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2008/04/07

夢のまた夢

そろそろ忙しくなって来そうな予感がする今日この頃。

というか、
忙しくなるんですよ、確実に、
管理人、さっさとしなさい、為すべきことをね。

といいつつ、その前に、ケーキでも。。。あらら

003
 
 
 
 

 
先日、親子三人でケーキ屋さんに行って
ケーキを食べました。
006
 
 
 
  

 
ろまん亭という、ロマンチックな名前のお店です。

なのに
ロマンのかけらもない親子は、
ケーキを食べながら
このお店を、
デートコースに入れる是非について
議論しました。

「おしゃれっぽいけど、ちょっとデートコースにはねぇ。。」
「何かひと味ものたりないかなぁ。。」
「ケーキはおいしいけど。。。」

って、
いくら話題がないからといって、
こういうのを

机上の空論

というんだと思います。
デートって、誰がするんですか。。という大問題を忘れてる。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
さて、マジカル広場で夢のお話がでてましたね。

夢はコントロールできる、というお話です。

西洋の心理学で精神分析に一役買っている夢。
東洋の神秘主義の中で重要な役割を果たす夢。

夢をめぐる思想は、西洋と東洋ではずいぶんちがいます。

夢をめぐるお話から、
現実についてもどう考えるか、
ここにもつながってきます。

現実を「夢のごとし」と見るのは
東洋の特徴かも。

夢を「見えざる現実」と分析するのは
西洋の特徴かも。

いろいろな考え方がでてきておもしろかったです。
=====================
で、
最近は、仏教思想の中に浸っているので

現実を、「夢のごとし」と見る思想に

慣れてきている管理人です。
空の立場では

ありのままの世界は
幻のごとく
陽炎のごとく
水中の月のごとく
虚空のごとく
こだまのごとく
陽炎のごとく
★夢のごとく★
影のごとく
鏡の中の像のごとく
変化(へんげ)のごとし

(『大智度論』より)

なのです。
=====================
一方、西洋の心理分析では、夢の判断は重要ですよね。
精神分析をしてくれる精神科医は、その分野のエキスパートです。

昨日読んでたスマリアンの自伝
『天才スマリアンのパラドックス人生』の中から

夢のネタを一つご紹介しましょう。
ジョークなのですが。。。。笑えるかな?

精神科医が話してくれた実話です。
ある女性患者が見た夢です。

見知らぬ男性が
彼女の家に入ってくる夢です。

ゆっくり階段を上がって
彼女の寝室に近づいてくる。
彼女は死ぬほどおびえて
あがってくる気配をうかがっています。

ついに、ドアが開いて
男が入ってきて
ベッドのそばに来て
かたわらに立ち、じっと彼女を見つめます。

彼女は、とうとう

「あなた、何しているの」

とおびえた声でたずねます。

男はこう言ったのです。

「お嬢さん、それはあんた次第だよ。
これは、あんたの夢なんだからな」

=====================
こりゃ~、西洋人なら、笑えますね、きっと。

でも、この笑いは何だろう。。。って、気もしてくる。

この話の中に何が入ってるんでしょうか。

精神科医は、彼女の無意識の領域を
夢の分析で、あぶり出してくれる。

そんな手法は、
そんな分析は、
正しいんだろうか、
ほんとうなんだろうか

って、いう、彼女の無意識が
男の言葉になったものだったら。。。。

=======================
彼女の夢(という現実)に試されてるのは、精神分析医。
=======================

一方、患者の彼女はどうでしょう?

夢を分析して、自分がどういう人間かを教えてもらう自分。
現実の自分は、夢を分析しないとわからない。
なのに、なのに、
夢の中でも、「これはあんたの夢なんだから」といわれてしまう。
夢にも、見放されてるのか?

いや、それとも、

夢は、しっかり、彼女自身の人生のあり方を示しているのか?

========================
自分の夢(という現実)に試されてるのは、女性患者自身
========================

うーん、笑ってる場合ですか。。。って気もしてきましたね。

いつまでも、夢の 夢を見てるんじゃない!

どうせなら見るなら、夢の 現実を見るんだ!

「お嬢さん!あんたの夢なんだから」という夢に
答えることが

貴方の本物の夢になる  by 東洋。。。。


(まぁ、一応決まったかな。これでアップしてみよ。。。。どぅかな?

でも、管理人、ゆめゆめ油断するなよ、夢に足下すくわれちゃうぞ)
だって、ほら!
001
 
 
 
 

 
 

ケーキが消えた。。。夢か?幻か? 


