仏教徒は外からやってくる、そして、外へ出て行く
もう5日。
月日のたつのは、早いものでございます。
先週は、去年だった。。しみじみ。
ろくに勉強しないのに、一日があっという間に暮れていく。
日々過ぎていくのに、変わるものは、ろくに ない
写真も、昨日と似たようだって?
文句言わないでくれぃ。
な~んて、言ってないで、管理人!
さあ、いってみようか~!やっとな!
=====================
仏教徒は外からやってくる そして 外へ出て行く!
=====================
前々から、書いてみたいと思ってたのだ、これ。
■仏教徒というのは、どこにいるのか?■
こんな疑問をもったことありまへんか。
あ、ありまへんのね。
変ですか?この疑問。
わたしは、ずうっと、仏教徒というのはどこにいるのだろうかと
考え続けてきました。
「はい、はい、わたしが仏教徒です」
という人はたくさんいるでしょう。
それは、それで何も問題ないのですが、
そういう人たちは「どこに」いるのだろうか?
というのが、疑問だったのです。
「どこにいるのだろうか」って、言ったって、そんな。。。
家にいたり、お寺にいたり、がっこにいったり、会社に行ったり、
スーパーに行ったり、神出鬼没だと思うぞ。。。
あ、そういう意味じゃなくて
教え(仏法)との関係で言えば、
どのあたりにいるのかな
って、意味なんですけど。。。
???
わかんないすか?
じゃ、はじめから話すよ。
【前半】
まず、人は生まれたときには、仏教の教えを知らないので
仏教徒ではない。
沙門ゴータマが、悟りを開いてブッダになったとき、
ひとり 仏教徒が生まれた???
いや、ブッダになっちゃったら、もう、仏教いらないから
仏教「徒」ではないかもしれない。
ということは、なんとおお、
1.仏教が開かれたとき、仏教徒は 誰もいなかった!
衝撃の事実 です。
ブッダが最初に五人の比丘に教えを説いたとき
はじめて仏教徒が生まれた。
ということは
2.教えを聞かないと仏教徒にはなれない。
「帰依します」って言わなくちゃならないもんね。
つまり
仏教徒というのは、
★必ず仏教外からやってくる★のです。
仏教の教えを聞くためには、
ほかの教えをもってるか、
何も教えをもっていないか
どちらかなのです。
確実に仏教外からやってきた人が、仏教徒なのです。
わかる?よく考えたら、不思議でしょ。
そうやって考えてみると
有名な弟子たち、優れた弟子たちは、
もとから、みな仏教徒ではなかった。
あ
有名でない弟子たち、優れていない弟子たちも、
もとから、みな仏教徒ではなかった。
サーリプッタとモッガラーナは、
六師外道の一人サンジャヤの弟子だった。
天下の龍樹は、大金持ちのバラモンの子だった。
ほかにもたくさんのバラモン・沙門・ふつうの人が
ブッダの弟子になった。
で、それらの人が優秀であればあるほど
ブッダの弟子になった。
ブッダの教えを聞いて優れていることが
すぐわかるからだ。
ブッダは、もっとも優秀なものたちを
続々弟子にしていった。
仏教は野火に似ている。
野原や草原を焼き尽くす野火は
どこで、もっとも激しく燃えるのか。
まだ燃えていない草木と、火とが
接するところである。
燃え広がっていく火の先端部分は
もっとも激しく勢いがある。
そのように
仏教外の人と仏教徒が出会うところは
もっとも激しく燃えるのである。
教えがぶつかり合い、燃え上がるのである。
そして、やがて
火が、必ず草木を焼き尽くすように
仏教は、非仏教の教えを焼き尽くす。
焼き尽くすと、燃えるものを求めて
火は、次々と草原をなめるように進むのである。
仏教は、仏教徒ではない人たちを求めて
次々となめるように進むのである。
仏教徒は、どこにいるのか?
