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2008/03/07

旅は記憶の底に、、雪のそこ

混沌と整頓のはざまをいく
孤高の管理人です。。。

混沌と整頓って、あんまりかっこよくないかな。

トンでそろえてみました。

カオスとコスモスの方がよかったかしら。。

どっちにしても、この世は、どちらの要素ももっている、ってことね。
一番、よくないのは、
全部カオスという状態ではなくて、
半分カオスで半分コスモスという状態だと思う。

中途半端なコスモスが
さらにカオスを増大化するんです。

まぁ、それはおいといて
飛騨の高山は、孤高のコスモス

雪と寒さが、統一感をもたらします。
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厳しい環境と幕府の圧政に苦しむ人々を知るのはここ。 
天領(幕府直轄地)時代の役所、高山陣屋
寒さに震えながら、
農民一揆のありさまを読んで涙する。 
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白川郷に行こうっていったの誰?
のろのろ運転の細い道。 
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2時間かけて着いてみたら 
白川郷は、観光地でした。
そうだったのか。ちょっと、かなしいような。。

それでも、雪があると、いいですね。 
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秘境のコスモスに
観光のカオスが押し寄せる。。。んだなぁ

 
 
 

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コメント

さくらまつ 花咲じじいの さくらざか ヨイコラショ。おそまつwheelchair

投稿 えび天サンバ | 2008/03/11 07:23

えび天サンバさま

いずれにもよらない道はひとり行く道ですね。

ひとり伸びてく草の芽。。。春ですね。cherryblossom

投稿 管理人エム | 2008/03/10 22:21

エム先生
いずれにもよらない道、実践的ですね。
項という言葉はよくなかったですね。コスモスとカオス位がちょうどよいのでしょう。というわけで今度はbud

投稿 えび天サンバ | 2008/03/10 19:46

春間さま

あらためて確認しました。

> 信仰と、道(論)理が対立するときには、
> 道(論)理をとるべきことが、立論されています
> それが、正しき信仰です

法と論理の領域で活動したブッダの道ですね。
清沢満之full、やっぱりすばらしい!

それにしても、一年以上も前になるんですね。この書き込み、いただいたの。

投稿 管理人エム | 2008/03/10 13:39

論理と瞑想

先の書き込みにおいて

>どの様にしてそれを知るかという問題が起きます
と、置きましたが、
自らに於いて、いかにそれを観るかという問題がおきます

そこには、以前書き込みで紹介させていただいた、
清沢満之の論究する
(過去ログ 2007/01/14 2320 参照)
http://homepage1.nifty.com/manikana/re-manikana/2320.html
信仰と道理(論理)の関係が存在します

(正しき心に於いては)
信仰と、道(論)理が対立するときには、
道(論)理をとるべきことが、立論されています
それが、正しき信仰です

投稿 春間 則廣 | 2008/03/10 11:49

えび天サンバさま

> 三項にならず二項しかないと、体や心の中での敵対関係だらけで、いろいろ難病や四苦八苦は避けがたいです。

この第三番目の項を「中道」と位置づけられるかどうかが、むずかしいかもしれませんね。
真理表九番目の「どちらでもない」というだけのものであれば、また、二項の対立が復活することもありますし。
第三番目の項が、それら二つを「超えた」ところにある統一的な項なのだ、と思ってしまうと、また、絶対的なものに到達したという高慢が出てきそうです。

「いずれにも依らない、という道」と思えて、ようやく苦から逃れられるのかもしれませんね。。。あ、豚さんをとられちゃったので、今度はこんなのにしてみましたaries

投稿 管理人エム | 2008/03/10 11:40

春間さま

> 共通の体験を持てば、共通の感覚(心)が喚起されているのです
> それが、“におい” で判るということです

常に体験を新たにし、「鼻」をよく使っていないと、“におい”を嗅げないということにもなりますね。

> 目が、目に、語るのです

そんな気は、することがありますね。
経典や論書が、そのまま「体験」をおしえてくれるというような。。。。

そのとき、二次元の紙にある文字の世界は、簡単に三次元の「時と、空間を “嫌い” は、しません」という世界になります。
そうなるまでねばるんです。


投稿 管理人エム | 2008/03/10 11:32

エム先生
現代人のための瞑想、いやまったく。
三項にならず二項しかないと、体や心の中での敵対関係だらけで、いろいろ難病や四苦八苦は避けがたいです。これは自業自得というにはきついです。pig

投稿 えび天サンバ | 2008/03/10 07:20

瞑想(禅定≒三昧)の世界の出来事は、
通常、そこに入る人にしか経験できないことですが、
それは、あくまでも、人の心の世界の事であって、
違う世界のお話であったり、そこへ行くことではありません

ということは、誰にとっても、経験可能
(すでに心に保つ世界だという事)です

ただそれを、表そうとするときに、
実体験を基にしないことには、“堅固”なものとなることがないだけです

違う表現をとれば、実体験さえあれば、表現の上手下手は、
さほど(と言うより、全くとも言える位)問題にならないのです
この実体験が、問題となるところです
「これを得た」と感じる(言う)人は(多くはないのですけれども)
結構いるのです
しかし、その体験は、殆ど思い込みでしかないのが通常です
“夢想”を“現実”と“顛倒”するような関係性が、
そこにも、パラレルに存在するのです
両方とも、(全く同じ)人の心の認識ですから、当たり前の事です