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コメント

>>逆説的かもしれませんが、何か、こういう達人がいると、この世から暴力沙汰ということがなくなるような気がしますね。
>達人は戦わない。

 前にも書きましたが、武術を極めた人の中には戦うことをやめなかった人もいます。
 でも、それが武道の本質であると言われれば、悲しむ人は多いでしょう。

> 真剣に戦う訓練を重ねて人を殺す最高の技術を体得しながら、戦わないことこそが究極の理想であると心から感じる人が、真の武道の達人です。

 あなたは武道を愛していないからこのように言うのです。
 同じことを仏教について言われればあなたは悲しむことでしょう。

 ちなみに私は武道を愛していませんので、悲しむことはありません。

「人が悲しむことを知る」が私の求めることです。

投稿 みみっく | 2008/04/14 22:06

>このおじさんと戦って死なない自信はないです。
 私は銃を持っている人と戦って死なない自信はありません。

 あなたの言う「人を殺す術」とは何でしょう?

「人を殺す威力がある技」というのであれば、包丁で刺せば人は死にます。
 

 けんかで人が死ぬことが少ないのは、殺すまでやらないからであって、殺せないからではありません。
 
 武術は本質的に、人を殺す技ではありません。

 それは自動車が人を殺す道具ではないことと同じです。

 人を殺す威力があるということと、人を殺す目的があるということは違うのです。

 銃は殺すための道具と言っていいでしょう。金属バットは殺すための道具ではありません。
 人を殺傷するのに十分な威力があるとしても。

投稿 みみっく | 2008/04/14 21:29

>逆説的かもしれませんが、何か、こういう達人がいると、この世から暴力沙汰ということがなくなるような気がしますね。

達人は戦わない。
さらに。
賢者も戦わない。

戦うのは、弱者か、愚者。

賢者に近づくことはできそうだ。

投稿 lightwind | 2008/04/14 20:35

lighitwindさま

みみっくさま以外に一名拝見してしまいました。

> 真剣に戦う訓練を重ねて人を殺す最高の技術を体得しながら、戦わないことこそが究極の理想であると心から感じる人が、真の武道の達人です。

まさに、このリンクしてある方のことですね。
逆説的かもしれませんが、何か、こういう達人がいると、この世から暴力沙汰ということがなくなるような気がしますね。

投稿 管理人エム | 2008/04/13 23:02

多分みみっくさんしか読んでくれないでしょうけど。

http://www.weshow.com/jp/p/32066/

このおじさんと戦って死なない自信はないです。

個人的には秘孔をついて倒すのが最強だと思いますが。

投稿 s改めlightwind | 2008/04/13 21:07

補足として
 
sさんの持つ武道の達人の技のイメージがわからないので質問させて下さい。

 真の武道の達人が体得した最高の人殺しの技とは、どのようなものを想定しているのでしょうか。

 背後から忍びよってナイフで頚動脈を断つような技ですか?
 それとも、一撃必殺の正拳突きでしょうか。
 あるいは、経絡秘孔を突いて相手を死に至らしめるような技でしょうか。
 それとも、気功や発勁でしょうか。

 私のイメージするのは、関節技や投げ技、当身技、あるいは、真剣白羽取りなどです。(これらが相手を無力化する技であることは明らかでしょう)

 以上です。 

投稿 みみっく | 2008/04/13 04:48

>敵に勝つという目的で始まった武道が、戦う意思を放棄するという地点にまで達するのです。
 敵に勝つのが目的なのはスポーツですよ。スポーツなら勝てば富と名声が手に入りますからね。
 何の利益もないのにわざわざ戦うのは愚か者でしかありません。スポーツでは人と戦って勝つことで利益が得られるのですから、相手に勝つことが目的になっても不思議はありません。戦場でも事情は同じです。敵将の首を取れば出世できるでしょう。

>真剣に戦う訓練を重ねて人を殺す最高の技術を体得しながら、戦わないことこそが究極の理想であると心から感じる人が、真の武道の達人です。
 戦わないことが理想ではないと思う人の方が珍しいと思うのですが・・・。抵抗を感じる人がいるとしたら、戦うことで利益を得たことがある人だけです。
 
 そもそも、武道家が体得するのは人を殺す技術ではありません。
 技術という点で考えるならば、「相手を無力化する術」と考えるべきです。
 格闘技を考えても、相手の腕を折れば勝ちでしょう。
 