野火の激しく燃える先端に生まれる。
非仏教徒たちのいるところと仏教徒の接するところに
生まれてくる。
だから、
★仏教徒は、いつも外からやってくる★
【後半】
こうして、仏教はその教えを広げていく。
しかし、喜んでいるのは、ちょっと早いよ。。
次の展開をご覧じろ!
次は、仏教の危機がやってくる。
勢いのある仏教、優れた仏教
すべての教えは、仏教に飲み込まれる
ようにみえるけど、落とし穴が待ち受けている。
ちょっと、燃えてしまった後をごらんよ。。。
仏教は、どこに行ったんだろう。
あんなに勢いのあった優れた教えは
沈静化する火のように
下火になっていく
ああ、ああ、燃えた後の養分の多い土から
また、再び草木が芽吹いているじゃないですか。
こうして、瞬く間に草木は復活する。
焼けた野原は、仏教の王国ならぬ仏教の焦土。。。
仏教徒たちはどこに行ったのか?
どこにいるんだろう。
心ある仏教徒は焼けた野原にはいられない。
教えの失われた地に住めない。
だから
★仏教徒は、また、外を目指して出て行く★
たくさんの優れた仏教徒たちは、
仏教のないところをめざす。
チベットを追われたダライラマ14世は
活動の場を世界に求めた。
チベット仏教は、世界に広がった。
スリランカからやってきたスマ長老さまは
日本に活動の場を求めた。
上座部の仏教は日本に広がった。
だからね
日本の仏教徒の人たちよ
君たちも
外をめざせ!
教えを広めよ!二人して行くな、一人で行け。。。
■仏教徒はどこにいるのか■
じっさいに、仏教の寺院に住まうのは
まだ、外からは守られなければならない
修行中の人々です。
ほんとうの仏教徒になるために修行する人々です。
「仏教徒はどこにいるのか」
の答えは見つかったね。
仏教徒には、この世に 安住の地はない。
ただ 涅槃をめざすのみ。
ブッダは、仏教をうまくつくったなぁ、と思います。
仏教は
外から人々がたえずやってきて
外へ人々がたえずでていくとき
隆盛です。
変化の教えに従っているとき
仏教自身も生きられる
ってことだね。。お見事!仏教。
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コメント
エム先生
>一応、管理人は、輪廻は無始です。。。なので、無視して。。。なんちゃって。
ん、無始だから 無視してとは、ムシが良過ぎますw
なーんて(笑)
投稿 zapo | 2008/01/09 21:39
zapoさま
ゆ、油断しました。。。こんなに長くなっている。。
> やっぱり生死や煩悩が先(因)ですね。
つまり人。
そ、そうです。。ね。。か?。。どっちにしようかな。。。って、問題じゃないな。
ぜんぜん関係ないんですけど、zapoさま、って、すんごく、反応が速いんですね。っていうか、せっかちなのかしら、ホントに。
管理人、煙に巻かれて、なんて答えていいかわかんなくなりました。このスピードについてけてない。
なので「zapoさまは、人が先」としておこう。
一応、管理人は、輪廻は無始です。。。なので、無視して。。。なんちゃって。
投稿 管理人エム | 2008/01/09 21:21
親爺さん
これかな。
0310_,11,0131c14(06):
復次無邊慧。諸菩薩摩訶薩。
0310_,11,0131c15(07):
如是觀察一切法時。便於諸法得法光明。
0310_,11,0131c16(00):
不於空中而見於空。亦不離空而見於空。不見少法與空相應。
0310_,11,0131c17(01):
若不相應。不以空空。不見於空。不見不空。
しかし是だと声聞の事が見当たらないが、、
別にあるのかな?
