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2008年6月29日 - 2008年7月5日

2008/07/04

若者よ、哲学せよ!

蒸しますね。

暑いです。 
 
管理人の仕事先の 恵み野 というところは

ほんとにきれいなところです。

家々の庭は、ほんと、花盛り。
なぜなら、恵み野は、ガーデニングの町 だからです。

ガーデニングの雑誌に載りそうなステキなお庭も
たくさんあります。

ほら!学校の空き地でさえ
こんなに色とりどりに草花が咲き誇る。

012
 
 
 
 
 

011
 
 
 
 
 
 

013

 
 
 
 
 
これらの草花は、何を訴えているのか?

もう少しで、夏休みだなあ。。
がんばれ!

みんな、休みは近い!

って、言ってるな!きっと。。。


@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@


去年の学生さんに会ったら、

「せんせっ!
みんなで、

また、
てつがくしたいねぇ、

って
言ってるんですよぉ」

って。


えらい!

学生さんは、知っている。

哲学は

「するもの」

だって、知っている!


この一言で、

哲学の科目の
存在意義があったかな

って、

管理人は思ったのだった。

そろそろ
管理人も、哲学しなさいっ!

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2008/07/02

二つの仏教 部派と大乗

005


 


道場に寄せた河本さまへの返信no.4545です。

仏法を知る上で、ヒントになると思われることがらです。


とくに、部派仏教と大乗仏教は遠い親戚ではありません。

双子の兄弟のように、同じだけど、性格が違うんです。

おとなしいルイーゼと、元気なロッテ、みたいな感じです。
(ケストナー『二人のロッテ』より)

http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbsnew/wforum.cgi?no=4545&reno=4544&oya=4466&mode=msgview&page=0

==============================
河本さま

以前に『即身成仏義』をあげていただいたとき、
河本さまの思想的中心は、大乗仏教にあって、
そこから、部派などをご覧になっているのだなぁと感じましたが、
また、今回もそのような印象を受けました。


部派→大乗と話が進みますと、
ちょうど、世俗諦中心の思想から第一義諦中心の思想へと進む感じですので、
違和感はないのですが、
逆ですと、話にずれが生ずるのかもしれないと思いました。


    (略)


> 1.直線的な因果関係は、
> 「縁起」を意味するわけですから、絶対に必要なもの
> 2.「我」と「無我」の語、
> この二つの語が出そろった相対的な「我」と「無我」について論ずる
>
> エムさまの推察通り、「我」と「無我」の語が、
> 二つ出そろった後の菩薩のあり方の問題にになるでしょう。

このあたりは『ブッダと龍樹の論理学』が
ご参考になると思います。
今まで、多くの概説書・研究書を見てきて思うことは、
部派の思想と大乗の空の思想に、まったく、
なんの連絡もつけられていないということです。


要するに、「縁起」から「空」は、
思想的にスムーズな流れが導けていないのです。
それを明らかにしたのが、ブッダ論理学であり、
『ブッダと龍樹の論理学』です。


般若思想は、「空」を説くといわれます。
じつは、そこには「中道」という思想が、
論理的に介在して、「空」へと導くのですが、
それらも解明されていないように思います。

経典の作者たちは、みな、十分了解していますが、
わたしたちには知らされません。
これを、明快にしているのが、龍樹です。


河本さまのあげていただいた論文は、
たいへん丁寧にトレースしてあって、
15年も前にこれだけの内容をまとめたと思いますと、
ちょっと感慨を覚えます。

> http://www3.ocn.ne.jp/~tomson/


この中で、インド論理学について書いてあるところは、
わたしの研究と重なっており、わたしの関心事でもあります。
ここの問題をわたしは研究していたのです。


わたしは、このような問題について、
解決するために、『ブッダ論理学五つの難問』で、
ブッダ論理学を提唱したのです。
西洋論理学とインドの論理学が、
まったく異なる論理によっているということを示しました。


けっきょく、これらが、明らかになったのは、
誰を研究したからかといいますと、
それは、龍樹です。


「直接、龍樹の論法に取り組んだ」ので、わかったのです。


で、不思議なのですが、
大乗仏教史、あるいは、大乗仏教研究史を見てみますと、
「直接、龍樹論法に取り組んだ」人は、
見あたりません。わたしの知るかぎりでは、
八〇〇年近い歴史の中で、
わずかに梶山先生くらいしか知りません。