 sさんのように考える人は珍しくありませんが、根本的に間違っています。
 人を殺す技術など存在しないのです。
 
 相手を無力化した後、殺す方法を考えればわかるでしょう。
 それが武道の本質だと言うのであれば、話は別ですが。

投稿 みみっく | 2008/04/12 18:25

自分の体のどの部分が何時動くのかという動きの起こりが漏れると、それを察知して対応できるだけの技量を有する使い手には必ず負けます。
動きの起こりが相手にばれる原因は、体の合理的な使い方が出来ていないことがまず第一ですが、たとえ訓練によって身体を合理的に使えるようになっても、もし心が特定の対象に囚われて居着けば、熟練者には必ず動きの起こりを察知され、斬られることになります。
したがってクリアすべき課題は、どのような危機的な事態が生じようともそれに囚われず、心が居着くことがないようにすることです(それが最強を目指すということです)。
武道の熟練者にとって本当に恐ろしいのは、心の修養を積んだ、透明で深い湖のような心の持ち主です。そのような相手はいかなる事態においても自らの身体を十全に運用し、動きの起こりを捉えさせることがないため、次に何をしてくるのか全く予測不可能だからです。一般的な感覚からすると、狂人は何をするかわからないので怖いとなりますが、武道の上級者にとっては、むしろ身体運用がとても稚拙なので対応しやすいようです。
心が対象に囚われて止まってしまうのは、「死の恐怖」があるからであり、「自己と自己に対立する敵がいる」という世界観があるからなので、心の修養とは、こいつを何とかするということになります。
たしか羽生善治さんも「相手は敵であり、同時に作品の共同制作者である」と言ってましたね。
このように最強を目指して相手は自己と対立するものではないという観念を突き詰めると、敵という概念が消え、戦うという意思が消失することになります。敵に勝つという目的で始まった武道が、戦う意思を放棄するという地点にまで達するのです。武道の自己否定とはこのことを意味します。武道の存在価値をマイナスに見るということではありませんので、念のため。
真剣に戦う訓練を重ねて人を殺す最高の技術を体得しながら、戦わないことこそが究極の理想であると心から感じる人が、真の武道の達人です。

投稿 s | 2008/04/12 13:40

>「木鶏」「猫の妙術」などでお馴染みのとおり、武道の完成は武道の自己否定を要請します。
 何故自己否定なのですか?
 戦う必要がなくなったら理想的でしょう。

>身体に居着きを生ぜしめ、敵に斬られることになる原因は、「守るべき我」「倒すべき相手」という観念にあり、最強を目指すなら「勝ちたい」という当初の動機を捨てなければならないということは、武道をある程度学んだ人には周知のことでしょう。そこで、自他の区別を無くそうと命がけで精進する人が「宗教的境地」を語るのはある意味で当然と言えます。
 何だかスポーツの話としか思えないですね。囲碁や将棋にも似たような話がありますよ。

>最強を目指すなら「勝ちたい」という当初の動機を捨てなければならないということは
 最強を目指すならば、ボクシングでも始めた方が現実的であると思いますけどね。世界チャンピオンになることが実際にできるわけだし。

>武道の稽古によって「自他の区別がない境地」に実際に到達できるかというと、はなはだ疑問です。それは仏教を学んでみると感じることなのですが・・・
「真剣に戦う訓練」は私も無駄だと思いますよ。相手が自分を殺すかもしれないという状況を設定して訓練するのは自己矛盾ですから。
 
「殺し合い」は目的にならないのです。(戦い自体が目的になることはありますが)
 
 たぶん「殺し合い」のイメージが私と違うのでしょうね。私のイメージは「襲ってくる狂気」ですけど、sさんは「正々堂々と斬りかかってくる相手」なのではありませんか?
 正々堂々と斬りかかってくる相手と戦うのはスポーツだと私は思いますけどね。

投稿 みみっく | 2008/04/12 11:02

管理人さま

申し訳ありませんが、もう少し伸ばしてみます。

みみっくさん

>武道の達人の話を読むと、最後は宗教的な境地に達するみたいですね。

「木鶏」「猫の妙術」などでお馴染みのとおり、武道の完成は武道の自己否定を要請します。
身体に居着きを生ぜしめ、敵に斬られることになる原因は、「守るべき我」「倒すべき相手」という観念にあり、最強を目指すなら「勝ちたい」という当初の動機を捨てなければならないということは、武道をある程度学んだ人には周知のことでしょう。そこで、自他の区別を無くそうと命がけで精進する人が「宗教的境地」を語るのはある意味で当然と言えます。
しかし理想は語れても、武道の稽古によって「自他の区別がない境地」に実際に到達できるかというと、はなはだ疑問です。それは仏教を学んでみると感じることなのですが・・・

えび天サンバさま
あわさにくさま

「私は必ず間違う」という言葉から連想したのは、ダンマパダ63

「もしも愚か者が、自ら愚かであることを考察するなら、すなわち賢者である。
愚か者でありながら自ら賢者だと思う人こそ、愚か者だといわれる。」

この偈にいう「愚か」とは、「他の人と比べて、私はアホである」というレベルの「愚かさ」ではなく、明確な根拠に基づいて「我々人間が」「本来」愚かであることに気付くことなのでしょうね。それゆえ、己を成長させる道が何かも見えてくるのでしょう。
新たな発見です。ありがとうございました。

ps管理人様
バガヴァッド・ギーターに挑戦してみます。以前にトライして積んどくになってます。bearing

投稿 s | 2008/04/11 21:32

>一般人からすればスーパーマンのような達人でも語り得なかった「生の超越」を語ったブッダの能力は、人間の想像を絶する高みにあると私には思えます。
 武道の達人の話を読むと、最後は宗教的な境地に達するみたいですね。

 武術だけを磨いた結果、悲惨な末路を迎えた人もいるようですが。

>たかがクルマごときに奴隷の様にあやつられ、心が亡んじゃっている、ミジメな、と感じました(←ちょっと大袈裟に記述してみました)。
 あわにさくさんがこんなことを書いておられますが、「武術」に奴隷のように操られ、心が亡んでしまったような人もいるようです。
 
 ちなみに本物の宗教家は「武道くらいできる」らしいですよ。(神通力と同じ扱いですね)

投稿 みみっく | 2008/04/11 04:27

あわにさくさま

「赤つっこみぶざまどまり」とは、ちょっと長いかなと思いましたが、言ってみると、ほんと語呂がよくて気になりませんね。流行るかもです(笑)。 car

えび天サンバさま

いっそう前進ですね。「わたしは必ず間違う」は、覚悟の決まった潔さがありますね。すばらしい!

