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2007年11月18日 - 2007年11月24日

2007/11/20

とつぜん降るなよ

昨日は、寒かった。

苫小牧は雪でした。
バスを降りると、学生さんが一人
るんるん雪と戯れてました。

「楽しいです!」といいながら
雪玉作ったり、写真撮ったり。

「こっちじゃ、予告なしに
雪が降るんですね」

「ええっ!ふつう、雪は
『これから降ります、降ります』って
言わないと思うけど」

「ぼく、東京なんですよね。
あっちも降るけど、こんなとつぜん
降ることはないです」

そうか!たしかに、起きたら
雪景色、ってのは、こっちじゃよくあります。

そんじゃ
「起きたら、そこは雪国だった!」をご覧ください。

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二つの写真の間のスペースに
学生さんがいて
るんるんしてます。

いや、それにしても寒い大地だ。

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2007/11/18

ブッダの法は人類の奇跡である

たとえば、こんな意見がある。

歴史上のブッダは、人々にあわせて教えを説き、
それを弟子たちが編纂して、経と律にまとめた。

現在ある仏教の経典は、
古いと言われる上座部の経典でさえ
幾多の年月をかけて現行のものになったのである。

だから、ブッダの説いたものはほんとうは何か、
わたしたちは直接知ることはできないのである。

このように言う人は、けっこう多い。

たしかに、上座部の経典も、上座部の長老が
「これが、ブッダの教えである」と
受けとったものを師資相承、つぎつぎ伝えてきた集積物なのである。

では、ブッダの教えは、そこから直接に知られないだろうか?

たとえば、知られないと言う人は、
伝言ゲームのようなことを考えているだろう。
つぎつぎ聞いたことを次の人に伝えていくと
最初の伝言は、最後にいたると
見るも無惨にまったく異なる内容になっている。

1.ならば、ブッダの法だって、伝言ゲームのように
変化しているのではないか。

さらに、また、最初にブッダの法を受けとった弟子についても
問題があるだろう。
そこに、弟子の主観が入ってしまっているから
ブッダみずからのことばとはもう違っているだろう。

2.ブッダの説いた表現や言葉づかいのとおりには、
わたしたちは永遠にブッダの法を知ることはできないのである。

1と2により、歴史上の人間ブッダの言説には、
わたしたちはお目にかかることはできない。
ブッダの法は知られない。

このように言う人は多いのである。

■では、考察してみよう■

★まず、2について。
ブッダの言ったとおりの表現や言葉づかいを知ることに
どんな意味があるのだろうか。

ブッダの言ったとおりの表現や言葉づかいが
知られなければ
ブッダの法は知られない
のであれば、
ブッダの法というのは、
その内容よりも
表現や言葉づかいの巧みさ美しさに
重要性があったことになる。

人に心地よい言葉を与えるだけなら
別に、ブッダでなくてもできるだろう。
その人に合わせて説いたという法が
その人にしか感銘を与えないものであれば
ブッダの法は、あまり普遍性をもっていたとは言えないだろう。

しかし、ブッダは法を、人にあわせて説いたのだけれど
その言葉は、聞いたその人ばかりではなく
その場にいる多くの人々に真理であると実感させ
納得させたのである。

ここには、たんなる表現上の巧みさ以外のものがある。
そこにあるのは、言葉と言葉をつなぐ必然的な関係である。
確実に人を納得させる論理がある。
それは、必然的な心のあり方である。

これを理解した者は、ブッダの法を自分の理解したとおりに
あやまたずに伝えられるだろう。

表現や言葉づかいの問題ではなく
真理をとらえたその心のあり方が、伝えられるのである。
言葉というロゴス(論理)によってである。

2500年間、結局、そのようにして仏法は伝えられてきたのだろう。
言葉を介して人の心のあり方(=渇愛の滅尽)を伝えているのである。

そういう意味では、どんな言葉づかいでも、どんな国の言語でも
ブッダの法は伝わっていくのである。

★次に、1について。
伝言ゲームのように伝えるうちに変化してきたのではないかについて。

たんに言葉だけであれば、変化もするかもしれない。
しかし、伝えてきたのは、心のあり方である。
その人が、そのような心にならなければ、次に伝えることはできない。

ブッダが亡くなった後、即、500人の阿羅漢が集められたのには
ワケがある。
阿羅漢でなければ、ダメだったのである。
ブッダと同じ境地に達していなければ
ブッダの法は正しく伝えられない。
先に述べたように、心にかかわることがらだからである。

伝言ゲームではなかったのである。
言葉を伝えているのではなく
「心」を伝えていったからである。

阿羅漢が伝えた法(阿含経典)は、ブッダの法である。
なぜ、それがわかるか。

阿含経典が、論理的に完璧だからである。
完全な体系だからである。

「完全で完璧である」という、ただそのことだけによって

阿羅漢は、ブッダと同じ境地にあり、
また、
ブッダは、阿羅漢と同じ境地にあることがわかる。

この世の誰も成し遂げられないような
神の領域にあるようなことがらを目にしたとき

わたしたちは、自分の目を疑うしかない。
ありえない!
しかし、現実にそうあるとき

わたしたちは、この世において
奇跡を
信ずることになるのである。

ブッダの法は、人類の奇跡である。

不完全なはずの人間が
完全であることを
示した一つの奇跡である。

わたしたちは
ブッダの法にふれるとき
歴史上ブッダと言われる人が存在したことを
たしかに知るのである。

もしブッダがいないのなら
この法があることを
どうやって納得したらよいのだろうか。

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落葉松はさびしかりけり
すぎゆくはさびしかりけり
法はさびしかりけり。。。ブッダも見てくれよ、法を見たらば


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