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2008/04/27

沈黙は金、一言は禁。

どうもねぇ、
なんとなく納得いかないですねぇ。

何が?

さくら です。

何で?

今ひとつきれいじゃない。。。

003

 
 
  

 

や、きれいはきれいなんですよ。。。
でも。。。 
004
 
 
 
 
 
 
存在感がうすいのよ。。。でしょ?
どう思う?この写真。

だから、ついつい、さくらばかり撮ってしまう。。
なぜだろう、って思いながら。

「時機」 じゃないときに咲いたからかしらね。

少し 早すぎた のかも。。。ね。

などと、おしゃべりついでに

ぶっきょ の話でも。。。

こっちに話をふってしまおう。

さて、さて、ぶっきょは、どうでしょうか?

存在感が  。。。  うすい、ってことはないですよね。

だけど

濃い  って、こともないです。

ブッダ、とか
諸行無常、とか
一切皆苦、とか
一切皆空、とか
諸法無我、とか

いってれば、ぶっきょ、みたいに見えてくる。

仏教の用語を語ると、ぶっきょになりそう。。

だけど、そんなに甘いもんではないことを
ぶっきょ、を、ちょっと、べんきょした人なら
すぐわかる。

仏教の用語を出せば出すほど
ぶっきょから、遠ざかる

という、
かなしいケースも出てくるのです。

じゃ、何がぶっきょで、どう語るとぶっきょになるのか?

それは、これじゃないかと、思います。

最近、ずっと、脳裏に巣くっていて
出て行かないことばです。

========================

それ故に、真実には、寂滅(涅槃)によって、
この世界が無に帰するのではありません。
(したがって)勝利者は
「この世界には終わりがあるのか」
と問われたとき、沈黙されました。

 
諸仏は、この深淵な法を、
(理解する)器でない人びとには説かれなかったという
まさにその理由によって、
全知者(仏陀)は真に全知者である、と知られるのです。

 (瓜生津隆真先生訳『宝行王正論』1.73,74)
========================

器でない人には語らない。。。な~る。。。

ぶっきょ というのは、語る 「時機」 をはずすと
ぶっきょ でなくなる

という、おそろしく
あぶないもの
であるように思われます。。。

■語る内容は、 聞く人の器に応じているとき
ぶっきょ となり
■語る内容が、聞く人の器に応じていないとき
ぶっきょ からはずれてしまう

だから、ブッダのように沈黙によって答えることも

ときには

当然、答えになる。。じゃ、もう一度、引用するよ

========================
それ故に、真実には、寂滅(涅槃)によって、
この世界が無に帰するのではありません。
(したがって)勝利者は
「この世界には終わりがあるのか」
と問われたとき、沈黙されました。

 (瓜生津隆真先生訳『宝行王正論』1.73)
========================

★ブッダの沈黙は、一切智者のあかし。。。☆

答えるな!時機でなければ!


★しゃべりすぎるのは、愚か者のしるし。。。☆

適切に答えよ!時機をのがさず!


ああ、かっこよく決まったわねぇ。。。だけと、
だけど
「その時機」って、いつなのかしら??


管理人!この一言が、ねぇ。。オチで落ちました。。なはは。

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コメント

たか 様
管理人 エム 様

なにゆえに、
そこにアートマンが現れるのか

そこを、よく考えてみてください

このことは、理屈からもわかることです
(少なくとも、ブッダはそこを見ています)

“自らと、他との違い” をみるとき
その心の起こるところは
いつも、(必ず)同じところです
なにゆえに、
そこにアートマンが現れるのか

美醜、快不快 というような、感情の世界においても
善悪、良否 という、理の世界においても、、、、

ひるがえって、自他不二という考え方を
心の基準に持って物事を見てください
その時、そこに、
ブッダが、残した言葉
“自らをディーパとして”という言葉が起きてきます

自分という我執に囚われるということは
人間の認識形態の仕組みによるのですが
そこを見つめ、直しつつ生きていくことが、
善なるものを求めることで、
修行と悟りが共にあるところです

投稿 春間 則廣 | 2008/05/06 07:24

管理人様、春間様、アドバイスに感謝します。

 確かに自分と他人は同じ人間ですから、まったく違う存在ではないですね。
 多少は違うかもしれませんが。

投稿 たか | 2008/05/05 22:35

たかさま

春間さまは唯識で行きましたね。じゃ、管理人は喩物論的発想に乗ってみます。

一つの物理的行為によって引き起こされる感情(心)は、類似している、というのも成り立ちせんか。

ナイフをもってせまってくると恐怖を感じるのは、他の人でも自分でも起こるのではないでしょうか。

> 物理的行為の場合は心と違い、「他人がどうであるかは自分がどうであるかである」ことは成り立ちません。

物理的な行為を通して見ると、他人の心と自分の心は、案外通じ合ったりしないでしょうか。
たとえばシンクロナイズドスイミングのメンバーはピッタリ息があったとき、互いに心が通うかな。ちょっと極端な例でした(笑)。
また、肉体の組成が似ているなら、心も似ている。。。さすがにちょっとウソっぽいです。

