春は心のクリーニング
横光利一の作品に
「春は馬車に乗って」ってのが
ありましたね。。ちょっと関係なかったです、はは。
さて、っと、春らしく明るい感じでいきたいな。

変わった角度でとらえてみましたよ。
では、こんな写真も。

春になって雪解けがすすむと
いろんなところが汚れているのがわかります。
道路はゴミだらけ、雪も泥で薄汚れて汚いわ。
さぁて、汚いのは、道路ばかりじゃない。
あなた、 「心」 が汚れてませんか?
春らしくクリーニングしてみませんか?
え?心もクリーニングできるのかって。
長年染みついてるんだよ、心の汚れは。。。
もう染み抜きしても、ぜったい落ちない。。。
真っ黒けの心なんだから、ぐすぐす。。。
こうおっしゃるんですね。大丈夫 V!!
頑固な、真っ黒汚れも
ザブにお任せ。。。真っ白けになるわよ。。。
ってんじゃなくてですよ、
あなたのように真っ黒な汚れも
だいじょうぶ、ちゃんと落ちるって、
経典に書いてあるの。
希望をもってよ、今、その経典を教えてあげるから。
その ありがた~い経典は『ダンマパダ』
二つ詩を読めば、ばっちりだから ねっ!
手間はかかんないわ。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
【第一章 ひと組ずつ】
1 ものごとは心にもとづき、心を主とし、
心によってつくり出される。
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、
苦しみはその人につき従う。
――車をひく(牛)の足跡に車輪がついていくように。
2 ものごとは心にもとづき、心を主とし、
心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、
福楽はその人につき従う。
――影がそのからだから離れないように。
(中村元訳『ブッダの 真理のことば 感興のことば』岩波文庫)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
この詩で、どうして、心がきれいになるのかって?
この詩は、じつは、じつは、希望の詩なのだ
ってことに、管理人は気がついた。。。
だってさ、喩えを見てよ。
汚い心のあなたは。。。牛
たくさんの苦しみの車を引っぱる 牛
とぼとぼ踏みしめる足跡に
車の轍がついて行く
深く刻まれて、あとをずっとついて行く。
だけど、ね、牛は車を引いてるの。
なんで、車をひくのよ。。ね、そうでしょ。
車を放して、おいていくなら
もう、苦しみは、なくなるわけよね。。
だからさ、春だし、すっきり、車なんか
捨てちゃいなよ。。車の轍は、あなたのあとをついて行かないから。
ねっ!!!
いっぽう、
きれいな心のあなたは。。。あなたのまま
清らかな行いをしているのに
でも、でも、なぜ、いつもあなたは、損ばかりなの。。
いいことなんて、いいことなんて、ちっともない。。。
ああ、ああ、そんなに悲観しないで!
あなたに、日の光が当たってないだけだから
暖かい春の、日の光のもとで
ほらっ、ね、くっきり影があなたのあとをついて行く
福楽は、いつも目立たないのよ、
お日様のあたるところで、
はじめて影が見えるように
日の光のもとで
あなたにしっかりとついて離れない福楽が見えるのよ。
だからね、そんなにがっかりしないでよ。
春はお日様いっぱいだからさ。
ねっ!!!
いい詩でしょ!!!(^_-)
~~~~~~~~~~~~
え?そうかなぁ、ですって。
うたぐりぶかいわねぇ。。
あのね、じゃぁ、
次のように考えると、
この詩が良い詩だって
もっとよくわかるから。
ちょっとやってみるよ。
~~~~~~~~~~~~
もし、この喩えが、1の詩と2の詩で
逆だったら。。。。。。と、トンでもないわよね。
悪事をなした苦しみが、影のようにつきしたがうなら
影が見えないように
もう、お日様のささないところ、日陰に生きるしかない。。
じょ、じょうだんは、よしてよね。
苦しみから逃れられないし、ね。
もし、福楽が、車の轍のようについてくるなら
あれ、車がはずれちゃった。。。な~んてとき
せっかく為したよい行いの結果も
一緒におっことしちゃうことになる。。。。
善いことしたって、そんなの関係ないよ。。。
どうせ、どうせ、わたしなんか、わたしなんか。。。ワーン(泣)
と
こうなっちまうのか。。。。
おしゃかさま、さま、
適切な喩えを
どうもありがとう
だからね、ほら、
心はクリーニングできるのよ。
冬物クリーニングは、今三割引だし
あなたの心も、一緒に。。。どう?
