろ静かにしなければ……〈汗〉

投稿: 請問者 in Tokyo | 2009/07/09 23:17

みともり様、

 お心になかうよう奮闘努力したいと思います。


M先生、

 インド学もM先生以降飛躍的に進む可能性はありますね。

 でも、たぶん英文で発表しないと日本では黙殺されて終わりなんじゃないでしょうか?

 もちろん、そうならないことを祈っております。

 

投稿: o | 2009/07/09 20:32

少し、補足しましょう

>達人ですね。逆もあります。

右の縁起は、(逆の)左です
前の縁起は、(逆の)後ろです

逆は、縁起そのもののように、
真だと、捉えがちですが、
「結果が、同じであれば、同じことだ」
とは言えないのです

お金を得る(手にする)ことが目的のとき
方法は如何様でもよいでしょうか ?

縁起は、成立する要件として、
「中道」を必須とします

「逆」とあらわしては、間違いなのです 

その中道に、縁起する処を含んで、
縁起の理は、初めて成り立つのです

これが,、「空性」の意味なのです

ここは、仏教を求めるサイトです

世間話の域を出ないことで、

仏法を “ 商量 ” すると、

ブッダからまっすぐ受け継ぐ

(チャクリョウ)が、

曲がり、外れる のです

投稿: みともり | 2009/07/09 19:32

本当は、これで「寂滅」に入るつもりでしたが〈笑〉、〈弟子〉さまが、何かおさびしそうなので、気になって、もう1度だけ「復活」します。〈不埒もの!〉

〈弟子〉さま、「西洋的な菩薩乗である基督教」、私こと、もとカトリックのタントリスト〈おい、おいっ!〉としては、もっともなことかと、ひそかに想いを深くした次第です。
 法身・大日如来の、
 衆生ある限り続く、
 救いのはたらき、
 それを示したのが、胎蔵マンダラ、です。
 そこに、「基督院」
(キリストや、それに従う人のいる一郭、です)
 があっても、
 少しも、不思議では、ありません。
 いや、あるべき、です。

「ボサツ、智慧ある者は、
 輪廻に衆生がいる限り、
 常に彼らを利益して、
 しかも、涅槃に、おもむかず」(『理趣経』百字偈)

 ブッダは止論で、涅槃、に見えますが、
 本当は、いまも、涅槃に入らず、語りつづけています。
 これをボサツたちは、
 「法身説法」(空海)
 「法身の光輪」(親鸞)
 などと、
 さまざまな〈ことば〉で、
 讃えてきました。
 そして、こうしたボサツたちの想いのみなもとに、
 龍樹の、『大智度論』に描かれる、
 光を放ち、説法を宇宙にひびかせる、
 法身のほとけ、があります。

「私の父は、今もはたらいている。
 だから、私もはたらくのである」
          (『ヨハネ福音書』)

 龍樹なら、あるいは、
「ブッダは、今も語っている
 だから、私も語るのである」
 といったかも、しれません。

 煩悩を捨て、衆生を捨てては、
 ボサツに、なれません。
 
 
  


投稿: 請問者 in Tokyo | 2009/07/09 19:10

oさま

>  輝きが簡単に身に付かないように慈悲も簡単には身に付きません。

慈悲を身につけた人!!めったに会えない人ですね。。。

> ですが、縁起の学問的理解も転換期にきているように思われます。

そうですか。。期待しましょう。

龍樹以後、学問は飛躍的に整理が進みます。。発展した、といいたくなります

が sweat01

バラモン教系統の学問が、仏教の教えの影響を受けて、いいところ吸収して繁栄してきます。。。あーらら、アーラヤ! トホホ。

投稿: 管理人エム | 2009/07/09 17:45

胡乱な止論の弟子さま

>ツタはまだ枯れてないし、電柱も機能している。

そうなんです。しかも、ツタは電線にまで巻きつき始めて横に進んでるんです。。。
このまま、ツタの行方を見守りましょうか?

>私は止論で涅槃はさびしく感じます。

そのさびしさ、ちょっぴりわかる気がします。。。生死即涅槃、ってタイプかも。。。

投稿: 管理人エム | 2009/07/09 17:33

みともりさま

こんにちは!

>>ないようにみえる慈悲もありそうです。

これは、わたしのことばなんですけど、誰のことを考えながら言ったかわかりますかっ?

みともりさまですっ sign03

>*.ないようにみえる慈悲もあります

おお、やっぱり confident

投稿: 管理人エム | 2009/07/09 17:18

>ないようにみえる慈悲もありそうです。
>> 達人ですね。逆もあります。

逆はありません
縁起の「理」があるだけです

>ないようにみえる慈悲もありそうです

(ないようにみえる慈悲は、ありません)
(ありそうなものも、なさそうなものも、ありません)
(あるものだけが、あるのです)

1.あるようにみえる慈悲もありそうです
2.ないようにみえない慈悲もありそうです
3.ないようにみえる慈悲もなさそうです

*.ないようにみえる慈悲もあります

* は、バリエーションではなく、命題の意味です

>「誰でも死ぬ」のは、やはり、真理です。

 真理と受け止めるしかないということです
( 真理を知らない(理解しない)のが、衆生です )

>>ですね。釈尊が縁起の説明で用いられるのが一般的ですが、チベットでは死ぬことだけは確実であると無常の説明で強調します。
 
>強調します  →  強調するところには、必ず、無理解と、誇張と、ねつ造があります
(強調する人が)理化(理解)できない(できていない)ところを、胡麻化 す わけです

>これは唯の妄想かもしれません。人は執りたいように解釈しがちですから。

「妄想かもしれません」ではなく、(あなたの)妄想です
しがちではなく、(あなたが)そうしているのです
あなたのような、甘い(自己)認識が、妄執(のその本質)です

>アラヤに親しみアラヤを喜ぶでしたか?