何が言いたいかといいますと、
シャーンタラクシタも龍樹論法を、完全には、知らないと思います。
これは、シャーンタラクシタのせいではありません。

チベットには『方便心論』は伝わりませんでした。
インドでも、ほとんど忘れられているような状態でした。
中国でも、読んで理解する人はいませんでした。
誰も、『方便心論』の内容を知らなかったのです。

『方便心論』が、阿含経典の中から生まれていることを。

「論法」というのは、論理学ですから、
「縁起」「中道」の論理、さらには「空」ということを、
一切知らしめるものです。


もし、シャーンタラクシタなど、大乗の中観論者・唯識論者たちが
「龍樹論法」を、完全に、知っていれば、
異なった展開になったと思います。
梶山博士が『仏教における存在と知識』の中で、
次のように述べています。
シャーンタラクシタの『中観荘厳論』を解説した中です。


上述した普遍的な空性と、
論理や言語による空性の論証との間の矛盾に関わる疑問は、
ナーガールジュナ以来すべての中観者が直面してきた
古い問題である。(p.75)


この問題は、「空性の哲学は虚無論者の考えに等しい」という批判を
かわせなかったことです。
これに、答えようとしているのがシャーンタラクシタだと思いますが、
この問題は、なんと、じつは、すでに龍樹が解決しています。


龍樹をしっかり読み取れなかった
後代の人々の力不足のせいであるように思われてなりません。
しかし、シャーンタラクシタ、ミパムの解決がどうであるかは、
大事な問題であると思いますので、
それはそれで注目しています。

oさまが、この点を注目してくださって、
わたしの研究にも関心を示してくださったのです。

『方便心論』は、世俗諦中心の論法です。
一方、『中論』は第一義諦を中心とします。

それらは、つながった一つの論理であることがわからなければ、
仏法は理解できません。
中観論者を虚無論者のように呼び、
部派の論者は、有論を説く者と絶対視されます。

このような、二つの立場があるように誤解されてしまいます。

虚無でもなく、有にも流れない仏法は、
論理を究めたところにあり、
それを知るのは、
龍樹の論法をおいてはないと思われます。

「我」と「無我」の相対が出てきたところで、
第一義諦がはじまります。

ここで、今までの概説では、
「相依相関関係」と解説してしまったために、
その後の解説は、すべて、仏法の解説から脱落しました。

なぜなら、ここで、「縁起」が見捨てられるからです。
西洋論理学の牙城に入ってしまうため、
仏教の思想はまったくねじ曲げられてしまうのです。

ここをなんとか避けるため、
「空」で乗り切るのはいいのですが、
そうすると、「空」は「有」の対立概念のように、
これまた、誤解され、空VS有、という構図になって、
虚無論者の道へと堕ちていくのです。

いくつもの落とし穴をかいくぐって、
仏法が、部派をも大乗をも含む、
すべてを包み込むものだと知るためには、
ただ、ただ、煩悩を捨てて、虚心に、
経典・論書を読む以外にないと思われます。

独演会になってしまってすみません。


> ------------------------------
> 現象世界を正しい論理に従って研究し、
> 社会の役に立とうとすること、そしてその結果として、
> 自らの社会実現を為すこと、それこそを人間は為さねばならない、
> とシャーンタラクシタは述べているように思う。
> これは大乗仏教が理想とする「菩薩」の理念と相応するものであるように思われる。
> ------------------------------
>
> これがシャーンタラクシタの真意であるなら
> とても素晴らしいことだと思うからです。


わたしも、河本さまと同じように思います。
シャーンタラクシタとミパムは、よくよく読むべきだと
自分でも思ってます。
彼らの独自性と求道心に深い敬意をもっています。

でも、わたしの場合、その前に、龍樹です。
かれの、『方便心論』を全部解明しなければなりません。
前半はできたけど、後半が残っています。
もう少しがんばりたいと思います。

これは、ブログにも載せておこうと思います。
自分の気持ちだから。

(道場の書き込みと変わっているところが
一部あります。)

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2008/07/01

ガンダルヴァの城

001
7月です。
早いです。

月日のたつのは夢のうち。

玉手箱を開けた浦島太郎の心境になってきました。  

龍樹先生も、言っています。

「諸々のものは、ガンダルヴァの城(蜃気楼)のようだ」

日の出の頃
東の空に
城郭・天守閣・宮殿・行き来する人々が
見えることがあるが。。。。
日が高く昇ると
それは消えてしまう。

この町は、ただ眼に見えるだけのもので
じっさいにあるのではない。

ガンダルヴァの城を探し求めても
行きつくことはできない。。。。

はっと、われに返ると
ああ、っっとっとっと

たちまち、おじいさんとおばあさん。。。

さびしい~~~

  。。。。。。。。 です


      が、

  。。。。。。。。


ま、いいか!