投稿 管理人エム | 2008/04/10 18:29

えぇ、さあ皆様も、「「あかつっこみぶざまどまり」はみっともない、やめませう」と(笑い) まあ、運ちゃんにしてみますれば、うしろからあおられたり、オカマほられたりするのを、怖がり怯えてってのも(無自覚にしろ)ある為でしょうから、オカワイソーにと申しませうか、気の毒と同情できない訳ではありません。それに、私も日頃の通勤時、混雑する朝の品川駅構内などで、感心しない一動や一投足なぞ、しなかったでもない。というより、相当して来たな。気を付けませう。
と、以上は拙者が前々から言いたかった愚痴を、さらに重ねて言いつのってみただけの話ですけれども、勝手なコメント、重ね重ね申し訳ありません。

投稿 あわにさく | 2008/04/10 16:53

えび天サンバさま

名前間違えました。失礼しました。

投稿 あわにさく | 2008/04/10 14:20

エビ天サンバさま

いわゆる横レス、失礼致します。

「わたし=自我=エゴ」と致しまして、「「わたし」は、必然的に間違う。」は、至言(物事の本質を適切に言い表した言葉)ではないでしょうか。ありがとうございます。

投稿 あわにさく | 2008/04/10 14:18

エム先生

記録的な伸びを示している今回のコメント欄に、更に一つ加えてみます。(笑)

先生の「わたしは正しくない」を、「「わたし」は、必然的に間違う」という風に捉え直しますと、すっきりと仏教的立場が浮かび上がってくるのではないか、と改めて思いました。このことで十善戒だけはなんとか取り組めそうな気がします。感謝です。

投稿 えび天サンバ | 2008/04/10 13:57

「心を亡ぼす」と書いて「忙しい」。とは、よくかたられる話ですが、先ほど青信号の横断歩道上の拙者の前をすり抜けたクルマの運ちゃんに、たかがクルマごときに奴隷の様にあやつられ、心が亡んじゃっている、ミジメな、と感じました(←ちょっと大袈裟に記述してみました)。しかし、近年は信号のある横断歩道で「赤突っ込みブザマ止まり」なクルマを目にすることが多い。ただし、「赤突っ込みブザマ止まり」というのは標語として流行らせたいと思っているのですけれども、ハイ、「あかつっこみぶざまどまり」、語呂はいいと思うが(笑い)
と、以上は拙者が前々から言いたかった愚痴を言いつのってみただけの話ですけれども、それはともかくと致しまして、みみっくさまによる
>武道にも、勢いを利用して人を投げたりするのは駄目だという考え方があるということなんですけどね。
は、わたくしは武道修行者ではありませんけれども、慣用句を用いて言いますれば、「思わず膝を打つ」でした。

投稿 あわにさく | 2008/04/10 12:47

sさま

ほんと伸びますね、このコメント欄(笑)。

> 武士が坐禅を組んだのも、我を張るなかれという教えが仏教に通ずるからでしょう。

クシャトリア(王族・戦士階級)のゴータマも、若い頃、お父さんと瞑想した経験を語っていますね。

ヨーガ・禅定の伝統は、もともとアーリア人のものではなかったろうとか、いろいろいわれていますが、これらを熱心に行った人は、沙門たち修行者のほかにも、クシャトリアなども、そうだったかなと思います。はっきり文献的には出てこないのですが、そう思わせる要素はいろいろあります。
武士のたしなみ的なものとも考えられますでしょうか。

勝負に勝って生きることの意味を問うたのは、アルジュナ王子ですね。『バガヴァッド・ギーター』を思い出しました。。。sさま、深いお話をどうもありがとうございます。

投稿 管理人エム | 2008/04/10 08:52

みみっくさん

月は無心にして水に移り,水は無心にして月を写す。内に邪念を為さずば,事能く外に正し。(一刀斎)

生死を賭した戦いの場では、自我を出した者が命を失うことが経験的に知られているために、勝負の極意は自我を機能させないことだと言われます。
武士が坐禅を組んだのも、我を張るなかれという教えが仏教に通ずるからでしょう。
現代にも武道の達人はおられますが、その卓越した能力には尊敬の念を禁じえません。古の達人は、死が身近にあった分、おそらくもっと優れていたでしょう。