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コメント
春間さま
> ないわけでは、ない ! と思います
そうですか? じゃぁ、そうなのかな。。。
阿含経典のことばは、聞くとそのままそうなることが多いですね。
> 龍樹が巧みに言葉を持って語るのは、
> それを聞く、諸菩薩によって、語り継がれます
> 語り方は、対機(臨機)ではないですか ?
たしかに、せいいっぱい龍樹なりに対機を意識しているようにみえます。
> 納得であろうと、反論であろうと、立腹・悲嘆・激怒・等々
> 反応が、大事 の ところです
まぁ、そうとも言えますが、しかし、あまりうまいやり方ではないかもしれません。
ブッダは、眼に見えて苦しみを軽減するように語ったのですから。。。
しかし、ブッダとはちがいますが、龍樹には、龍樹なりの凡夫への対し方があったようにも思います。
アーラヤを喜んでいる人々に、いかに語るか、そこにも悟りの智慧が生かされてくるのでは。。。といっても、そこがチョーむずかしいわけですね。
投稿 管理人エム | 2008/03/24 22:13
管理人 エム 様
>禅定のないわたしは、
『中論』の言語を通して論理を獲得していかなければなりません
ないわけでは、ない ! と思います
少なくとも、「我」の隠れた(断絶した)状態は、、、、
(唯識の六(意)識でも、無想定と、呼ぶところのものがあります)
そこは、禅定の世界です
わたしは、あなたに正しい宗教的経験を認め(感じ)ているのです
(禅定でさえ、出定すれば、囚われる処でしかないとも言えるのです)
ここに、“複雑”が存在します
確かにあるものを、ないと認識する
ないものを、確かにあると認識する
( 認識は、認識として、確かに在るのです )
( それを、誤認と呼ぶことができないことも在るのです )
>到達したところを言語で語る必要
ここに、菩薩の概念が生まれざる得ないところがあります
(菩薩も、言葉を持って語り、語られるからです)
龍樹が巧みに言葉を持って語るのは、
それを聞く、諸菩薩によって、語り継がれます
語り方は、対機(臨機)ではないですか ?
大事 の 処は、“伝わる” ところ です
“凡夫”の囲いを破って、伝わればよいことです
“凡夫”の評価は、この際、問題にする所ではない筈です
納得であろうと、反論であろうと、立腹・悲嘆・激怒・等々
反応が、大事 の ところです
成唯識論(増一阿含経典)に
(一切有部増一経中亦密意説)
愛阿賴耶、楽阿賴耶、欣阿賴耶、憙阿賴耶
とあります
阿頼耶識に語りかける方法は、、、、
いかがなものでしょうか ?
投稿 春間 則廣 | 2008/03/24 12:19
春間 さま
> 言葉の習慣の違いがあるかもしれないと思い、
あるのではないでしょうか。
春間さまが言語にするところを、わたしは言語ではないものとして扱い
わたしが言語にするところを、春間さまは言語ではないものとして扱っているようです。
『中論』と禅定の関係と同じようなものかもしれません。
禅定に入る春間さまにとっては、『中論』は必要ないものですが
禅定のないわたしは、『中論』の言語を通して論理を獲得していかなければなりません。
到達してしまえば、わたしは、もう言語はいらない(戯論寂滅)のですが、
春間さまは、到達したところを言語で語る必要が出てくるのではないでしょうか。
到達したところを語るのは、非常にやっかいで、そちらの方がむずかしいのではないかと思います。
(たとえば、『中論』第二章の春間さまの説明などをとっても)
雲水さまと春間さまのやりとりがむずかしいのはその点ではないかと思います。
> 桂 様に、「行」の概念が伝われば
そうですね。たしかに、「行」の問題を論じています。論理学上の方法論(演繹か帰納か)は、「行」といえば、まさしく「行」です。ここが、感覚的につかめると。。。
気綱 ですか。いいことばですね
投稿 管理人エム | 2008/03/24 09:24
管理人 エム 様
“信”は、行です
行動に移らないのは、“不信”です
“見”は行です
観ることは、移る(映る)ことです
居る所を見、移るところを見据えることです
その時、其処が、居る所になります
>わたしは、それを見ているのです
それは、最初から知っています !
