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2007年2月25日 - 2007年3月3日

2007/03/01

銀座のマダムと同じよ、るん

昨日、お昼ご飯にテレビをボンヤリながめていたら

銀座で、お買い物をするマダムのお財布チェック

というのをやっていました。

変わったことするのねぇ
と、ボーッと見てますと

ほんとに道行く人を止めて
お財布を見せてもらっていました。

中に入っているものを出して
チェックするのです。

で、財布ですから
お金が入っています。

一万円札が、1枚とか
千円札が、2枚とか 調べてました。

で、その他に
たくさんの人がカードをもっているのです。

へぇ、現代っ子ね。。。っていう問題ではないな。
マダムだし(笑)。

クレジットカードやキャッシュカードの他に
どこかの店のポイントカードのようなものとかも含まれます。

たくさんもっている人は十数枚ももっています。

それでお財布がぱんぱんになっているのです。

それ見ながら、「ああ、わたし、銀座にいなくてよかった」って
心から思いました。

わたしも、カードもってるのよ。
お財布に入れてるの。
それもたくさん。

カードはカードなんだけど、
ちょっと、特殊なものでな。。。

図書館で、借りようと思う本の名前や
書店でチェックしようと思う本の名前を
名詞くらいのカードに書いておいて
財布に入れておく。

どの図書館に行っても
すぐ本があるかないか調べられるし
前に借りた本でも、またカード見て
かり出せる。

書店でも、探すのに楽だし
他に目移りして、何探してるか忘れることもない。

たまたま図書館に立ち寄ったときも
懸案の本を思い出せるし、
便利だなと思って
どんどん入れていったら

お財布ぱんぱんだっ!
うふ!銀座のマダムとおんなじね。

あ、お金入るとこない。。。。おばか

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2007/02/28

教師が教師だと学生もたいへんよ

はたらく管理人ですっ!

またまた、恒例の机の整とんをしました。
ゴミの大袋4つ、作ってみました。

作りたくて作ったんじゃないす。
自然にできちまったんです。

わたしの、かわいい学生さんは 
すんごくよい子だったことがわかりました。

なんと後期だけで、
授業で書いて提出してもらった用紙が
重ねて積み上げると
30㎝を超えました。

ええっ!すげぇ!
すみません、品がなくて。

こんなに書かせてたのか!
なんちゅう教師じゃ。

あ、またでてきた。
この袋にも詰めてたんだわ。

今の学生さんて、えらいのね。
きっと、世間を、何も知らないから
言われたとおりにやったのね。
よかったわ。。。世間知らずの1年生で。

それなのに、
「もっと、ちゃんと考えろ」なんて
文句言ってゴメンね。
(っていっても、肝心の学生さんは、聞いてないと思うけどさ)。

それにしても
読んだわたしも、すごいよね。
どうりで、後期は、なんだか
疲れるなぁ、って思ってたのよ。

これにプラスして、龍樹もやってたのか。。。
どうやって生きたんだろう。

ううむ、人間というのは
けっこう
しぶとい生きものなんだなぁ。。。。

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2007/02/27

「悟り」考

えび天サンバさま、春間さまのコメントに触発されて

「悟り」について、少々考えてみました。

「悟り」というのは、「煩悩を滅すること」と
簡単に言ってしまえるけど

このとおりにするのは、並大抵のことではない。

だから、なかなか悟れる人がいないのだ。

で、

むずかしい「悟り」に近づくための方法は
いろいろある。

1 瞑想などによって、心の鍛錬をつむ。
2 いろんな身体を使った修行をして、自分の煩悩をなくすようにがんばる。
3 理屈で見取り図をこしらえて、実行してみる。

どんなやり方でも、悟れると思う。
たぶん決まったやり方はないのだろう。

で、羅什訳『中論』の、僧叡の序を見ていたら
こんなことが書いてあった。

中論は、五百偈である。:龍樹菩薩が、造ったものである。
「中」をもって名前とするのは、その真実を照らすからである。
「論」と称するのは、その言葉を尽くすからである。
真実は、名づけられなければ、悟れない。
だから、「中」という言葉によって、これを述べるのである。
言葉は、註釈なしには尽くすことができない。
だから、論をかりて、これを明らかにするのである。