投稿 管理人エム | 2008/05/05 19:27

たか 様

とてもよい方向に
認識を運んでいっていますね

ただ、他人が人を殺すという出来事を、
他人の範疇に入れれば、
(あなたの)物理的現実は、
(価値を決定する)
アートマンを形作りつつ
自らの認識として、
“ヒトゴト”となります

華厳などの重々帝網という概念、
一即多という認識方法を自らのものとすれば、
自らが作っていない現実は、
“どこにも存在していない”ことになります

この世界は、自らのすべてであり
自らは、世界の一部です

この事を、仏教では自他不二と呼びます

投稿 春間 則廣 | 2008/05/05 08:34

管理人様、春間様、貴重なアドバイスをありがとうございます。

 私が学生時代、悩んだのが自他との区別であり、たどりついたのが、結局、もともと学んでいた物心二元論でした。

 他人の心を認識する場合、自分の心を通してそれを認識します。
 ですから、自分の心にないものは、たとえ他人の心にその心があっても自分は認識することができません。
 逆に言うと他人の心にないものでも、自分の心にあれば、それを他人の心と認識してしまうこともあります。
 心を表す他人の言葉も例外ではなく、自分にその心がなければ、その言葉は理解できませんし、その言葉を使うこともできません。
 つまり、心理的には他人がどうみえるかは自分がどうであるかだと思います。
 そのことに例外がないことをあらわしたのが、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一性だと思います。
 ですから、自分が他人に善意をもてば他人の善意を感じられますし、それが自分の心の安らぎとなると思います。
 逆に自分が他人に悪意をもてば他人からの悪意を感じ、自分の心が乱れると思います。

 ここまでは大学生のとき思っていたことですが、唯物論の「存在は本源的に意識を規定する」という命題を教授に教えられて考えを少し修正しました。
 例えば、ニュースで殺人を報道された場合、自分が殺人をしたことがなくても、殺人を認識できます。
 それが物理的行為だからです。
ですから、物理的行為の場合は心と違い、「他人がどうであるかは自分がどうであるかである」ことは成り立ちません。
 ですから、自分が物自体(他人の心)を認識できない存在であるならば、自他の区別は物理的行為や物理的なものであると考えたのです。

投稿 たか | 2008/05/04 23:24

たかさま

お久しぶりですね。
そうですか、社会人になられましたか。

連休で英気を養って、社会人生活、これからもがんばってください。

「偽善も善なり」

これ、相手次第というところもありましょうか。
偽善で行ったことを、相手の人が純真に善からと受け止めて、ほんとに心から感謝されて。。。で、引っ込みつかなくなって、なんとなくいい人になっちゃった。。って、展開、映画とか物語にありそうですね。
だから、慣れないことはしない方が。。。いやいや、これでいいんだ。。終わりよければすべて善し。。かな?

投稿 管理人エム | 2008/05/04 14:46

たか様、はじめまして

“善“ が あって 、”行動“ が ” それに “合致する” のではなく
“行動” が あって 、それに対して、善 という“認識が(個人の心に)おこる”ということです
その認識は(善)は、あくまでも、認識者の実践の(中でのみの)規定です
善の規定が、不全であれば、善が、偽善となることもあり
偽善を一生涯続けることが、善となる(である)とも言い得ます
(一度のみでも同じことです)

偽善の中に、安らぎを見つけようとしていることと、
安らぎが見つかることとは、まったく世界が違うことです
違う世界を(違う世界にいる)貴方が、不全なる考察を起こすところに
問題が起き上がってきます

投稿 春間 則廣 | 2008/05/03 07:54

 管理人様 おひさしぶりです。
私もようやく今年、大学院を卒業して、社会人になりました。

春間様、はじめまして。

「偽善も善なり」という言葉がありますが、心と物理的行動は違うと思うのです。
 たとえ、尊敬されるためや物理的見返りを求めて偽善を行っても、それで助かる人はいます。
 たとえば、震災で本当に生活に困っている人にお金を寄付をすれば助かる人もいます。
 たとえ、それが自分自身の名誉のためであっても、それが物理的行為だからです。
 ただ、偽善によって自分自身の心の安らぎは得られませんが。