どっちにしても
大経を涅槃経と紹介しても間違いにはならない。
ただ、大寶積經にも菩薩の空、不空を説く文がある。
確かにこちらの方が菩薩の見空を示しているようであるが、意訳してみないと不空を見るとは出てこない。
そうであれば、先の大涅槃経の一文の意訳と変わりなく、さらに声聞の文はまさにそのままが書き下し文と一致する事から大涅槃経という菅野氏の説を間違いであるとは言えないでしょうね。
投稿 zapo | 2008/01/09 18:22
エム先生
ついつい親爺さんの話に夢中になって返信を忘れてしまいました。ごめんなさい。
>煩悩即菩提といいますか、生死即涅槃といいますか、そういうところを考えていましたが、どうかな。。
生死即涅槃、煩悩即菩提なら、
やっぱり生死や煩悩が先(因)ですね。
つまり人。「即」の解釈は南華さんとは違って
両側の文字の順序ありで考えてます。
ブッタ論理学が通用するように思います。
結局仏典って西洋論理学の概念で考えると、
長老みたいに「ならば」で考えるか、
南華さんみたいに「等値」で考える
しかなくなって、理解ができないから間違い
とするか、理解できても論に矛盾が
残っちゃうわけです。
「即」はブッタ論理学の接続詞でいうと何番目
でしょうね?
どっちにしても時間の前後を考えると割合
スッキリするんです。
でもこの推論恐らく真です。涅槃即生死や菩提即煩悩なる言葉が見つかればべつですけど。
>でも輪廻があるのは、ブッダのせいではない。草が育つのは、草のせい。火種があるのは、種火を守る火種のせい。草と火種があるのが、輪廻。輪廻の始源は知られない。
バラモンの輪廻ではなく、
ブッタの輪廻は縁起を表しています。
だから輪廻のない所では空もとけませんし、
成仏も原理的にできなくなります。
なぜなら変化できないか無限ループだからです。
人を個とおくか他とおくかの違いはありますが、
人を先(因)と見て大事にしなければとおもいます。
投稿 zapo | 2008/01/09 16:15
えび天サンバさま
どのような事象から学べる人は学ぶのですね。
恐れ入りました。流石、マニカナの住人は
一味違いますね‥。
muさま
ですね。 (^-^;
仲良くしたいと思います。
間違いを認めても認めなくても
見る人が見ればわかる事ですしね。
でも、、ふと、、思うと
みみっくさんも同じようなこと言っていたことを思い出しました。
「認めようが認めがないが真理はかわらない」と
muさんもみみっくさんにも慈悲の目で見てみるのも
‥。(単純な思いつきですので、おかえしとかの意味ではありませんので、誤解しないでくださいね。)
春間様
親愛なるガンコ親爺として認めます。
以後、”親爺さん”と呼ばせてもらいます!
引用文献に学者が確かに確認したのかを確認するというのも確かに必要かも知れませんねー。
いろいろあったけど、親爺さん実はなんか優しいみたいだし大目に見ておいてやるよ。 エッヘン。(笑)
人間なんか間違いだらけだ
つくろっても間違い
治しても間違い
悟っても間違い
死んでも間違い
しまいには間違いが間違いだとさ
おお、だから、生まれたんだとさ (笑)
投稿 zapo | 2008/01/09 15:39
zapo様。
春間様がなぜ事実に因する間違いを
認めようとしない事になっているか
そのお気持ちを汲む必要がありませ
んか。
案ずるに春間様の書き込みの内容は
決してただエゴを充実させる事を目的
とした内容だとは思えません。
人間である以上は主張をのべる時は
かならず何を言ってもエゴが混じり
ます。その恐ろしさを春間様はよく
ご存知です。真実を求めようとする
方ならそのような事を避けるために
経に照らして作用を仰ぎそれをもっ
て書き込みをしておられるのでそれ
は仏説です。
書き込み即仏説ですからその内容
に対して一人間たる春間様が訂正
をいれるような事ができようがありません。かなり良く解釈すれば
あるいは融通無碍の相の描写とも
言えなくもありません。
つまり「そのような歩み」が春間様
のあゆみであり、春間様の個性でも
あり、魅力でもあります。
このような歩みは大自然(リサイクル機構)が破壊されていなければ
正しく働くのですが、現在はその機構
がこわれているのでこのような
蹉跌が発生するのです。
現代自然の働きは破れ西洋論理学
的一貫性によって世界は支配され
制御されています。なぜか?
