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2007年4月22日 - 2007年4月28日

2007/04/28

梵天、梵天、ぼんてん、ぼんて。。。

今日は、朝日カルチャーセンターで
お話ししてきました。

ここにお知らせを書こうかなと思いましたが
昨日は
ぜんぜんうまく話せる自信がなかったので

お知らせする勇気が湧きませんでした。
終わってから、お知らせしよ、って思ってね。。へへ。

で、今、お知らせしてるとこです。

で、ゴータマ・ブッダのお話でした。

ほんと、自信なかったのよ。。。

なのに

口を開いたとたん
話が止まらなくなり
1時間35分ノンストップで
しゃべって
「もう終わりなんですかぁ」と
未練たらしく
やめる羽目に。。。

ったく、どういう性格なんだろ。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

仏伝などで、よく現代人にとって解釈しにくい内容が
書かれていると

後代の編纂者が
神話化をはかった

などと言われます。

最近、このような意見は
どうかなぁと思うんです。

そういう解釈は
自分たちにとっての
整合性を優先させたものであ~る。

ちょっと理解できないからといって
すぐ否定してしまうのは
問題ではなかろうか。。

たとえば、
成道後に、教えを説く気持ちがなくなっていくお釈迦さんに、
梵天が
「世間は滅びてしまう、どうぞ教えを説いてください」と
頼むところがあります。

これは、お釈迦さんの胸の内に実際にすばらしい発想が
起こったということで
それを、経典の文学形式としては
このような言い方をとるのが常套であるっと
増谷先生はおっしゃいます。

「文学形式としてこういう言い方をする」というのも
なんだかわかったようなわからないような。。

梵天が出てくると、まずいですかね。
非合理的に見えるのかしら。

心に重きを置く 
ブッダの思想は

ものにのみとらわれる
現代人には
なかなかわからないところがある。

だから
そのことをよくわきまえて
書いてあることは
とりあえず
そのまま読むとよいのではないか

思います。

そのうち、自分の理解が深くなると
納得できるようになるかもしれないしね。
すぐ説明をつけてしまう必要はないような気がする。。

最近、現代人の「もの」にばかり執着する
その心のありようの方が
なんか、変だ と思うのでした。

なんせ悟ってる人なんだからね!ブッダは。

悟りのことなんか
何にも知らないのに
何で、梵天が出てくるのが
おかしいなんて言えるのか

しみじみ考えると
そっちの方がよっぽどおかしい。。。

と、
過激に思うのでした。

この意見、
自分じゃ
すんごく正論のような気がするんですけど、
おかしいかしら?どう?

だってね、

梵天、梵天、梵天、梵天。。。
ほらね、言ってると、変じゃなくなるでしょ。。

慣れると、梵天も出てくるんじゃないか、って
そんな気がする。。。変?

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2007/04/26

諸行は無常なんですけど。。

4月16日
Image018_14月23日
Image0264月24日
Image027

変わるもの。。

何でしょう?


管理人の
立ち位置。

うーん。。

同じ場所で、同じカメラの位置に
しないとダメだ!

空気中にバッテン書いておくには
どうすればよいか
考える愚か者だった。

池に落とした物を見つけるのに
船の縁に目印つけた話よりマシかな?

似たようなもん?
やっぱりね(笑)。

だんだん疲れがたまって
ものを考えるのが
つらくなってきました。

連休よ。。はよ、来い!

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2007/04/24

怒っても、仏教

管理人には、足がある。

だから、
最近、よく歩くのです。

北大の中をぬけたり
駅前をちょろちょろ歩き回ったり
仕事帰りに
今日は、近代美術館にも寄りました。

空海曼荼羅展を見てきました。

両界曼荼羅図を拝見!
すっばらしいのです。

4メートル四方の立派なものです。
でも、かなり色がかすれて文様が
はっきりしません。
赤外線写真やレントゲンなどでとった下絵の
線描画は、とても精密に描かれています。

完成当初はどんなにすばらしかっただろうと
思わせられます。

空海直筆とされる、三教指帰も見てきました。

運慶の八大童子像は
みごとだし、ほんとにほれぼれする。
まるまるとした身体に、きりっと厳しい表情が
よく似合う。。

一人だけ、
お釈迦さん顔の阿耨達(あした)童子が
なんか、ぱっとしない。。
もっと きりっとしなさい
と心の中で文句を言ってしまう。

厳しいと言えば

快慶の不動明王と愛染明王の
忿怒の形相は 
なぜだかわからないけど
チョーステキ!
うっとりと見ほれる。

そうだ!怒れ!
もっと怒れ!
拳を振りかざせ!

と、大いに共鳴する。。

こうして 管理人は、イカレた。。(おい)

冗談はおきまして
なぜかは知らねど、最近、

「怒る」という形相に

魅力を感じるのです。

瞋(いかり)は、捨て去るべきもの。。。なんだけど、
忿怒の形相は、捨て去るべきもの と言われてないもんね。
などと、言い訳しつつ

なぜだろうと思う。

「怒る」というのは、
人にメッセージを伝える簡便な方法だからかも。
「怒る」と、みんなビックリしてこっちを向いてくれるしね。

みんな、 まじめに 聞いてくれる。。。。。
ふぬけた精神がぴりっとするような気がする。

う~ん、これかなぁ。
真剣になってもらいたいからかもしれないな
って、思いながら
人間て、おもしろいなと思うのでした。

「怒り」は、みんなに嫌われる。
ブッダも、怒りを捨てなさいと言った。
そうだと思う。
怒って、いいことなんか これっぽっちもない。
すぐに自己嫌悪とともに苦しみがやってくる。。