おおっとっっとっと

管理人! 夢のように、立ち直りも早いです。
さすが 日の出前のノー天気な 管理人です!

消えた城を、あれこれ思い煩っても仕方ないす。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

ここで
踏みしめるは、論理の大地ですぞ!

龍樹先生は、感傷にふけるために

ガンダルヴァの城を出したわけではないのです。

これは、ひとえに「空」の論理を説くために他ならない。

006

 
 

 
 
 

「空(くう)」というのは、何か?

これは、「論理」を蒸発させて「空気」のような気体となしたものである。

だから、スプレー式にふきつけられるのだ。

つまり、ここ一番、ブッダの法を知らしめたいとき、

このスプレーを使うとよいのです。

なんで、こんなもんが、龍樹の頃に 売り出されてきたかって?

ううん、それまで、使ってた「無我」のお線香では

効き目がいまいちになったからでしょう。

やさしくソフトなタッチで、「論理」を沁みつけるんですけど

なんか、効かないジャン!って、なんてきたんだわ。

だからね、

龍樹先生、『十二門論』で、悪戦苦闘。

十二章説く中で、最後に、かならずと言っていいほど
次の文句がくるのである。

=================
「有為、無為すら空である。
況や、我においてをや。」
=================

作られたもの(有為)である諸行
作られていないもの(無為)である涅槃

これらは、みな空である。

だから、どうして

我が空でないだろうか。


無我の思想を
受けて
さらに強力バックアップしたのが
空の思想。。。。なんですね。


たぶん、だけど、
『十二門論』も
阿含経典を、ふまえて
作られていると思うけど

まるっきり、まだ、五里霧中で

ゴリゴリ夢中。。。ガンダルヴァの城のようです。


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2008/06/30

つらつら。。

また、また月曜日ですねぇ。。。

ははは、ちょっとバテ気味です。

授業を二講、続けてやると、
完全に脳が酸欠です。

声もでなくなって
のどが干上がります。

なさけないなぁ。。。暑いからだっ!

003

 
 
 
  


 
 
 
どうかしら?暑そうに見える?
どっちかっていうと
まだ、さわやかかもしれないけど

なんだか、それでもムシムシする感じですね。

本州は梅雨ですね。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

さて、龍樹!

ここ数日、地味に、『方便心論』『十二門論』を
読んでいます。

授業では、ブッダ論理学を熱くやってるしね。

ほん~っと、お釈迦さんて、すごいよねぇ~~。。。。

毎回、完全に獅子吼(ししく)状態になってしまう。

あらゆる哲学・学問・思想。。。どれも超えています。

そして、それを全部つかんだ龍樹も、すごい!

======================
お釈迦さんは、少しばかりのシンサパー樹の葉をとって、
手にのせて
弟子たちにこう言った。

「比丘たちよ、わたしが手に取っている
この少しばかりのシンサパー樹の葉と、
この上のシンサパー林にあるそれとは
どちらが多いだろうか」

シンサパー林ですと、答えると

「比丘たちよ、それと同じように
わたしが証知して、しかも、
お前たちに説かざるところは多く
説くところは少ないのである」

と、述べます。、
なぜ説かないのかというと
清浄行の役に立たないからだ
と説くのです。
======================

いつも、ここのところで、気になるのですよ。

001

  
 

  

 
 
 
 
シンサパー林のごとき
膨大なる証知したことがらとは、
いったい、どんなことがらなんだろう。

ようやく

最近、少し、わかるような気がしてきました。

あるとき、ある場所で、あることが起こる。
そのとき
ブッダは、そのことがらを、四方八方から、
証知してしまう。

だから、もっとも適切に苦を抜くように
選んで、法を説くことができる。

経典は、膨大に証知したことがらのうち
そのとき、そのときで、
一つ二つを
とくに選んで語ったものだ。

しかし、

ここから、また逆に、
わたしたちが智慧を用いるなら
膨大なことがらを導き出すことができるのではないか
という気がする。

龍樹は、誰も気づかなかった論法一切を
経典から導き出した。

経典からは
科学、哲学、倫理、数学、論理、何でもでてくるのではないだろうか。

どうも、そんな気がして
経典をみつめるのです。。。。。。。。。。。。

見つめてないで、読んだら!管理人!

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