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2008/01/31

論理は真理? 

つ、疲れました~~

昨日、今日レポートを330人分
読みまくる。

ぶっきょのレポートは、ほんと、まずいわ。

ぶっきょ、って、もう、むずかしいんだわね。

わたしも、ものすごく力入れて

縁起と中道の話をして
龍樹の話なんかしたもんだから
まずかったわね。。。

学生さんは、そこをレポートした人が多かったけど
もう、まったく、アップアップでした。

悪戦苦闘はしてることがわかる。
一生懸命だというのもわかる。
なんかいいたいのもわかる。
わからないのは、中身だけ。

龍樹。。。きみ、概論向きにできてないのね。

来年から、少し考えよっと。

それでも、なんとか龍樹に食らいつこうとしてる学生さんもいて
ほほえましい。

少し前にとった画像です。
005

 
 
 
  
 
 

少し、これで和みます。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

さて、「ブッダと論理の微妙な関係」について
スマ長老さまより、ありがたくもお言葉をいただいたので
ここで、ちょっと、

論じてみたい、おほん!

http://gotami.txt-nifty.com/journal/


「真理は論理的ですが、論理は真理ではありません」

これですね。
この一文は、非常に微妙なところを表現していて、
なんとも、言えない感じです。

上座部としての立場が示されているのだと思いますが、

たしかに間違いではない。。。と思う。

だけど、
ブッダ論理学者(あれ、いつから?) としては

もう少し、述べてみたい。

「真理は論理的である」について、これはよい。

問題は、後半ね。

「論理は真理ではない」

これですよ。

間違いとは言えないと思うが
でも
正しいとも言えない、と思う。

ここでいわれる「論理」というのが、何か、によると思う。

「論理」を、即、「言語」と見なすなら
スマ長老さまの、おっしゃるとおりでしょう。

しか~し

わたしの述べている「論理」は、じつは、必ずしもそうではない。
ブッダ論理は、ブッダ世界のどこにでもある。

 語りたいことが自然に口から出てくるような、
そのような語りのなかで人々が理解しあえるとき、
わたしたちは幸せである。思考の流れがスムーズで、
おたがいのあいだを時間がゆったり流れているとき、
わたしたちは微笑んでいられるだろう。
そして、その語りが論理に則っているということを知れば、
いっそう心おだやかである。
「論理的でない」などと非難されることもなくなるからである。
(『ブッダと龍樹の論理学』より)

論理は、
ブッダの語りの中にある
が、
論理自身はことばで表されない。
それは、「形式」だからである。

それは
語りをとおして、
わたしたちに伝わってくる。

そのような論理が、伝わるとき
わたしたちは、満足して、もはや
言葉を交わすのを止めるだろう。

論理が行き渡るとき
わたしたちの心は
安らいでいて安楽である。

それは、涅槃である。

なぜ、そういうかというと
そのとき、行(サンスカーラ)は消え
疑問(煩悩)はなくなっているからだ。

わたしは、論理で、そこまで行けると思う。

「行ける」というのは、経験ではない(残念ながら)
「行ける」というのは、道理による。

だから
「論理は、真理である」といっても
まちがっていないように思う。

もう少し、言い換えれば
「どこまでも論理的であること、それは、真理である」

これで、どうかな。

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コメント

Naagitaさまからあわにさくへのお答えはありませんので、「Naagitaさまのご意見は、あわにさくを、ちんぴらと同列視さようと狙う印象操作ではない、下卑で低劣な意図に基づく文章ではない」と解釈致します。

投稿 あわにさく | 2008/02/18 10:25

naagitaさま、長老様を敬愛される方ならごもっともなご意見です。

ただ、私もこのスレで問題になっている部分について
>>ブッダの教えはたまたま厳密に論理的になってしまったのです。仰ったことが永遠不滅の事実だからです

の部分ですが、「たまたま」という言葉が適切なのか良くわかりません。
naagitaさま、お分かりでしたらご教示ください。

投稿 餓鬼道 | 2008/02/16 11:02

naagitaさまのご意見は、あわにさくの
「少なくとも著作においては、おそらく、日本語の文章・用語などの問題、相当に大きいでしょうね。」に向かっての批判ではない。
と、受けとめております。先ず以て、あわにさくは「日本語能力」のせいになどしていませんものですから。
以上、このサイトで遊んでいるものからの、“目は通しました”という“挨拶のようなもの”と致しまして、一応、お断りして置きますものです。