それは大自然の一部としての科学(西洋論理学)という文脈をを自然派
が西洋論理学側に提示できえなかった
という事が大きな因です。
西洋論理学は人間の欲望と密接に関係して欲望の増えるがごとく発展してきました。その結果できなかった事が
できるようになりあるいは願いをかなえる働きになる事もありますし自然の
サイクルを乱した張本人という意味
もあります。
自然派の方からみれば:
自然のサイクルを壊した張本人。
西洋論理学派の方からみれば:
権力や地位などを根拠とし論理
的な話ができない人たち。
お分かりでしょうが、この両見は
相対するが故に偏見です。
佛説ではどんな人でも。
任侠の人でも、犯罪者でも、
警察官でも、検事でも、
弁護士でも、中途半端でも、
嘘つきでも、学者でも、
天才でも、会社員でも、
プログラマでも、学生でも、
会長でも、政治家でも、
神主さんでも、大工さんでも、
事務の人でも、美人でも
何のとりもないという人も
本来佛です。
自然派の人は相手の属性を見極める
ところに一番心をくだくのです。
それが個性を守り、環境をまもる
事に直結しています。
これをstrict-localizationと名づけましょう。別々の公理を持つならそれがeach-areaとなり、インターフェース
は一ヶ所に定義される。公理が重なるならその重なりに応じてインターフェースが増える。このような構造
が自然派の構造です。
自然派の構造は任意に関係areaを
切り離す構造になっていることが
特徴であって、重要視される事は
1:area内での一貫性を保つ
2:他areaとの接続が自由にできるようにしておく。(普遍的なものを
もとめない)
3:初心者は小さなareaを管理する
ところからはじめる
大略この三つです。
自然派の人には自己のareaで一貫
した行動をとる責任がありその一貫性
を統一する無形の存在として真理があります。うまく機能するものなのです。
西洋論理学の人は理性の網に絡まって
そのようなareaを統一しようとしていますが、まったくできていません。
つまりそのようなものは求めては必ず
破綻するので求めてはいけない。すべてのareaだけでなくすべてのareaにつながるareaの関係を見つけ出すような
態度がただしき西洋論理学的作用です。
ちょっと長いですね。
要は仲良くいくためには相手を知る
必要がでてくるということの自覚を
持つべきという事です。
恐れていけませんね。internetworkingでいきましょう。
投稿 mu | 2008/01/09 14:50
春間様の文章は、利他意識を肯定した結果として現れるのに対し、zapo様の文章は、自利意識を否定した結果として現れているように思います。誰に宛てているのかを不明にして行う記述は、それが利他の意識からであればあるほど、越権となってしまうのではないでしょうか。記述の意図を明らかにしなければ、読者の理解に過度に依存する、もしくは、読者に理解を過度に要求することになるため、結果として記述者に甘く、読者に厳しい方法となると思います。
投稿 えび天サンバ | 2008/01/09 14:10
zapo 様
度々の、ご苦労様でした
(私にとって)
引用が適当かどうかは別にして、よくできました
ついでに、大宝積経も見ておいて下さい
24巻(と112巻 ― 菩薩と中道についてです 1~2c頃成立)です
ただし、SAT にあるのは、唐代の 菩提流支訳ですから、
智顗の見たそれは、晋訳か、その他と思われます
これは残っていませんので、、、、
内容を読んで会通するしかないのですが、、、、
投稿 春間 則廣 | 2008/01/09 00:45
春間さん
ほんと、自分の間違えを認めないのはみみっくさん
以上ですね。
>「菩薩の人は、但だ空を見るのみに非ず、亦た不空を見る」はどこでしょうか
>法華経では、菩薩の念が大切です
それもちゃんとでてますよ。
0375_,12,0765c16(02):
「善男子。菩薩不但因見三昧而見空也。」
ん、自分で探して無かったからといって、学者は皆いい加減みたいな発言するのは、問題ですよ。
私が探しても本当にあったら、春間さんの言う事が正しいホントですねと言うつもりでした。
でもチョット探せば見つかるのに「ない」というから「ウソ」というのです。
悪意もへったくれもありませんよ。
ただ真偽を表明しただけです。
あなたは自分が思っている以上にマニカナでは影響力があるんですよ。
だから、自分の間違えは間違えだと認めるべきです。
もし、zapoが真偽を書かなければ、ロムしている人は
例えば菅野さんの研究はその程度のものと思う筈です。
そうした害悪をまき散らしている事をあなたは反省すらしないのですか?