投稿 たか | 2008/05/03 00:00

わかりました。 
貴方が正しく「自らを見つめる」ことができるよう念じておきます。

投稿 LIGHTWIND | 2008/04/30 10:04

「その言葉が、口先だけになっているかどうか」

(そのことを見つめていないあなたです)

一生涯、(自らに)問い続けて行くことが、ブッダの教える善なることです

他者の中に(上に)しか、自分は見えません

投稿 春間 則廣 | 2008/04/30 07:13

わかりました。 
自らを見つめるだけでは足りないかも知れませんね。

投稿 LIGHTWIND | 2008/04/29 23:56

それを(その疑問を発するところを)見つめることが、
自らを見つめることで、
慈しみがない事を自らに見つめることが自らで、
慈しみが有ると誤謬する自らを見つめることが自らです
自らは見つめることにより、自らとなって行きます

投稿 春間 則廣 | 2008/04/29 22:18

貴方の言う「自ら」とは何ですか? 
自らを見つめるとき、同時に他の生命への慈しみはありますか?

投稿 LIGHTWIND | 2008/04/29 21:35

自らを見つめ、見つめ
見つめなさい

投稿 春間 則廣 | 2008/04/29 20:05

春間様 

社会的奉仕を成しつつ、心の汚れを除くこと。 
これを机上の理論だとおっしゃるなら、より具体的現実的な指針を示すのがブッダ論理に適っています。

投稿 LIGHTWIND | 2008/04/29 19:37

lightwind 様

>生命との関わりは、社会的側面と精神的側面とに分けた方がよいようです

切り離して考察することはできなくはありませんが。
通常は机上の理論となります(あなたの場合ように)

“犀の角のようにただ一人歩め”という言葉は、
あなたの今の段階では理解にほど遠い言葉です
比丘たちに、最も強く、よくよく諭された言葉です
そこがすべての根源なのです
わかっているような言葉の中に、
あなたの踏み入ったことがない世界も
“有り得る”とだけ聞き流してください

投稿 春間 則廣 | 2008/04/29 16:31

春間様 

生命との関わりは、社会的側面と精神的側面とに分けた方がよいようです。 
我々の現状は、いずれの面においても相互に、或いは一方的に依存した状態ですが、ブッダが説かれたのは、前者においては正しくお互いに依存し合い(助け合い)、後者の面において精神的に独立することだと考えています。
精神の独立とは、他者への愛着から離れることはもちろん、他者からの承認さえ求めないことであり、
“犀の角のようにただ一人歩め”
という詩句で表現される境地のことです。

「心は知恵を縛る縄」が、生命とどう関係するのかは、よく解りません。

投稿 LIGHTWIND | 2008/04/29 10:38

lightwind 様

>生命との関わりから如何に脱出するかの努力を知恵の育成と捉える立場もあります。

それは無断な(mudana)努力になりそうですね
生きてるうちは、脱出はできません
お釈迦様の手の内にあるからです

生命との関わりの中に、自ら進んで埋没し、一体となって、
只管生きるしかないでしょう

抜けようとする心に、塀が建ちます
(その心が、自らを縛る鎖です)
仏陀は、心(mano)を、
智慧(軛と鋤)を縛る縄と喩えました

あなたの文章では、その意味からみると、
ちぐはぐになりませんか ?

投稿 春間 則廣 | 2008/04/29 00:10

管理人様 

覚者が生命と関わるとき、何も見返りは求めない。これを他者主体と呼ぶことに異論はありません。 

悟るこころの対象は、生命ではなく無常たる現象である、という立場はご存知でしょうし、手のひらの上だったようです。  

春間様 

おっしゃるように生きることは生命と仲良くすることでしかないことを認めつつ、生命との関わりから如何に脱出するかの努力を知恵の育成と捉える立場もあります。

投稿 LIGHTWIND | 2008/04/28 22:36

ハイッ、エム先生と、その向こう側にいるブッダに敬礼!24hours

投稿 えび天サンバ | 2008/04/28 21:07

えび天サンバさま

> 悟りの人には時機はないんじゃないかと思います。

lightwindさまのお話ともかぶるでしょうか。
悟ってしまったら、永遠 といいますか、時間もない、といってもいいかもしれませんよね。

悟りをめざす人に「時機」が必要なんですね。
悟りをめざす人。。。それは、わたしたち。タイマー装備で clock いきますっ!