注目したいのは

「真実は、名づけられなければ、悟れない」

というところ。

1でも、2でも、なにも言葉で言わないのではなくて
やはり、「心を無にしなさい」とか「お布施をしなさい」とか
何か言葉で言われる。
つまり、名づけられる。

あるいは、
龍樹のように
「中」ということによって、悟りを説明する。
この「中」というのは、「中道」のことね。

「悟り」は、言葉で言い表せないのかもしれませんが

じっさい
「悟り」ということについては、みなさん能弁なのです。

なんとか説明しないと
どんなものかわからないからですよね。

ほんとに悟っていたら、
それをあらわす表現や行為やが
その人なりにできるはずです。

それは、悟ってないわたしたちが見ても
すぐ わかる! と思います。

その表現や行為や作品の中に

「一切智」という観点が含まれているかどうかで

見つけることができる

と思います。

「一切智」といわないときは
「完成されたもの」と言います。
「完璧」でも「完全」でも
いいかもしれません。

生まれてきた人間の「完成」は何でしょう。

それは、誤解されそうでちょっと言いにくいですが、

かくじつに「死ぬこと」です。

「コイツハかくじつにイキのねを止めたゾ」って、
言ってもらえるようなとき
「完成」しているのです。

たとえば、お釈迦さんみたいにです。

それが「涅槃」ということであり
「滅」ということであり
「出離」ということであり
「離欲」ということであり
「解脱」ということであり
「不死(甘露)」ということであり
「常住」ということである。

未完成の人間は
死ねないので、
ずるずる生を引きずって輪廻しちゃう。

完成した人は、生と死の体系の中で
完全に「閉じている」。
他の影響を受けない
不変そのものです。
永遠と言ってもいいのです。

だけど「有」じゃない。

なぜなら
閉じているからです。
なので
「無」なのです。

へぇ~、そうだったのかぁ。。
と、自分で言ってるなんて
問題かもね。

変かもしれないけど
アップしちゃお。

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2007/02/25

こころ はっけん!

昨日は、ヨガ・スクールのみなさまとお話してきました。
今回は、ちょっとひねってみましたよ。

仏教 
かくも合理的で科学的な、
まるで学問のような宗教
こんな宗教は、他にはない。

最近では、このようなイメージをもつ人も多いかもしれません。

これは、仏教の重要な側面だと思います。
合理的であり理性的であり知的であり
人の心をじっくりと観察して得られた
ありのままの姿を語っています。

インド思想も同じです。
ヨガは心を科学的に分析する

わたしも
かっこつけて語ってきたのです。

今までは、このような側面を
いやっというほど
語ってきたのです。

で、

昨日は、
これまでとはいささか趣向をかえて
これら「合理」を超えたものについて
ちょびっと、語ってみました。

「心」というものは、
ほんとうに不可思議なものだと思います。

理性だけでは割り切れぬ

ブッダは、
心を
観察(ヴィパッサナーの瞑想)

実験(サマタの瞑想)
によって
科学した。

だからといって、
わたしたち現代人が
非科学・擬似科学と思っているような
呪文・迷信・占いの要素を
残りなく捨て去ったわけでもない。

このあたりの説明が微妙でむずかしい。
呪文や迷信を認めたというと
ちょっと嘘になる。
では、
認めなかったかというと
それもそうでもない。

「心」にせまれば
凡夫には
神秘とか迷信とかマジックにしか見えないようなことも

いくらでも出てきてしまう。

梵天が現れたり、マーラ(悪魔)がでてきたり、
神が出現する世界も、また、ブッダのいた世界である!
ブッダは、とう利天にお説教にいったりもする。
授記をあたえる、神通も使ったりする。

って、

こっちの方も、語ってみました。

こちらの話は、
うまく言ってる意味をつかんでもらえないこともあるので
少しおそるおそるでしたが
ヨガの人達は
心と身体のエキスパートなので
スルッとつかんでくれました。

「心」には、ふつうに暮らしている人には
気づかないような
そんな側面もある

らしい。

経典からは、そんな部分も学べる。。

だから
ブッダの教えは
すばらしい。

心 発見の旅
これが、仏教かな、どうかな?

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