相手が私だから気にくわないかも知れませんが、
誰に言われたとしても間違えは間違えです。
これをスルーするならば、その程度のものです。
マジカルに書き込んでここを皆さんが見るようにするまでです。正否は世間に問いましょう。
まったく間違った話しを提示しておきながら「ご苦労様」もないものだ、、ブリブリw
投稿 zapo | 2008/01/08 23:48
zapo 様
ご苦労様でした
12巻0374 0523 と
12巻0375 0767 に
「聲聞縁覺見一切空不見不空」があります
「菩薩の人は、但だ空を見るのみに非ず、亦た不空を見る」はどこでしょうか
法華経では、菩薩の念が大切です
ただし !
三乗を壊せず、一乗を説く、大涅槃経は、智顗の法華重視に適うと思います
あなたの、私への悪意を取り除きさえすれば、とてもよい方向にいくかと思います
その執着が、記述の大事なところで、心を歪ませています
>しかし、 “それも” ウソです
という記述はいかがなものでしょうか
あまりそれらに言及すると、煩悩だけを見つめることになってしまいそうで、、、、
ここで止めます
あなたに、教示いただかなくても、出典を記述するのは、世界の常識です
(抜き出さなければ、誰も、そこのところに気づかないわけです)
今後、そのように研究書にあたられる事を願って止みません
惜しむらくは、反論のための抜書きでしかなく、經典の内容を自らの生き方とされようとしないところがあるかと感じるところです
投稿 春間 則廣 | 2008/01/08 23:00
春間 様
>宛先は、あなたではありません
あなたの返信が、それをはっきり示しています
でしたか。では誰に書かれたものだったのでしょうね。
>特に、あなたには !
とか書かれていたので、不特定の誰かではないと推測したのですが。どっちにしても宛名のない書き方をして誤解を招いているのは私ではありません。
あらま、、またも、自慢して間違いを冒してますね。
>この出典を、氏は、「大経」とは大乗の「涅槃経」>
>と次頁の注に解説しているが、
>正しくは、大宝積経24巻からの引用です
>全くの同じ経文は、存在しないのですが、大宝積経の大事な経文の内容です、
>大経とする場合は、いろいろのものがありますが、
涅槃経にはこれに類する経文はありません
涅槃経にも二つあるんですよね
北本と南本が、菅野博史氏は『南本涅槃経』のことを言っていると思いますよ。
実際ありますから。ないことに自分しか気がついてないと思っているようですけど、確かにそんな風に考える人はあなたしかいないでしょうね。
少し頭冷やした方がいいですよ。
<証拠>
0375_,12,0767c27(06):
「聲聞縁覺見一切空不見不空。」
不審であれば、SATで調べてみてください。
だいたい今の仏教学者ならいざ知らず、智顗が一々出典の巻数、行を述べて引用する必要もありません。
だから研究者は普通に調べるわけですよね。
で、春間様は日本の止観の解説書には引用の出典箇所を調べて記載されたものはないなどといってます。
しかし、それもウソです。
ちゃんと研究者は出典をあたり、それを確認する作業をしているのです。学問の世界ですから。
もし、疑うのであったらエム先生に聞いてご覧なさい。そうするのは学者じゃないですかね。
まあ、間違えは誰にでもあります。
一々気にする事はありません。
でも、残念です。しかも個々のログは消去できませんしね‥。
投稿 zapo | 2008/01/08 21:35
zapo 様
見当違いのようです
宛先は、あなたではありません
あなたの返信が、それをはっきり示しています
もう一度読んでみてください
それが届く人宛に、書き込んであることが、
分かるかもしれません、、、、、(これはあなた宛です)