投稿 あわにさく | 2008/02/15 20:13

Naagitaさま、こんにちは。

猫ちゃんですね。わたしはsnowこんなのにしてみました。

スマ長老さまの「日本語能力」のようなご批判めいたものは、ほめことばの一種ですよ。批判できそうなところが、そこしか見あたらないということですもん。

たとえば、スマ長老さまの「パーリ語能力」なんて、口に出すのさえ、こわいですからね。この日本の中でぜ~ったい誰も何も言えないです。わたしだって、書いてて手が震えます(笑)。

非常にシンプルに要点をついて語られているスマ長老さまのことばを、どのようにどれだけ受け取るか、わたしたちが、じつは試されていると思います。わたしたちのイタイとこ、つかれちゃうから、条件反射で反発が出るのじゃないでしょうか。

わたしなんか、一言聞くたび、正直いうと、心臓とまりそうなんだから。ほんと、深くてこわいすよ。

だけど、それでめげないわたしも、われながらこわいす(笑)。

批判が出れば出るほど、それは誉められてると思って、もっともっとがんばってくださいっ!

投稿 管理人エム | 2008/02/15 16:45

cat長老の本を理解できないのを「日本語能力」のせいにする人がいますが、話にならないたわごとと思います。長老と対話して論理的にやりこめられた人が「あいつの日本語はわかりにくくて」等と陰口を叩いていたこともよく知っています(天網恢恢なんとやらです)。実際に日本語のあやふやさ、いい加減さを正されたのはどっちかと、失笑を禁じえませんでしたが。悲しくなるような精神的な排外主義というか、同胞の精神的醜さを見せ付けられた気がして恥ずかしくなりました。そういう類は珍しくないということですね。日本に生まれたからと言って日本語能力があると思っているのでしょうか?鼻くそほじって妄想していても、高度な論理性が身に付くと思っているのでしょうか?外国人が反論できないと思って、「日本語能力」を持ち出すのは自分の理解能力や固定観念の壁を棚に上げる恥ずべき態度ですし、他の読者のこともバカにしています。

投稿 naagita | 2008/02/15 15:43

おことばにあまえまして。
A・スマナサーラ氏の著作からは、講話を編集したとおぼしき、さらさら短時間で読める読み物から、たとえば「過去未来に軽んじていたもの重んじていたもの」について、「その軽んじていたものは重んずべきものではないか」「その重んじていたものは軽んずべきものではないか」と考え直すきっかけを得た事もありました。テーラワーダ仏教的にどうかはわかりかねますけれども、また他からでも得られるものかも知れませんけれども、感謝する理由の一つです。

投稿 あわにさく | 2008/02/06 17:16

エム先生
>「龍樹と問答、君の詭弁度、ちぇ~っく!」
サンセーcancer(笑)

投稿 えび天サンバ | 2008/02/06 12:38

あわにさくさま あるくさま

まったりと、ここでお話ししててもいいですよ。くつろげるかも。。。happy01な、なんだ、この顔!

絵文字が書けるようになったのかぁ。お顔マークをクリックすると出てきます。ビックリしたわ。

> 「よき著作を後世に遺すべく、必要とあらば、HPとの関わりを、少し変えてみる。」という料簡もありでは? と思い浮かびました。

あわにさくさま、なんと!
わたしも、もう、ここまで龍樹にふりまわされる人生なんだから、サイトも龍樹一色にしちゃうか。。なんて、最近、思ったり。。。

「管理人のなりきり生龍樹が拝めるサイト」とか、どうだろ。
それとも
「龍樹と問答、君の詭弁度、ちぇ~っく!」はどうかな。

。。。。なんて、思いつくなよ。。とほほ。


投稿 管理人エム | 2008/02/05 22:39

エムさま

>今さら遅いですが。
遅いとは?(←これは、単なる、反射的な対応です。考えていません。)

ところで、これは余計なお世話ですけれども、「よき著作を後世に遺すべく、必要とあらば、HPとの関わりを、少し変えてみる。」という料簡もありでは? と思い浮かびました。

投稿 あわにさく | 2008/02/05 13:13

あるくさま

(わたくしも、先生の掲示板でご返事することをお許しください。)