言葉を知るだけでなく、
意味に(現実として)生きてください

投稿: みともり | 2009/07/09 10:32

M先生、

 おはようございます。

>まったくだ!と思います。むずかしいです。
>慈悲の存在「感」ってのが、むずかしいですね。

 これが無い人は行で獲得するしかないです。
 俳優の品とか優雅さ、輝き、オーラみたいなものです。
 俳優も最初からある人もいるけど、いつのまにか身につけてる人もいるようにです。
 輝きが簡単に身に付かないように慈悲も簡単には身に付きません。だから、むずかしい。
 馴染んで癖にすることから始めるしかないと言われます。業論者ですね。
 M先生は、堅固な忍辱を持たれた素晴らしい精進者だと随喜しております。

>ないようにみえる慈悲もありそうです。

 達人ですね。逆もあります。

>「誰でも死ぬ」のは、やはり、真理です。

 ですね。釈尊が縁起の説明で用いられるのが一般的ですが、チベットでは死ぬことだけは確実であると無常の説明で強調します。
 真理を納得できるように伝えるのが、慈悲と方便だと思います。だから、『大慈方便論』と言われるのかもしれません。M先生が明らかにしたように内容から『方便心論』は慈悲の論理学に他なりませんが。happy01

>ツタの絡まる【西洋】と【仏教】の問答は

普賢行に近いものがあるのではないでしょうか?
実在論的縁起の方が学問的と思われる現状では、相当、厳しいですね。
ですが、縁起の学問的理解も転換期にきているように思われます。

これは唯の妄想かもしれません。人は執りたいように解釈しがちですから。

アラヤに親しみアラヤを喜ぶでしたか?

投稿: o | 2009/07/09 09:28

離れている状態から、近くよって
また離れていく、、、止論。

結果として、それはそうなんですけど、
今というのは常に流れています。

だからツタと電柱なのかな?
ツタはまだ枯れてないし、電柱も機能している。
題名も其方を向いているようだし。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^
このように解釈して投稿しました。
私は止論で涅槃はさびしく感じます。

思案が足りませんでした。
では、失礼します。

投稿: 弟子(逃亡中の胡乱な止論) | 2009/07/09 08:38

oさま

> 止論は巧みな方便と慈悲の存在感が必要だと思います。

まったくだ!と思います。むずかしいです。
慈悲の存在「感」ってのが、むずかしいですね。ないようにみえる慈悲もありそうです。

>  笑って「だれでも死にます」と仰られても、その慈悲に溢れた佇まいに安堵納得したとか。

方便20%で慈悲80%の方法ですね。
尊敬さるべき人に言われるなら、納得できないことはないかもしれません。

そして

「誰でも死ぬ」のは、やはり、真理です。

ツタの絡まる【西洋】と【仏教】の問答は、なんとなく絡まりながら、うまくいくような感じがして書いてましたが。。。たんなる願望か(笑) happy01

投稿: 管理人エム | 2009/07/09 07:02

弟子さま、この呼称、なんか変ですねbleah
 上手く方便を使うのが智慧ではないでしょうか?
 止論というのは、別に沈黙するとか、そっすね〜とかだけではなくて
 実際は、世慣れた方は上手に使っ ているように思います。

請問者 in Tokyo さま、
 これは人違いかもしれません。失礼いたしました。
 そうですね。一切智者ということは演繹であるということですね。
 一切智については、よく知りません。その二つがあること、
 特に法称菩薩の「さあ、鷲でも拝もうか」が印象に残っています。
 ご共感いただきありがとうございます。
 そもそも、M先生への共感と驚きで『ブッダ論理学』の頃からずっと書きたかったのですが、
 なかなか納得できるものが書けず、今に至りました。
 
 今後とも宜しくご指導ください。

M先生、
 なるほどそういうことですか。
 上に書いたように止論は巧みな方便と慈悲の存在感が必要だと思います。
 特に圧倒的な慈悲が溢れている場合は、方便すらいらないと思います。

 例えば、余命半年と宣告された人が、高僧に救いを求めに来て「私、死ぬんです」という訴えに、
 笑って「だれでも死にます」と仰られても、その慈悲に溢れた佇まいに安堵納得したとか。

投稿: o | 2009/07/08 23:32

見者マンボーさま

何も起こりませんように、って、期待するわたしは、無精者 catface

あとから、ドカンなんて、あったらいやですわん bearing

投稿: 管理人エム | 2009/07/08 22:36

エム先生

何も起こらなければ、対話の必然性はないと見てもよいのではないでしょうか?メデタシメデタシ、ってことで。delicious

投稿: 見者マンボー | 2009/07/08 22:07

見者マンボーさま

> ネットでは止論を最初にすればどうでしょう?