摩訶止観の引用は、華厳、法華とあるだけで、
その華厳経・法華経のどこの巻からの引用かは記述していないのです
智顗は、引用経典名を知らせているだけで、
実際に、本当にその経文があるかどうかは、自ら引用仏典にあたるしかないのです
鎌田茂雄氏の件は、「天台小止観に学ぶ」大法輪閣122pにおいて
大正蔵22-0119c29の部分について(智顗の言葉の引用として口語訳があります)
氏には出典が不明のようですが、前期のごとく、はっきりしています
ほかに、雑阿含・華厳にも類似の記述があります
菅野博史氏にも、間違いがあります
法華玄義(レグルス文庫) 上 60p に読み下しています
大経に云わく「声聞の人は、但だ空を見るのみにして、不空を見ず。菩薩の人は、但だ空を見るのみに非ず、亦た不空を見る」
この出典を、氏は、「大経」とは大乗の「涅槃経」と次頁の注に解説しているが、
正しくは、大宝積経24巻からの引用です
全くの同じ経文は、存在しないのですが、大宝積経の大事な経文の内容です、
大経とする場合は、いろいろのものがありますが、涅槃経にはこれに類する経文はありません
そのようなことは些細なことと、一蹴することも人によってあるでしょうが、、、、
煩悩から、反論のための論を組むと、自らに戻ります
(自らを見つめつつ、この論を作ります)
投稿 春間 則廣 | 2008/01/08 15:10
みなさま
名前を忘れることが多くなりましたので、ちょっとまた設定を変えてみました。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
名前とメールアドレスを書かないと受け付けられないようにしました。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
名前とメールアドレスはセットになってるんですよ。名前だけ受け付けるというのがないので、メールアドレスを公開するのが嫌な人は、てきとーに@を入れてアドレスをつくって書き込んでくださいませ。よろしくお願いします。
投稿 管理人エム | 2008/01/08 14:27
春間さま
また、宛先のない返信を書かれておりますよ。
内容から私宛てかと思いますが‥。
華厳経の夜摩天宮菩薩説偈品
訳:玉城康四郎氏 仏典 Ⅱ
を読みなさいという意味で引用したのですか?
引用文だけのせてそれを汲み取れと言われても
禅問答じゃないんですから無理ですよ。
また、引用文だけしかのせない、あなたの手法は
止めた方がいいと思います。
相手がどのような捉え方をしようがそれは相手に否はありませんよ。
(もっとも、今回はそれに反応した私がidiotなだけすが、次からは主張のない引用文だけには反応しません。)
>今までの、中国、日本の止観の解説には、
>出典“箇所”を調べて記載したものはありません
ご自分の確信を文にするのはかまいません。
でも間違えですね。日本の止観の解説書には原文及び
書き下し文、和訳までのせているものすらあります。
幅広く様々な書を読まれているという自信がかえって
認識力を狭めてしまっているよい例になっているにすぎません。
投稿 zapo | 2008/01/08 13:49
SN5-1
燃えている
(法華経譬喩品「火宅」との関連)
かくあるけれども
仏教は燃えている
涅槃の火は寂滅しつつ
冷たく青く、そして、熱い、、、、、
灰の中に埋め込まれた炭のように
火種を残し
新しい、サンガ(サンソ)との出会いを待つ
投稿 春間 則廣 | 2008/01/08 11:46
zapoさま
> エム先生のそれは、流転する衆生であって、
> それを仏をも入れて卵か鶏かとやると、
> 火の無い燎原になりませんか?