“観”ていない人に、説明して分かって、“戴く”ことは出来ません
(あなたの)「見」ているものを、
(私なりに説明して)(私を)理解して“戴いた”だけです
言葉の習慣の違いがあるかもしれないと思い、
一度は、離れようとしましたが、
そこに有る、気綱を見出したから、此処にいるのです
桂 様に、「行」の概念が伝われば、
事態は、少し展開して、解けていくかもしれません、、、、
そこに、春の日差しがあるのだから、、、、
翳障は、夏なら、何とかなるかもしれません
投稿 春間 則廣 | 2008/03/23 23:21
春間さま
> 論理でも、同じことが言えます
> 必ず、行の支えが必要となるのです
わたしにとっては、論理とは「行為」なので、行なのです。支えというより、そこに行があるのです。
> 阿含経典などでも、ことは同じです
> 全部、金言(仏説)だと、
> 取り敢えずは、“信じて”構わないと思います
春間さまが、強い行を、阿含経典に見るように、わたしは、完成した論理をそこに見ます。
それによって、阿含経典は、ブッダの説いた金言であると、“信じて”いるのではなくて、わたしは、見て知っているのです。
わたしは、それを見ているのです。ほんとに見てるんです。
言葉に頼ると真理から離れる のは、あたっているかもしれません。
その意味では、わたしは、言葉に頼ったことはないです。
言葉に頼るのではなく、言葉を「通して」示されるものを見るのです。
だから、言葉をおろそかにしては、真理は示され得ないのです。
言葉を大事にしないと真理から離れる
ということも言えます。なぜなら、言葉(=論理)は、「行」だからです。
そして、経典は、そんな言葉(=行)からなっているのです。
経典は、人にはとうていありえない奇跡が、言葉の形で結晶したもののように見えます。
投稿 管理人エム | 2008/03/23 22:07
唯識
手元に大田久紀氏が、
薬師寺で講義した記録「成唯識論抄講」があります
(その内容を、要約・加筆したものが「 成唯識論要講 」四巻
として中山仏書林から出版されています)
大田久紀の解釈(文章)には、問題が多いのですが、
その、真理(自己)に挑む態度(行)は、なかなかのものです
論理・結論が正しいから、正しい行があるのではなく
それらに欠点があろうと、正しい行は、存立するのです
行は、日々の行いですから、、、、、
論(言葉)は、その断片です
ただし、論が、断片でなく、行となっているとき(には)
その断片の部分はあまり問題になりません
かかれている言葉の裏に、修行が見えるのです
(私たちは、自らによって、試されているともいえるのです)
もちろん、いくら行があると、そこに、主張されていても、
正論が並べられていても
そこに(殆ど)何もないときもあります
(実体験が“あれば”、誰にでも、その実態が見える・感じるということです)
(そんなところが、「説得力」という言葉で表されるのかもしれません)
言葉に頼ると、いつかはとても真理から離れたところにいる危険があります
論理でも、同じことが言えます
必ず、行の支えが必要となるのです
でも、仏典には、とても強い 行 と、 真理 があります
絶えず接していれば、心が澄んできます
(語録は駄目です、真偽が複雑に絡みすぎています)
大乗仏典に限るわけではありません
阿含経典などでも、ことは同じです
全部、金言(仏説)だと、
取り敢えずは、“信じて”構わないと思います
投稿 春間 則廣 | 2008/03/23 21:24
えび天サンバさま
いや、どうも、さらっと読んでくださいね
たらっ!
