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2008/06/27

自己を認める人と自己を認めない人と

【自己を認める人】は。。。。
003
 
  
 
 
 


見えない自己をみずからのうちに認める人は

書いてある文章の中にも、

見えない自己を認める。

これを、「行間を読むことだ」とその人は合点する。
 
 

【自己を認めない人】は。。。。
005
 
 
 
 
  


見えないものは「ない」と知る人は

書いてある文章について、

ただ書いてあることだけを読む。

これを、「あるがままである」とその人は知る。


こんな二人が、経典を読むとどうなるでしょうか。
実験をしてみましょう。

====================
「比丘たちよ、眼は無常である。
無常なるものは、苦である。
苦であるものは、自己ならざるもの(無我)である。
自己ならざるものは、
『これはわたしのものでない、
これは、わたしではない、
これは、わたしの自己(本体)ではない』と、
このように、ありのままに、
正しい智慧によって見るべきである。」
(『サンユッタ・ニカーヤ』三五・一)
=====================

【自己を認める人】は

「眼は無常である。
無常なるものは、苦である。
苦であるものは、自己ならざるもの(無我)である。」

と読んで、
ここで、大好きな「自己」ということばに心をうばわれる。

一生懸命、行間を読む。

「自己ならざるもの」である、だと?
「自己ではない」ということだな。。。
ううん、「自己はない」とは、書いていない。。

「自己はない」とは言わないのだから
ムフフ、「自己」をブッダは否定はしていないのだ、っと。

こう考えて、安心してしまう。

これ以上

かれの頭には、文章は入っていかない。
ここで、経典はつきている。

■一方■

【自己を認めない人】は

「比丘たちよ、眼は無常である。
無常なるものは、苦である。
苦であるものは、自己ならざるもの(無我)である。」

と読んで

ここで、「自己ならざるもの」ということばに心をうばわれる。

苦であるものは、自己ならざるものである、と

知って、ちょっと気が軽くなる。。

苦しいことは自己ならざるものかぁ~

ありのままに、そうと知る。

で、次に進む。

「自己ならざるもの」は、
『これはわたしのものでない』
『これは、わたしではない』
『これは、わたしの自己(本体)ではない』と、
このように、ありのままに、
正しい智慧によって見るべきである。

一つ一つかみしめる。

眼は無常であって苦であって、そうか!
だから
わたしのものではないんだ。

眼は無常であって苦であって、そうか!
だから
わたしではないんだ。

眼は無常であって苦であって、そうか!
だから
わたしの自己ではないんだ。

そうなんだね。
だから
『どこ見てるんだぁ
自分の目でよく見ろぉ』
なんて、文句も言われなくてもすむわけか。。。

眼は「わたし」でもない。
眼が自分、って、あんまりないと思うけど
画家なら、眼が命、って思うかもしれない。。。

眼は「わたしの中にある小さい自己」でもない。
眼の中に。。瞳のおくに君が見える、みたいなかんじかな。
君の瞳に乾杯! っちゅうのも、あったね。
眼は、わたしの本質、わたしの自己(アートマン)、ってこともない。。。

こうして、書いてあるとおりに
知るのである。

【自己を認めない人】は、
もともと
自己を認めない人であったわけではない。
この人は、ただ経典を素直に読む人である。

しかし、

読めば読むほど
書いてあるとおりに
なっていく。
つまり
【自己を認めない人】になっていくのである。

だんだん、「自己」ということばを忘れてくる。
使わなくなるので、なくなっていく。


では!

眼は「自己ならざるもの」であると知るとは、
どういうことだろうか?


それはね

眼がみる色や形、そんなものに
とらわれなくなっていくことだね。

なぜって、

見る眼が
わたしのものでも、わたしでも、わたしの自己でないなら

見られるものだって
わたしのものでも、わたしでも、わたしの自己でもないだろう?
そうだよね。

そうなると

目で見ることばにすら
そんなにとらわれない。

わかったら、そのことばは消えていくし、
また、
必要になったら、ことばが気持ちのままあらわれる。

「無常」であって、
「苦」であって、
「自己ならざるもの」だからね。

で、じっと見てると、

無常・苦・無我は、一つのものについて
いろいろ言い換えたものなんだなぁ

とも、わかってくる。

これがね。

「空」ということでもあるんだ。

どんどん、見えてくる。。あるがままに。。。

花は紅、花は白!
001
 
 
 
 
 
 
★今日の教訓★

行間は読むな!
自己は語るな!

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コメント

落ち葉拾いさま

はじめまして。こんにちは!