あ、うーん、あらら。
煩悩即菩提といいますか、生死即涅槃といいますか、そういうところを考えていましたが、どうかな。。
草と火種とどちらが原因か、ということからすると、輪廻するものたち、それを救おうとする阿羅漢、菩薩などなどの仏教徒は、まだ始まりなき輪廻の中にある。
ゴータマも一人悟るときには、草でもあり火種でもあった。
ブッダとなってからは、火種のもとの種火になった。
でも輪廻があるのは、ブッダのせいではない。草が育つのは、草のせい。火種があるのは、種火を守る火種のせい。草と火種があるのが、輪廻。輪廻の始源は知られない。
投稿 管理人エム | 2008/01/08 09:30
春間さま
> 中村氏の訳は、冷たいですね、、、
そうですね。。。というか、「信ずることなく」の註を見ますと、先生は、よくわかっていないのでは、と思わせます。申しわけありませんが。
> (その葉には、仏教の面影が幽かに、透けて見える)
おっしゃるとおりです。仏教廃れ、大半ヒンドゥー教のインドですが、よく見ると、多くの思想家の中に「無我」が息づいていたりします。
現代の思想の中にも、仏教の面影が、透けて見えるように思います。
投稿 管理人エム | 2008/01/08 08:42
摩訶止観からの引用は、どこからかわかるように記述しました
それを引用したから、
そのままという見方がされているようです、、、、
華厳の引用がどこからで、
なぜそこを引いてあるのか、
前後の経文を読んで戴きたいから、出典を(調べて)記載したのです
特に、あなたには !
夜摩天宮菩薩説偈品を読んでいただきたかったのです
(お勧めする和訳は、玉城康四郎氏の、あまり問題のない訳が、先にお知らせした筑摩のなかに出ています)
(仏典 Ⅱ)
(華厳は、経文は簡単ですが、みな高く、なかなか読みにくいのです、)
法華経の出典も同様です(紀野一義氏のそれが同じ筑摩にあります)
今までの、中国、日本の止観の解説には、
出典“箇所”を調べて記載したものはありません
ほかの論書解説にしても、今まで出典箇所を記載したものをまず見ません
(中論のような、短いものからの引用は、別ですが)
(鎌田氏・三枝氏などは、誤った事を記載することもあるくらいです)
(氏等は、引用原典に一々あたって、読んでいないという単純なことですが、、、、、)
(そこに気づく人は、今までには、いませんでした)
(そのような読み方しかされていないということです)
自らの執着は、みることが難(かた)いものです
堅い信念も、念の建つところが問題です
(そこが出発点で、今いるところで、今の終着点です)
(一夜賢者経が佛典に組み入れられているのはそこからです)
最も簡単で、誰にでも分かる、仏法が
(自らによって)常に、覆われてきたともいえるのです
投稿 春間 則廣 | 2008/01/08 08:35
春田さま
>智顗の展開とはどのようなものでしょうか
摩訶止観にある四悉檀によって、一切法を一心に約し、華厳経の「心はたくみなる画師の種々の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し」を引用されたのかと思いました。
しかし、違っていたようです。気にしないでください。
>現実を第一義諦で捉えるということについても、理解できません
『摩訶止観』
「謂四悉檀因縁也。雖四句冥寂、慈悲憐愍於無名相中仮中相説。」四悉檀を心得て説いたのでないのであれば、私の勘違いですね。気にしないでください。
投稿 zapo | 2008/01/08 01:44
zapo 様
>智顗と同じ展開のようです
智顗の展開とはどのようなものでしょうか
智顗の展開どころか、
私は、自らの展開についても、客観できません
ご教示いただければ幸いです
また、
>現実を第一義諦で捉える
ということについても、理解できません
現実は、世俗諦で捉えると、どのように
広がるかも理解できません
お答えいただくのは、zapo 様でなくても構いませんが、ご教示いただければ幸いです
投稿 春間 則廣 | 2008/01/07 20:47
エム先生 春間さま
春間さまのそれは、智顗と同じ展開のようです。
現実を第一義諦で捉えると広がる原動力を失ってしまいそうに思います。
エム先生のそれは、流転する衆生であって、
それを仏をも入れて卵か鶏かとやると、
火の無い燎原になりませんか?