春間さまに、詰めの甘いところつっこまれて、泥沼に足つっこんだ牛になってます。。ぬ、ぬけん
。。。
投稿 管理人エム | 2008/03/23 20:17
春間さま
> 比丘は、牛車(インドの)後をいく、御者(農夫?)とみるのが妥当です
なるほど、知らずに自然にそうなってますね。わたしも。
そして、
牛は自分自身。。これもオッケーです。
> つまり、全体を俯瞰する画像は、イメージされてはならないわけです
これは、大、大、大納得。全体を俯瞰すると、たちまち仏教から転落しそうですね。。。唯一なるアートマンが出てきそう。
ヨーガでは、感覚器官を馬に見立て、その対象が道で、馬の前に広がっています。馬は、対象に向かって暴走するんです。
心は感覚器官の背後にある手綱で、その後ろに御者(知性)がいます。
そして、馬車の中にいるのが車主のアートマンなんだけど。
でも、今回は、牛と車だし、感覚器官は出てこないので、もう少しシンプルになるかと思いましたが、むずかしいですね。
。。。唯識だから、心が道でもいいのかな。
投稿 管理人エム | 2008/03/23 20:14
エム先生
春の訪れを告げるにふさわしい心温まる文章でした。いつもありがとうございます。合掌
投稿 えび天サンバ | 2008/03/23 19:48
此処には、視点の問題があります
この状況を俯瞰する立場は、誰にとってのものであるかということです
ひとつは、ブッダの視点であり
もうひとつは、それを(教え)示される、比丘の視点です
同じところから観ることが出来ていないから
それをブッダは要求しているのです
比丘は、牛車(インドの)後をいく、御者(農夫?)とみるのが妥当です
足と足跡を見つめるとき、車(車輪)は、その後を追います、
それと共に、自らも、足跡を追っているのです
後を追うのは、自分です
その時の牛は、誰になるのでしょうか
やはり、自分自身です
此処に、犀の角と同じ構図が生まれています
(瞑想を行なわないと、ここが見えにくいわけです)
つまり、全体を俯瞰する画像は、イメージされてはならないわけです
それは、虚偽のことであり
苦の住処となるのです
(ものごと)苦しみは、心の(心を構成する体の)足跡
跡、自体には意味はない
(あるから、福楽が、影となっているのだけれど、目をつぶって、、、)
その後を、車輪(自分)が、トレースしていることに、
苦を、追っている自らの姿がある
少し、紛らわしい表現ですが、
この点については、この位にて、取り敢えずは、御免、、、、
>しかし、もし! 云々・・・かたい道
これは、堅固なる世界に住むということで、
OKでしょう、、、、
良医にかかると、了因がでてくるわけですね
投稿 春間 則廣 | 2008/03/23 19:15
春間さま
ちょっと甘かったですか。苦しみを逃れる、という点に注視しすぎたか。。。
> 足跡が何で(何にかかって)、車輪が何に譬えられて、
> ついていくのか
牛は、足跡から逃れられないとすれば、
汚れた行いを、そもそもあらためないかぎり、足跡(汚れ)に車輪の跡(苦しみ)はセットになってついくるわけですものね。
それは、やはり心をきれいにクリーニングしなくちゃいけない、ってことでもありますね。
重い車をひく牛は、踏みしめていかなければならないので、その足跡をより深く地面にあとをつけて行くことになる。
軽い車なら、その足跡も薄いものになるだろう。
足跡が深くつくような道なら、轍も深い。(道路は、心かな)
また
車が重いときは轍は深く、それに対応して足跡も深くなる。
しかし、もし!
もし、車(=苦しみ)をはずせるなら、牛の足跡(=煩悩)は、もはやかたい地面にあとを残さないだろう。。。足跡を消すためには心をきれいにしなくちゃ。。ってことは、ぬかるんだ道ではなく、かたい道(きれいな心)を選べ、ということにもなりますか。
だから、とにかく、苦しみの滅を求める人は、汚れを除くため、心をクリーニングしなければならない。
これで、どうでしょうか。。。書き方が逆でしたか。生因を書くべきであったのに、了因を書いてしまったかな。
でも、四諦の順序になってる?どうでしょう?
投稿 管理人エム | 2008/03/23 17:24
ちょっと、問題ありですね、、、、
語句と、語句との関係を、
綿密に対照してみてください
牛と、足跡と、牛に引かれる車と、
足が地面に残す、足跡と、
車輪との関係を、、、、
>車の轍がついて行く
>深く刻まれて、あとをずっとついて行く
此処は、パダからの、連想ですね
(実際に、轍と訳ものもあります 上村勝彦訳)
足跡が何で(何にかかって)、車輪が何に譬えられて、
ついていくのか
車輪の轍は、(この場合、必ず残るものですが)
それについては、何も言及されていません
とりあえずは、問題とするか、されていないのかは、
聞く(読む)人の阿頼耶識にかかってきます
牛の足跡は、車を引くから、提示されているわけで、
轍は、残っても、(それは)それに着目する人にのみ
(執着という)存在が提起されるだけです
はっきり、私の読み方を提示すればよいかもしれませんが、
今のところは、
とりあえず、(私としての)問題提起 のみで、、、、
投稿 春間 則廣 | 2008/03/23 16:47