わかりにくい文章にご返事、ありがとうございます。

昨日、A・スマナサーラ氏の著作に対する、具体的な
批評は、したくなかったということもありまして。

そうですね。日本語の文章・用語などの問題ですね。
少なくとも著作においては、おそらく、日本語の文章
・用語などの問題、相当に大きいでしょうね。

投稿 あわにさく | 2008/02/05 12:33

あわにさく様、初めまして。

(先生の掲示板でご返事することをお許しください。)
私は、友達(自分の寺の敷地内にテーワーダの施設を建ててしまった)に触発されてスマナサーラ長老様の本を読み始めました。
機関紙も読んでいたのですが、どうにも日本語が解り難い箇所が多々あり、両方とも読むことをやめてしまいました。

得るものはたくさんあります。原始仏教で解り難い箇所が氷解したこともあります。
大いに参考になりました。
優れた学者であり宗教者である長老様の日本語がもう少し上達されたら、または訳者の訳文が読みやすくなったら、また読もうと思います。

投稿 あるく | 2008/02/05 11:26

あわにさくさま

おそるおそる検索して、自分のカレー日記読んじゃいました。
ほんと、毎度のことながら、冷や汗でます。

なんかこういう人生って、ちょっとまずいような気がしてきました。。。今さら遅いですが。


投稿 管理人エム | 2008/02/04 18:04

余談ですけれども、ふと、検索エンジンに、【ブッダの実践心理学 第3巻】と入れて検索してみますと。【管理人エムのカレーな一日: 『ブッダの実践心理学』第三巻 出ました。】が、結構上位に、ありました。

投稿 あわにさく | 2008/02/04 17:06

あるくさま はじめまして。
 
以下は、あるくさまのご発言に触発されて浮かびました、A・スマナサーラ氏の著作に対する感想です、実は、特にあるくさまに対してというものではないのですけれども。
A・スマナサーラ氏の著作は、結構いろいろ持っています。しかし、友に、仏教書を尋ねられたとして、A・スマナサーラ氏の著作につきましては、正面切っての推薦はできません(すなわち、単に仏教書を尋ねられただけだったならば、A・スマナサーラ氏の著作のことは口にしません)。理由は(理由・理屈・説明などは、後から付けるものですけれども、)、おのが愚・痴が為かも知れません。友に、A・スマナサーラ氏の著作は如何と尋ねられたら、相手により答えは変わるでしょうが・・・ ただし、A・スマナサーラ氏の著作から、最初期仏教に関心を持ち、パーリ仏典を知り、石飛先生や宮元先生の著作を知るに至りましたもので、A・スマナサーラ氏に恩誼はあります。
『ブッダの実践心理学 第3巻』をはじめ、これからも参考書として役立てようと思う本もあります。

投稿 あわにさく | 2008/02/04 15:26

>ヴィパッサナー冥想は、お国の方に薦められたら良い

日本で行じてもよいことです
もちろん、スリランカでも
日本では、同じ(そうでなくてはならない)ところに、ヨーガの瞑想も、仏陀の瞑想も、ブッダの瞑想も、法華経の止観も、禅宗の座禅も、あります

それが、みな、“ブッダ”のみる方向を見つめることであれば、八萬四千の法門の一つづつであり、
まさしく “ 真理 ” に 基づく 、 “ 仏陀 ” .の行です

投稿 春間 則廣 | 2008/02/01 20:37

あるくさま

たしかに「たまたま」には、ちょっと「あれ」とひっかかりますね。
仏教には「たまたま」ということはないだろうと思います。

ただ、わたしも弱いところがあっって、「論理が行きわたった『あとに』真理がやってくる」といわれると、うーん、とうならざるをえません。微妙だなぁ。

といっても、わたしたちは言葉を使わなければ生きていけないわけですから、論理を知ることはよいことだと思うんです。
人生は、長く「あるく」道ですもんね。

投稿 管理人エム | 2008/02/01 19:35

先生のご意見に賛成です。

>ブッダの教えはたまたま厳密に論理的になってしまったのです。仰ったことが永遠不滅の事実だからです

それなら「たまたま」ではありませんね。
そのあとで
>ヴィパッサナー冥想をすると理性がどんどん育ってきます。理性の目でみると、摩訶不思議に論理的になります

とも言っているし。

「心の科学」といい始めた頃から、日本語がわかり難いこともあったし、長老様の本を読むのをやめました。科学で心はわからない。
ヴィパッサナー冥想は、お国の方に薦められたら良い。

投稿 あるく | 2008/02/01 10:18

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