輪廻を解脱しない仏(法身)もいいのですが、
大乗のそれはバラモンの梵我一如とあまり変わらなくなりそうです。
なので、zapoはあえて今の人を因としておきたいのです。
そしてそれが今回のブログの意図だったのではないでしょうか?
投稿 zapo | 2008/01/07 01:29
管理人 エム 様
拙訳に、お言葉をいただき恐縮いたします
( 原意がよいだけです )
四行目に「を」を、重ねてしまいました
校正もせず、投稿してしまいました
削除してまた、というのもなんとなく癪だったので、
そのままです
私としては、文語調の友松圓諦訳が好きですが、
少し情緒が過ぎて、
時折、原意を膨らませるのではないかと思います
(うまく!ルビを使って、その膨らみを狙っている)
(非常に、計算づくの手法です)
(アルベール・カミユより技巧的です)
中村氏の訳は、冷たいですね、、、
厳しさとは違う、つき離しを感じます
不可思議(妙)ということを知らない人のよう、、、
>焼き尽くすと、燃えるものを求めて
>火は、次々と草原をなめるように進む
仏教の燃えた跡に、新たな草木が、芽吹く
まるで仏教など知らぬように、、、、
(その葉には、仏教の面影が幽かに、透けて見える)
>仏教徒は、いつも外からやってくる
仏教は、いつもその影を隠す
ブッダは、心のひだから、いつも私を眺めている
投稿 春間 則廣 | 2008/01/06 20:11
春間さま
ダンマパダ97の訳、とてもよいですね。
中村先生のとちがいますね。こちらが、いい!
「信じて たよることなく」は、春間さまの訳ですか。
「信じてたよることなく」と、一語にしてしまうのと、どう違ってくるかなぁ。。。。
zapoさま
> 火種と草はどちらが因でしょう?
春間さまのおっしゃる「心と衆生と仏の三には差別は全くない」を借りるなら、
ここから、『サンユッタ・ニカーヤ』15.1のブッダの言葉「輪廻はその始めなきものであって、生きとし生けるものが、無智におおわれ貪欲に縛せられて、流転し、輪廻したる始源は知ることをえない」が出てこないでしょうか。
鶏が先か卵が先かは知ることができない、ってことかな?
ちょっと、話が落ちましたか。
投稿 管理人エム | 2008/01/06 12:14
>仏か衆生か
火種と草はどちらも同じものです
草に因を求める火が、草を火種と名づけます
佛も、有情(衆生)に因を求めます
華厳経の偈には
「心と衆生と仏の三には差別は全くない」
とあります
華厳経夜摩天宮菩薩說偈品第十六
0278 0465c14
法華経「法師功徳品」
諸説諸法随其義趣皆與実相不相違背
摩訶止観(巻一 終部 1911 10b10)
一切世間治(資)生産業不相違背
投稿 春間 則廣 | 2008/01/06 08:56
燎原の火
草も生えない大地には火が広がりません。
火種と草はどちらが因でしょう?
仏か衆生か?
投稿 zapo | 2008/01/06 02:27
ダンマパダ 97
信じて たよることなく、
為さざれるところを鎮まったところと知り、
生死に想うことなく、とらわれることなく、
執着の反芻ををはきすてた人
かの人は、たかきところに生きる
投稿 春間 則廣 | 2008/01/05 22:24