しかし、そんな彼らでも、「勝負に勝って生き延びることに、一体どんな意味があるのか?」という問いには答えることができない。いかに生き延びるか、が最大のテーマなんだから。

一般人からすればスーパーマンのような達人でも語り得なかった「生の超越」を語ったブッダの能力は、人間の想像を絶する高みにあると私には思えます。

投稿 s | 2008/04/09 20:41

エムさんへ
>> 「恐れと願望が同じである」ってところじゃないですか?
>根っこは同じということですか。。。フロイト流かな。

 受け入れる準備ができていないと恐怖ですが、準備ができていると願望なんですよ。
 
 例えば「死」も受け入れる準備ができている人にとっては願望であり、準備ができていない人には恐怖でしょう。「昇進」とか「幸福」でも、あるいは「不幸」でも同じことです。

>うーん、この話に関していうなら、逆も、ありかなと。。。

>「何をするのか」は自分次第で
>「何をしているのか」はだれかの解釈

 行動を起こした人と解釈する人は別であるということですかね。

えび天サンバさんへ

>恐れと願望が同じである、と見える地点というのは、確かにありそうですね。
 私の言いたいこととは違いますが、そうかもしれませんね。

 sさんへ

http://www.j-theravada.net/kogi/kogi47.html
>一旦停止さえすれば、極論を言えば、人をぶん殴ってもいいのです。ぶん殴りたくなって、ちょっと待てと考え、それから殴るなら、ほとんどトラブルにはならないはずです。
 徹底した考え方ですね。全くその通りだと思います。

 武道でも「止まる」ということを言っている人がいるようです。
 私が教わった人は「つかむ」と言っていましたけど、意味は同じようなことだと思います。

 武道にも、勢いを利用して人を投げたりするのは駄目だという考え方があるということなんですけどね。  

投稿 みみっく | 2008/04/09 02:07

管理人様

感想ありがとうございます。

>というか、長老さまはブッダ論理の実践者だったのね。

そうみたいです。「論理」は「因縁」なんで。

えび天サンバ様

善を備えた心の状態を、感覚的に体得できればいいのですが・・・一歩づつ近づくしかないですね。

投稿 s | 2008/04/08 23:25

エム先生、sさま

とても興味深い話題です。
スマ長老のお話(一旦停止)も含めて、戒というものの基本的な考え方を教えてくれているように思います。「正しいわたし&正しくないわたし」とは何か?と問う時に、行為における正しさへの一つの指針、基本的な枠組みとして、参照できる戒を同時に持っていると、できの悪い私でも、何とか間違わずに済みそうな気がします。たいへん勇気付けられます。ありがとうございました。

投稿 えび天サンバ | 2008/04/08 21:51

sさま

これ!!っってぇ、わたしの実践とほぼ同じようなもんですぅ。

自動的にまちがうわたしは、行為をするとき、必ず考えて自分の過ちを訂正しなければならないので、必然的に「一旦停止」するんです。

このスマさまのお話でも、たいてい最初にしようという行為とは反対のことをしていますよね。
また、ここでは書いてませんが、選んでする行為には、いくつかヴァリエーションがあって、どれを選ぶかはその人次第のところもあるんです。。。先を越されました。。。修行が足らんです、失礼しました。。。というか、長老さまはブッダ論理の実践者だったのね。
coldsweats02

投稿 管理人エム | 2008/04/08 20:41

管理人様

芽が出たばかりのネタを見せて下さりありがとうございます。
私の知恵を超えています。

ところで、

>では、もっと具体的に、心を守る方法を考えてみましょう。
ひとつ、ものすごく簡単な方法があります。
「一旦停止」という方法です。
それだけでかなり人生はうまくいきます。

catface はて、一旦停止ってなんじゃらホイ、と疑問に思われましたら、以下。

http://www.j-theravada.net/kogi/kogi47.html

感想をお聞かせ下さい。

投稿 s | 2008/04/08 20:18

sさま

> 論理的に詰めて考えるって・・・
> どーゆー意味でしょうか。

いつかどこかに書く機会がないかなと思っているものなので、簡単にお話しますね。論理的な点を実践的に話してみます。

これは、じつはけっこう自分でも心がけているんです。
えび天サンバさまにお話ししたように「わたしはまちがっている」を自分の公理にしてしまうんです。
そうすると、何かしようとすると必ず自分はまちがうことになりますよね。論理として。問答無用にまちがうわけです。

で、やっぱりまちがいたくないので、思ったことと反対のことか、または、それを否定するような内容のことを選んでするんです。
これ、書いたら、みなさまに笑われるかなと思って止めてたんですけど、お尋ねになったので、仕方なく(笑)お話ししてます。実験中なんです。