そうですね!。。。で、でも、うまくいくかしら?

相手も止論になったら、何にも起こらなくて、よかったわ、っていうことになるのかしら。。。

でも。。でも。。

なんか、落とし穴がありそうな気もするんですけど。。。見者マンボーさま、思いつきます?

投稿: 管理人エム | 2009/07/08 21:13

請問者さま

六句論議を持ちだされましたとは、鋭いですねぇ。。。

そうですね。最後は止論になりますが、はっきりさせたいのは、止論の前に、【仏教】は、受け入れないということを明言することですよね。

議論のありさまを見ていきますと、「言い争わない」という立場を出すのは大事ですが、その前に、自分の見解ははっきりさせるということも、じゅうぶん大事ですよね。

まあねぇ、相手にとっては、のどに刺さった魚の骨みたいに、やな感じかもしれませんが、世の中、そんなもんだって。。。と、トゲはいうのだった。。。

oさまと意気投合ですねwink

投稿: 管理人エム | 2009/07/08 21:03

エム先生

ネットでは止論を最初にすればどうでしょう?相手の状況が分かりますし、それにあわせて進んでいけるのでは?なんて。。

投稿: 見者マンボー | 2009/07/08 21:00

oさま 弟子さま 請問者さま

さっそく、ツッコミがきちゃいましたね。。。

ここは、ほとんど、ツタの写真にどうやって絡めるかという、ネタのツタに管理人が絡まったために、止論にできなかったんですぅ。。。

ジャックと豆の木みたいに伸びてく話にしようとして、モメ系のお二人に登場していただきました。

まあ、止論が無難でしょうか。お互いに離れていくのでしょう。

逃亡中の弟子さま

> 止論は最悪首

なるほど。。。

> ちまちま律儀に説明してたら忙殺

こちらもなるほど。。。智慧がいりますね。。。ううむむ
現実はきびしいですね。

わたしも、止論と思っても、なかなかできない場合がありますし、かといって、説明すると無視される、ということにもなるし。。。ええい、なるようになれぇ~~。。ってのが、本音だったりしますねん。

投稿: 管理人エム | 2009/07/08 20:33

この【西洋】【仏教】の「諍論」、【西洋】はこうした堂々めぐりにするつもりはなかったでしょうが、【仏教】は「確信犯」的に、そこに導いていますね。
これも、【西洋】に対する一種の「帰誤」の成功例、ではないでしょうか? 『廻諍論』の前主張(ここでいう【西洋】にあたる「実在論者」の主張)で、龍樹がこうした堂々めぐりの「六句論議」を出したのも、あるいは、そういう意図があったのか、とも想像します。

Oさま、管理人さまより、ご評判は常々、うかがっております。ただ、「西蔵佛教」では、いささか宗旨が違うようなので、はたしてお目にかかる機会があったでしょうか?(もちろん、私も、宗派への「執」はないつもりです。)

ここしばらく、メールで管理人さまとお話しましたが、管理人さまが「ブッダの論理」は演繹法、とおっしゃる背景には、実は「ブッダが成道で三世の〈全て〉を見た」一切智者である、ということがあるようです。
一切智者については、インド後期大乗でも、「解脱に役立つことを知る者」「文字どおり、全てを知る者」の2つの解釈があったといいますが、シャーンタラクシタは後者を重視しています(もちろん、よくご存知ですよね)。

どうやら、何と、管理人さまもシャーンタラクシタに近いお考え、のように見えるのです。(もちろん、なお、今後の検討が必要でしょうが……)
 ただ、今までは、管理人さまはこのあたりをあまりお話になっていないので、少しわかりにくさも生じているような感じもします。そこで、不肖、わたくしが、今後それをお話下さるよう「請問」しておきました。〈笑〉

私は、今回、「カレー日記」で「諍論の義、これあるによって」老婆心から出しゃばりましたが、やはり、ネットでの討論は「柄」でもないので、また、しばらくは静まります。
ただ、Oさまのアマゾンの書評と、先の空海へのコメントには深く共感を覚えましたので、ご挨拶のお返しまでに書かせて頂きました。

あと、みともりさま、「毒語」多謝! です。

 

投稿: 請問者 in Tokyo | 2009/07/08 12:15

会社で止論したら最悪首になります。

そ・こ・でthunder
西洋的な菩薩乗である基督教の登場ですよ

ちまちま律儀に沿って説明してたら
余裕で忙殺されますhappy02

真面目な話、自己開示が完全にできれば
止論は使わなくとも良くなると思いますが、
もちろんワタシにはできません。
その時は禅のような会話になるんでしょうね。

投稿: 弟子(止論の上、逃亡中w) | 2009/07/08 11:10

M先生、

仏教徒は、「そうすか」といって止論で、終了しないのですか?

投稿: o | 2009/07/08 09:37

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