だけど、「怒り」はいつも人間とともにあったのだ。
怒るなんて嫌だ、と思いながら、「怒り」と一緒にいる。

まぁね、かなしい友達なのさ。。嫌われ者の、ね。

だから

この不動明王の忿怒の顔には、どこか
悲しみが宿っているような
感じにも見えるよね。

いいよね。仏教って、さ。
怒っても、仏教なんだもんな。

って、思って帰りましたとさ。。

ちょ、ちょっと!
管理人!
か、かおが、不動明王に似てきてない。。。

まずい!見過ぎた。

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2007/04/22

驚き・疑い・自己、そして、悪魔の話

「哲学は驚きからはじまる」というフレーズ
なにげに書いてしまいましたが
カラスノエンドウさまにコメントいただいてから
かえって、意識にのぼってきました。

そういえば、どこで見ただろう、とあらためて
考えていました。
アーラヤ識の中に入っていたらしい。

夫が、「ヤスパースの『哲学入門』にある」と
教えてくれました。

三つの根源的動機と題して
その最初に、プラトンの言葉があり、
次にアリストテレスの言葉も引かれています。

プラトンと言われると、そんな気もしてくる。
アリストテレスと言われると、また、そんな気もしてくる。

「驚きから問いと認識が生まれ、認識されたものに対する疑いから
批判的吟味と明晰な確実性が生まれ、人間が受けた衝撃的な動揺と
自己喪失の意識から自己自身に対する問いが生まれる。
そこでまず最初にこの三つの動機を明らかにしてみましょう」(『哲学入門』新潮文庫)

こんなふうに書いてあって、
「驚き」「疑い」「自己」の三つ検討されています。

インドでは、「驚き」という言葉は、ちょっと思いあたらないけど
「疑い」は、大きな哲学の要因として出てきます。

「疑い(サンシャヤ)」 は、ニヤーヤ派では、
第三番目のカテゴリーなのです。
「なんだろう」と疑って、決定できないことだといいます。

ま、こんなふうに書いちゃうとね、身も蓋もない感じですが、
「なんだろう」と疑って、決定できない、ということからすると
多くの哲学の現在の状況を示すものでもありますね。

答えの出てしまった仏教においてすら、
ブッダは、「わたしの言うことを鵜呑みにせず疑いなさい」と
いうようなことを弟子たちに言いました。

おどろいて疑える世界 
これが 哲学の世界 ですよね。
意外と希有な世界なんですよね。

わたしが、若い人に与えたいと思うものは
じつは この 世界 なんですよ。

哲学の時間だけでも、

じゅんすいにおどろいて疑える体験をしてもらいたいのよ。

他の世界じゃ、無理でしょ、たぶんね。
みんな、おりこうさんにすぐなっちまう。。つまらないよね。

しか~し

哲学と名のつく現実の世界においてすら
「おどろくこと」と「疑うこと」は
そんなにそんなに奨励されているわけでもない。

実際には、哲学の世界であっても
それらを拒む要因が多いのは

ほんとに
ほんとに
ほんとに

なぜなんだぁ、って

おどろいて、疑ってしまう われ であった。

ありゃ

三つ、テーマがそろいましたわ、こんなとこで。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
こんなふうに考えると、哲学の道も茨の道だなと思うのでした。
話がずれてきておりますが
そのまま続けますと

こう、なんと言いますか、
哲学するぞと勇んできましたが
まっすぐ進みたいのに
脇から あれこれ 言われ続けて
それを払いのけ払いのけして
生きてきたような気がしてなりません。

かならず邪魔が入る
心の中で これは悪魔(マーラ)だ と思って
払いのける。

いったん言うこと聞いたら
悪魔は、すべてをうばっていくので
油断なりません。

ブッダは、7年間、悪魔にまとわりつかれましたが
最後に払いのけました。

「われは七年間も尊師(ブッダ)に、一歩一歩ごとにつきまとうといた。
しかもよく気をつけている正覚者には、つけこむ隙をみつけることが
できなかった」(『ブッダのことば』446,岩波文庫)

よく、この悪魔はなんだろう、と言われます。
ブッダの心の中の迷いである とか
ブッダの修行を妨げる人々のことである とか
言われますが
ぴったりこないですね。

あたっているとは言えず
さりとて
ぜったいはずれているとも言えない。

説明しにくいですが
なんとなくわかります。

ブッダの道も、哲学の道と同じだとすれば
ブッダの進む行く先々で 妨害するものだ
と思います。
修行に悪魔は つきもの なのです。

『十住毘婆沙論』の中で
退転する菩薩、不退転の菩薩という区別が出てきます。

いかにして菩薩行から脱落してしまうか
それを動機という観点から説いています。

菩提心を起こすに七つの因縁がある
このうち、三つは達成できる道である。

仏が教えて発心せしめること
仏法を護ろうと発心すること
衆生に憐憫の情を起こして発心すること

次の四つは、うまく達成できないことがある。

菩薩に教わって発心すること
菩薩の行を見て発心すること
布施をし終わって発心すること
仏身の相を見て発心すること

後者の四つは、なるほど、ちょっと弱そう。
他の人に誘われて、その気になる、という感じもします。
ちょっとした悪魔の誘いに、退転してしまうのかも
しれません。

修行に悪魔はつきものと知って
怠らず精進せよ!

ですね。うむ!

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