どの様にしてそれを知るかという問題が起きますが
実は、そこには問題がないのです
共通の体験を持てば、共通の感覚(心)が喚起されているのです
それが、“におい” で判るということです

「口は(自らを欺くという点でも)重宝なもの」ともいえるのです

指の上下では決して理解されません(この口の事です)

(対面しなくても)(心の)目が、目に、語るのです
“ もちろん、言葉(文字)を使用して です ”
その言葉(目)は、時と、空間を “嫌い” は、しません

投稿 春間 則廣 | 2008/03/09 22:03

春間さま

これは、むかし解いた数学の座標の問題と、前に話題になった南方熊楠氏の事と理の法界縁起の図式(?)と、経典に出てくるインドラの網(網のつなぎ目に鈴がついてて鳴る網です)と、「パタヴィ(地)」を見ていく瞑想の説明と「小空経」と、さいごに大乗と部派の区別とを、全部ミックスして、攪拌したところから、生まれてきました。

これに対して、ヒンドゥ教のヴィシュヌ神の神話に「乳海攪拌」というお話があります。
アスラと神々が、山を棒にして、それに蛇を巻き付けて、頭としっぽをそれぞれがもって引っ張りあい、棒を海に入れて攪拌するというお話です。
そして、「不死の霊薬(アムリタ)」をそこから取り出すのです。

ヴィシュヌはそのとき棒の下に潜って亀となって、攪拌を支える役目をします。

ヒンドゥ教は、神とアスラの相対する世界を中心にしているけど、仏教の世界はカオスとコスモスの一体になった法界を世界としています。

投稿 管理人エム | 2008/03/09 13:41

>カオスに浮かぶピンクの花は、葉とともに風に揺れますね。。。コスモスと聞くと、いつも風に揺れてるイメージがありますけど、それが、世界の姿だからでしょうか。。瞑想してますねぇ

この何気ない、貴方の表現
此処に、先に、碧巌録十二則に顕されている、(禅定)三昧の世界が有るのです

「花ゾクゾク錦ゾクゾク」の世界です

貴方は、それと知らないうちに、その世界を経験しているのです

そこが、先に、私が言った、正しい宗教体験ということのひとつの表れです

なぜ、貴方が、その表現を採ったのか、
私には、はっきり分かりませんが、
その感性を、やさしく、自ら暖めている、
貴方の姿が、見えます

投稿 春間 則廣 | 2008/03/09 00:00

えび天サンバさま

なるほど。。。こうしてみると、この世の中には、意外と中道の実践って、できそうですね。現代人のための瞑想ねっ!thinkよし、これでいこう。

春間さま

> あの、細くていっぱいある葉が、
> コスモス(宇宙)で
> 花が、
> その中(カオス)に、浮かんでいるかのようです

カオスに浮かぶピンクの花は、葉とともに風に揺れますね。。。コスモスと聞くと、いつも風に揺れてるイメージがありますけど、それが、世界の姿だからでしょうか。。瞑想してますねぇcloverクローバーで代用です。。。

投稿 管理人エム | 2008/03/08 23:18

僕も、コスモス って好きだな !

小さいころ、神社の前に、小さな畑があって、
ピンクのコスモスがいっぱい咲いていた

あの、細くていっぱいある葉が、
コスモス(宇宙)で
花が、
その中(カオス)に、浮かんでいるかのようです

投稿 春間 則廣 | 2008/03/08 22:46

いやぁ、私も豚にしようかと迷ったんですが、猪八戒だとあまりにも私の真実に近づきますぎますので。restaurant
ところで、先生の言われる「瞑想」についてですが、近代西洋人たちが言う記号の三項関係、古くは仏教で言うところの三世の諸仏、身・口・意や密教の三密など、カオスとコスモスを包括する第三の視点(枠組み)、これと自覚的に取り組むことが中道の実践(瞑想)なのでは、などと思います。

投稿 えび天サンバ | 2008/03/08 18:15

えび天サンバさま

大乗仏教から入っていった人々が、なぜ、ことばを拒否して禅や瞑想を重んじたのかが、よくよくわかるようになってきました。

カオスの中で、それをいじることなく、コスモスを見いだしていくためには、自分というところが拠点になるほかはない。。自分が動けば、世界が崩れるわけです。崩れはしなくても揺れて、コスモスが見いだせない。。。瞑想するしかないですね。

一切が流動し止まない世界(カオス)をあるがままに「知る」とき、その世界はすでにコスモスであるわけで。。。いや、ブッダという人は、ほんとに信じられないような人ですね。

ここにも、頓馬人間が、一人。。トンはこっちかなpig

投稿 管理人エム | 2008/03/08 14:13

半分カオスで半分コスモス、これは最近、先生が仰った部派と大乗の玄関と奥座敷関係とか、あるいは煩悩即菩提とか、又あるいはトランスパーソナルな全体性理論との関連などに思い及びます。カオスがなくなるなんてことはありえないと思いますし、だからこそ仏教が光となるんだと思います。と、頓欲にまみれた頓馬人間が発言でした。horse

投稿 えび天サンバ | 2008/03/08 10:19

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