オートマチックにできます。たとえば、早く行きたいので前の人を押しのけたい、という欲求がわいたら、それはまちがいだと思って、それをしないようにするとか、です。

いつも、公理を意識して、何か行動を起こすとき、必ず公理を否定するような方向でいくんです。

他にも、いろいろ論理的な実践もあるんですけど、今、実験段階なのでお話はちょっと。。

こうすると無我の修行で、行き詰まっても、大丈夫ぃ、なんですよ。

で、効果はどうかといいますと。。。うーん、完璧にできれば、すごいと思いますが、ときどき混乱するんで、まぁ、ぼちぼちでんな、というところでした。 happy02

投稿 管理人エム | 2008/04/08 19:21

えび天サンバ様

仰るとおり、ブッダにとって体の病を治すことは朝飯前でしたでしょうし、肉体の健康は心の健康の副産物でしょうが、あくまで「医王」とは喩えだと理解しています。
比丘たちには治療行為を厳禁されていたそうです。
正念を実践するごとに薬を一粒飲むのだという喩えもあります。

投稿 s | 2008/04/08 18:26

管理人様

>この命題は、はっきりと論理的に詰めて考えることができます。そして、そこから仏教的な立場が浮かび上がってきますので、ここを確実に認識していけば、簡単なんです。。。理屈では(汗)。

気になりますねぇsweat02
仏教的な立場とは「私とは何か?」の探求だと理解しておりますが、論理的に詰めて考えるって・・・
どーゆー意味でしょうか。

投稿 s | 2008/04/08 18:17

エム先生

実践問題というのは、自転車に乗る練習のようなものと考えると、望みが沸くのではないかと思います。ちょっと楽天的過ぎるかも。。

投稿 えび天サンバ | 2008/04/08 17:24

えび天サンバさま

いいところに目をつけていただきまして、ありがとうございます。

> 論理的領域ではいつも公正な判断基準として、テーゼを杖のようなものとして認識することはできそうですね。

そうなんですよ。この命題は、はっきりと論理的に詰めて考えることができます。そして、そこから仏教的な立場が浮かび上がってきますので、ここを確実に認識していけば、簡単なんです。。。理屈では(汗)。

> わたしは正しくない、を、少々使い勝手も考えまして、正しいわたしとは何か?位にするのがいいのではないでしょうか。

ごまかさずに正直に自分を見られる人なら、いいかもしれませんね。すぐひよっちゃう人は、「正しくないわたしとは何か?」もあわせて考えることにするといいかな。。。けっきょく、実践段階で問題が出てくるんですねぇ。はぁ。ため息が出るのがかなしい(笑)。

投稿 管理人エム | 2008/04/08 13:38

エム先生

わたしは正しくない、というテーゼを持つことは確かに困難ですよね。せいぜい、わたしはいつも正しいとは限らない、位が関の山でしょうか。これから後は情熱の世界、大乗菩薩や出家者、宗教者の領域となって、研鑽の度合いが高まって行くのでしょう。しかし、論理的領域ではいつも公正な判断基準として、テーゼを杖のようなものとして認識することはできそうですね。わたしは正しくない、を、少々使い勝手も考えまして、正しいわたしとは何か?位にするのがいいのではないでしょうか。

投稿 えび天サンバ | 2008/04/08 12:23

つくつくさま

雑念や妄想は食生活では減らない、いやまったく、仰るとおりですね。それらを楽しむことができればなんら問題はないのでしょうが、気がつくと支配されていたりする(笑)。ここらあたりですよね。仏教は私には十善戒位が相応しいと思っていますが、これもなかなか(汗)。。(ポタポタ・・)

sさま

ブッダが医王である、というのは喩えではなくて、実際の話なんでしょうね。ただ、健康になったりするのは副産物なんでしょうけれど。いやはや、これもまったく奥が深いです。

みみっくさま

なんら願望がない、ということが健康である、ということであると仮にしますと、自分が病気であるということを認識したくない、というのは恐れからであり、健康になりたい、という願望を抱けるということは、自分が病気である、という認識を抱けた、つまり、恐れを受容することができた、ということになろうかと思います。恐れと願望が同じである、と見える地点というのは、確かにありそうですね。

投稿 えび天サンバ | 2008/04/08 11:22

sさま

> 「この問題の原因は私にはなく、他にある。私は正しい」と考えるのが人間の本能だと聞きました。

これ!です。これを「無明」とブッダは呼んだのではないでしょうか。

しかし、これを否定する文(=わたしは正しくない)を、テーゼとして自分がもつというのは、並大抵じゃない。。。。

投稿 管理人エム | 2008/04/08 08:57

みみっくさま

> 「恐れと願望が同じである」ってところじゃないですか?

根っこは同じということですか。。。フロイト流かな。

> 「何をするのか」は自分次第というわけにはいきませんが、「何をしているのか」は自分の解釈次第ではありませんか?