投稿 管理人エム | 2008/04/28 19:25

lightwind さま

> えーと、「自分主体ではない」は「他者主体」とは言い換えられないのではなかろーか、と言いたかったのです。

あ、そうだったのですか。。失礼しました。

> 無我の世界は主客の対立を超えた世界でしょうから、表現として「他者」という言葉は相応しくないのかなと考えたわけですが、、、

ああ、むずかしいところに入ってきましたね。
なるほど、悟りを得たブッダ自身は、自己と他者の二元的な世界を超えてしまっているかもしれません。何も言わないでいるときとかね。

ただ、他の人が話しかけたとき、ブッダは相手に合わせて話ができたので、そのときには、自己と他者のいる相対の世界に入って、他者と向き合って話をしているのではないでしょうか。

なんと言いますか、生死の世界と涅槃の世界は、出入りが自由というのは、どうでしょうか。。。

lightwindさまの paper は、おしゃかさまの手のひらみたいですね。施無畏印かな。


投稿 管理人エム | 2008/04/28 19:15

エム先生

悟りの人には時機はないんじゃないかと思います。きっと悟っていない人が「時機」というんでしょう。いつもその時機だと、それを言う必然というのはないのではなかろうか、などと考えます。しかしながら、凡人の私には見当もつきません。

投稿 えび天サンバ | 2008/04/28 15:44

>無我は存在一般の在り様を表す言葉で、慈しみは生命とのかかわり方を表す言葉です。

どちらも紛れもなく、「生命とのかかわり」の“なかからの言葉”です

あなたの段階では、それは分別(ヴィジュニャー)されるということです
“まず”という言葉で、それを表そう(脱しよう)とはしていますが、
あなたが“知(智慧ではなく)”の世界に住んでいる事を知らせてくれます

人の生は、まさしく“生命と仲良くしようとすること”でしかありません
生きること、そのことに涅槃が見出されること
それが、智慧の獲得です

投稿 春間 則廣 | 2008/04/28 09:42

>「 他のものを傷つけてはならない 」

慈しみは他者主体だということでしょうか。

まず、知恵の世界と慈しみの世界は区別して考えたほうがよいと思います。
無我は存在一般の在り様を表す言葉で、慈しみは生命とのかかわり方を表す言葉です。
存在の在り方を観ようとすることと、生命と仲良くしようとすることとは、全く別の行為ではないかと思われます。

と言っても、慈しみを育てることによって行き着くところは結局、「自分主体でなくなること」でしょう。
したがって、「他者主体」は究極の目的ではなく、「自分主体という本能に打ち勝つこと」こそ仏道が目指すところであるように思われます。

投稿 lightwind | 2008/04/28 01:27

(21,2歳のときでした)

「 天上天下唯我独尊 」と 
大学のクラブ室の壁の書き込みに有ったものを


「 天上天下唯他尊 」と消し書きしました  

書きつけた人に、問い詰められた事を思い出します、、、、

他者の中に(上に)しか、自分は見えません

「 他のものを傷つけてはならない 」

投稿 春間 則廣 | 2008/04/27 23:57

>おっしゃるとおり、「他者主体」は、言い換えれば、「自分主体ではない(無我)」そのまんまですね。。。ほんとだ!!

えーと、「自分主体ではない」は「他者主体」とは言い換えられないのではなかろーか、と言いたかったのです。言葉足らずですいません。
無我の世界は主客の対立を超えた世界でしょうから、表現として「他者」という言葉は相応しくないのかなと考えたわけですが、、、
聞き流してください。paper

投稿 lightwind | 2008/04/27 23:27

lightwindさま

> 「その時機」は「自分主体でない」ときに自ずと顕れる、、、

グーッ! good じゃないでしょか。。。

相手の反応を見ながら、自然にそれにあわせて出てくるのかなぁ、とも思います。

むずかしすぎる説明とかは、自分をかっこよくみせたいとか、自分の知識のあるところを示したいとか、たいていそんなところから来ているように思われてなりません。

おっしゃるとおり、「他者主体」は、言い換えれば、「自分主体ではない(無我)」そのまんまですね。。。ほんとだ!!

気がつかなかった。。おいおい。    coldsweats01

投稿 管理人エム | 2008/04/27 22:00

管理人様

「その時機」は「自分主体でない」ときに自ずと顕れる、、、のかな?

ところで以前、ブッダ論理は「他者主体」とありました。が、「他者」は「自分」とセットなので、ブッダが語られたとおり、「自分主体でない(無我)」としか言えないような気がします。

時機を失したコメントでした。。。

投稿 lightwind | 2008/04/27 20:34

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