> この記事自体が行間の叙述。はなしのずらし。かなぁ~~~

そうですかぁ~~~ happy01

たしかに 行間 多いかなぁ~~~

投稿 管理人エム | 2008/07/01 17:08

はじめまして、落ち葉拾いです。
この記事自体が行間の叙述。はなしのずらし。かなぁ~~~
落ち葉拾い、おわります。

投稿 落ち葉拾い | 2008/07/01 14:03

エムさま~ happy01

> ここで大事なことは、「自己」にだけ意識がいってしまって、主語が忘れられていることだと思います。

噛み砕いたご説明、ありがとうございます。

え~っと、お話自体はわかっているつもりなんですが、展開の仕方がちと気になっただけなんです。
「行間を読む」ということの使い方が、あまりフェアではない気がしたのです。
行間云々という表現がなければ、気にはならなかったと思います。
ですので、お気になさらないでください。

投稿 つくつく | 2008/06/28 19:42

えび天サンバさま

思わぬアイディアをいただいてありがとうございます。
なるほどぉ。。。分野は、微妙にずれていますしね。。flair

投稿 管理人エム | 2008/06/28 06:02

エム先生

思いつきですが、ペンギン先生とエム先生の対談本とか作れば、面白いんじゃないんでしょうか。そういう企画が成り立てば、生きた思想史の本という感じで、色々な思考材料が得られるのではないかと期待してしまいます。night

投稿 えび天サンバ | 2008/06/28 03:50

つくつくさま~~

すいませんねぇ。。

ここで大事なことは、「自己」にだけ意識がいってしまって、主語が忘れられていることだと思います。

さらに、「自己がない」という表現は、ブッダの言語体系からは出てこないのですが、それを取りあげるということは、ちがう哲学体系を意識しているということにもなるかと思います。

じつは、たいへん微妙なことを述べています。

たとえば、自分は「自己はない」という表現は使わないが、他の人にたずねられて「自己はないんだよ」と他人にあわせて答える場合があります。この場合は、「無我(自己ならざるもの)」ということを理解していると言えますので、この表現をもちいても問題はないでしょう。
ブッダも、世俗にあわせて語ることを許しています。

一方、「自己はない」という表現をブッダが用いていないということによって、だから「自己がない、のではない」と考える人がじっさいにいます。
この場合は、いつまでも「自己」から離れられず、そこに執着することになります。

『ブッダ論理学五つの難問』の【難問5】でも、ブッダの言語体系を述べてありますが、このような説明はなされたことがないので、多くの人はあまり注意を払わず、仏法を誤解してしまうことが多いのです。

書いたとおりに読まないと、すぐブッダの体系はむしばまれるようにできているんです。
そして、みな、すぐ表現を微妙に変えたがるんですよ。
意味をよく考えている人はだいじょうぶですが、かっこいい表現にしようとか、自分が気持ちよく感じる表現にしようとすると、ブッダの体系は、すぐに崩れてくると思います。そこには、「欲」とか「我執」とかがでてしまうからです。

誰でも「自己」というのはほんとうに抜きがたいのです。

スマナサーラ長老の述べていることは理にかなっていて正しいのです。
「自己がない」「自己でない」も、同じことだ、と見ることのできる人は、「自己」にこだわっていない人なのです。
そうではない人が、論理的ではないなどといって、「自己」を残そうとするのです。

投稿 管理人エム | 2008/06/27 21:32

無宗ださま

いやぁ、きついなぁ(笑)!

こうなったら、残された道は一つ。

出家ですねぇ。


投稿 管理人エム | 2008/06/27 20:41

エムさま~~~!

> 【自己を認める人】は
(-snip-)
> 一生懸命、行間を読む。
>
> 「自己ならざるもの」である、だと?
> 「自己ではない」ということだな。。。
> ううん、「自己はない」とは、書いていない。。
>
> 「自己はない」とは言わないのだから
> ムフフ、「自己」をブッダは否定はしていないのだ、っと。
>
> こう考えて、安心してしまう。

んん~~~ --;)
これじゃ「行間への意味の挿入」じゃん、って感じがします。

表現を選んでいるようにも見えますので、恣意的なものではないとは思います。
でも、どうにも 一方的 で 誘導的 に思えます。

この例の立て方は、いまいち好きくなれません。
(好き嫌いはわたしの中、に過ぎませんが)

投稿 つくつく | 2008/06/27 18:33

いや、

>眼は無常である。
>無常なるものは、苦である。
ここまでは、いいんですよ。

>苦であるものは、自己ならざるもの(無我)である。

ここが、わからない。

苦であるものは、自己だから、
・給料はやすいし、
・本屋はつぶれるし、
・マシンは落ちるし
なのではないだろうかw ?

投稿 無宗だ | 2008/06/27 15:19

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