うーん、この話に関していうなら、逆も、ありかなと。。。

「何をするのか」は自分次第で
「何をしているのか」はだれかの解釈

しかし、こんがらがってきますね。

>  あるいは、「三人でデートしている人はたくさんいる」でもいいですけどね(笑)。

それは、さびしすぎる。。。ロマンのかけらもないす(笑)。


投稿 管理人エム | 2008/04/08 08:42

創造主を求める心性、或いは悪魔を信じる心性は、問題の責任を自分以外の他者に転嫁する心性から生ずるようです。
暴動の原因をダライラマに帰する中国政府に限らず、「この問題の原因は私にはなく、他にある。私は正しい」と考えるのが人間の本能だと聞きました。

投稿 s | 2008/04/08 05:49

>こりゃ~、西洋人なら、笑えますね、きっと。
 私も笑いましたけどね(笑)。

>でも、この笑いは何だろう。。。って、気もしてくる。

「恐れと願望が同じである」ってところじゃないですか?

>見知らぬ男性が彼女の寝室に近づいてくる。
> 彼女は死ぬほどおびえて
>「あなた、何しているの」
> 「お嬢さん、それはあんた次第だよ。
 
「真実を言い表している」と私は思いましたけどね。

 男性が女性の寝室で何をするのかは、女性次第というわけにはいかないでしょうが、
 男性が女性の寝室で何をしているのかは、女性の解釈次第なんですよ。

「暴力」なのか、「死の恐怖」なのか、「本能」なのか、「遊戯」なのか、「役割」なのか。
「仕方ない」ことなのか、「待ち望んでいた」ことなのか、「許せない」ことなのか、「喜ばしい」ことなのか。

「避けるべきこと」という考え方もありますね(笑)。

 寝室に限らなくても、
「何をするのか」は自分次第というわけにはいきませんが、「何をしているのか」は自分の解釈次第ではありませんか?

>ケーキが消えた。。。夢か?幻か? 
 ケーキが消えた理由も本人の解釈次第です。

>先日、親子三人でケーキ屋さんに行ってケーキを食べました。
「デートがうまく行ったから三人になった」という解釈はいかがですか?

 あるいは、「三人でデートしている人はたくさんいる」でもいいですけどね(笑)。

投稿 みみっく | 2008/04/08 03:51

えび天サンバ様

こころが清らかであれば体も輝くと聞いたことがあります。
ブッダの身体は天まで芳しく香ったとか。
想像をはるかに超えてますが、肉体を含む世界をこころが形成していることは、どうやら確かだと感じます。

投稿 s | 2008/04/08 00:25

えび天サンバさま
この8ヶ月程、わたしも朝は水だけです。
んでもって、午前中は水か珈琲一杯って感じです。
珈琲もやめようかとも思うんですが、こちらは中々。
胃はよくわかりませんが、腸の調子は超よくなりました。

なお、同時に食生活を玄米や発芽玄米中心に変えたところ、8ヶ月で9Kg程減量できてしまいました。
摂取カロリーがそれほど減ったわけではないんですけどね。
一方、雑念と妄想は食生活ではちっとも減りません。(アタリマエ

投稿 つくつく | 2008/04/07 23:40

sさま

> 害意のない、敵意のない心と、無量無辺の慈しみの心とが同義であるとやっと気付いた愚か者です。

あ。。。、ほんとですね。。。。わたしも、今気がつきました。 coldsweats01

投稿 管理人エム | 2008/04/07 23:39

sさま

いやどうも。ところで、お話は、あらゆる精神的身体的病と敵意との関連性について考えさせられますね。生活が敵意に浸されていれば浄化作用とは逆の方向へ進むということになるんでしょう。
いやホント、事は意味深長で重大です。

エム先生

見ているだけなら、うん、なんとかなりそうだ(笑)。

投稿 えび天サンバ | 2008/04/07 23:36

えび天サンバさま

どーぞどぞ。光栄です。

管理人様

>思うだけで、世界がどんどん変わっていきますものね。

本当に仰るとおりです。
害意のない、敵意のない心と、無量無辺の慈しみの心とが同義であるとやっと気付いた愚か者です。

投稿 s | 2008/04/07 23:17

春間さま

しまった、欲ばりの正体見破られました。

ごめんなさい、ごめんなさい、一つの夢にします。

The whole dream comes true....

。。。単数だから、許して。

投稿 管理人エム | 2008/04/07 22:47

えび天サンバさま

あ、胃腸のためだったのですか。ふうむ、快調なんですか。。。わたしも、やってみようかな。よく水を飲むのは、とにかく体にいいそうですから。

バクティの道は、お祈りしている人を見るだけでも、効果がありそうな気がしてきます、わたしの場合(笑)。

日々に祈りを捧げる人を見ていると、なんとなく癒されてくるんです。
えび天サンバさまも、この辺から、どうでしょう?

投稿 管理人エム | 2008/04/07 22:38

sさま

> 「天下無敵」に至る道を知ったと、こころが震えました。

これまたすばらしい。無敵を知るsさまのこころが、また、すばらしい。

いってみれば、震える心は、「いざゆかん」という武者震いにつうじていきますね。

天下無敵の菩薩道。。畏れ知らないsの道note。。。ちょっと歌になっちゃった、すみません。

でも、仏教って、ほんといいですね。
思うだけで、世界がどんどん変わっていきますものね。

投稿 管理人エム | 2008/04/07 22:29

>Dreams come true
欲張りですね
present
Dreams come true という
Dream comes true
Dream ひとつで 我慢です !

投稿 春間 則廣 | 2008/04/07 22:26

sさま

>byブッダ(たぶん)

これ、面白いです。いろいろと使えそうですね。いただきます(笑)。合掌

投稿 えび天サンバ | 2008/04/07 22:03

エム先生
水攻めは胃腸の方でして、胃腸を干す時間を作ると健康になるという一種のダイエット法なのです。はじめてから半年以上になりますが、結構、快調です。いままでずいぶん貪ってきましたので。で、これからはバクティ、う~む、これはでも相当厳しそうですね。。(無理無理という声が・・(笑))

投稿 えび天サンバ | 2008/04/07 21:50

確かに。

関連して、
己の心に敵意がなければ、敵は存在しない。

この言葉を聞いた時、「天下無敵」に至る道を知ったと、こころが震えました。

実践は優しくないですが、これぞ菩薩道ってやつですよね。

投稿 s | 2008/04/07 21:23

sさま

おお!すばらしい。sさまもただ者じゃないっすよ。

> 己の心を変えれば、世界は、変わる。

> byブッダ(たぶん)

このブッダさまさまのおことばにあわせて、管理人も行ってみよう。。

これを、何というか!さぁ、いけ、管理人!

Dreams come true...あ、しらけないで!

投稿 管理人エム | 2008/04/07 20:47

えび天サンバさま

やっぱり、朝はコーヒーがなくちゃ、目が覚めません。。水攻め。。。でも、目は覚めるかな(笑)。

> 祈るという行為を生涯のうちに一度でも習うことができれば、精神的な危機の大半は乗り越えられるのではないだろうかと考えたりします。

「祈る」は、絶大な癒しですね。
「自己をゆだねる」とか「自己を投げ出す」とかまでできるなら、ほんとうに苦しみなく幸せなんだろうと思います。
そこまでは、とてもできないから現代人はは、自己治癒の方法をあれこれ探し求めるんでしょうね。

インドの思想に、神様に身も心もささげ尽くすという意味をもつ「信愛(バクティ)」という言葉があります。
おそれることも何もなく、赤ん坊がお母さんに抱かれるように、神に身をささげ祈っている人を見ると、インドは、なんて幸せな国なんだろうと思わずにはいられません。

投稿 管理人エム | 2008/04/07 20:40

「天才」というだけあって、スマリアン、タダ者じゃないっす。

私たちは「エゴ」という幻想に閉じ込められていて、現実を生きているつもりだが、実態は夢の中にいるに等しい。

幻想は苦であり、苦の作者は己の心。

己の心を変えれば、世界は、変わる。

byブッダ(たぶん)

投稿 S | 2008/04/07 19:56

ケーキは二人で、朝食はティファニーで。ちなみに私は朝抜き派で、朝は水攻め&コーヒー中毒患者になります(笑)。
ところで、セラピーや精神分析などに関心を持つ人は、その動機が自己治癒の必要性からはじまる場合が一般的です。大方私自身もそのジャンルに属しますが、昨今の老若男女の自殺者については、特にいろいろと考えさせられます。自己治癒に関して、苦しい時の神頼み、という言葉がありますが、なりたい自分と、現実の自分との間の分裂を認識し、苦しみを受容し、分裂を統合していく方法として、祈るという行為を生涯のうちに一度でも習うことができれば、精神的な危機の大半は乗り越えられるのではないだろうかと考えたりします。夢に関しても、悪夢に悩まされる、というのはやはり苦しいだろうと思います。夢を覚えている場合が非常に少ないので、今のところ事なきを得ていますが。

投稿 えび天サンバ | 2008/04/07 18:05

春間さま

> 見本と実物の大きさ(小ささ)が違いますね

ああっ!ほんとだ!これが、夢と現実の差か。。さびしい。

じつは、わたしも、甘いものは、それほど得手ではないんです。
紅茶があるから、食べられるけど。

> やっぱりケーキは”二人 で”食べなくちゃ !

三人だった。。。。誰が余分なのかな、っていう問題ではない。。。ここも、さびしい。

> チョコレートのほうが好きだから、”独りで”買って食べています

独り。。ですね。。チョコっと、さびしい。
ま、とりあえず、お茶でも。。cafe

投稿 管理人エム | 2008/04/07 15:54

見本と実物の大きさ(小ささ)が違いますね

http://gourmet.yahoo.co.jp/0006710375/M0001011037/

最近は、ケーキと、すっかり御無沙汰です

( デートと、御無沙汰なのかな、、、、 )

やっぱりケーキは”二人 で”食べなくちゃ !

ケーキより、チョコの方が好みだな、、、
(チョコレートのほうが好きだから、”独りで”買って食べています)
( ビターが好みです )

( 単なる、独り言です 、、、、)

投稿 春間 則廣 | 2008/04/07 14:49

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