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2007/11/18

ブッダの法は人類の奇跡である

たとえば、こんな意見がある。

歴史上のブッダは、人々にあわせて教えを説き、
それを弟子たちが編纂して、経と律にまとめた。

現在ある仏教の経典は、
古いと言われる上座部の経典でさえ
幾多の年月をかけて現行のものになったのである。

だから、ブッダの説いたものはほんとうは何か、
わたしたちは直接知ることはできないのである。

このように言う人は、けっこう多い。

たしかに、上座部の経典も、上座部の長老が
「これが、ブッダの教えである」と
受けとったものを師資相承、つぎつぎ伝えてきた集積物なのである。

では、ブッダの教えは、そこから直接に知られないだろうか?

たとえば、知られないと言う人は、
伝言ゲームのようなことを考えているだろう。
つぎつぎ聞いたことを次の人に伝えていくと
最初の伝言は、最後にいたると
見るも無惨にまったく異なる内容になっている。

1.ならば、ブッダの法だって、伝言ゲームのように
変化しているのではないか。

さらに、また、最初にブッダの法を受けとった弟子についても
問題があるだろう。
そこに、弟子の主観が入ってしまっているから
ブッダみずからのことばとはもう違っているだろう。

2.ブッダの説いた表現や言葉づかいのとおりには、
わたしたちは永遠にブッダの法を知ることはできないのである。

1と2により、歴史上の人間ブッダの言説には、
わたしたちはお目にかかることはできない。
ブッダの法は知られない。

このように言う人は多いのである。

■では、考察してみよう■

★まず、2について。
ブッダの言ったとおりの表現や言葉づかいを知ることに
どんな意味があるのだろうか。

ブッダの言ったとおりの表現や言葉づかいが
知られなければ
ブッダの法は知られない
のであれば、
ブッダの法というのは、
その内容よりも
表現や言葉づかいの巧みさ美しさに
重要性があったことになる。

人に心地よい言葉を与えるだけなら
別に、ブッダでなくてもできるだろう。
その人に合わせて説いたという法が
その人にしか感銘を与えないものであれば
ブッダの法は、あまり普遍性をもっていたとは言えないだろう。

しかし、ブッダは法を、人にあわせて説いたのだけれど
その言葉は、聞いたその人ばかりではなく
その場にいる多くの人々に真理であると実感させ
納得させたのである。

ここには、たんなる表現上の巧みさ以外のものがある。
そこにあるのは、言葉と言葉をつなぐ必然的な関係である。
確実に人を納得させる論理がある。
それは、必然的な心のあり方である。

これを理解した者は、ブッダの法を自分の理解したとおりに
あやまたずに伝えられるだろう。

表現や言葉づかいの問題ではなく
真理をとらえたその心のあり方が、伝えられるのである。
言葉というロゴス(論理)によってである。

2500年間、結局、そのようにして仏法は伝えられてきたのだろう。
言葉を介して人の心のあり方(=渇愛の滅尽)を伝えているのである。

そういう意味では、どんな言葉づかいでも、どんな国の言語でも
ブッダの法は伝わっていくのである。

★次に、1について。
伝言ゲームのように伝えるうちに変化してきたのではないかについて。

たんに言葉だけであれば、変化もするかもしれない。
しかし、伝えてきたのは、心のあり方である。
その人が、そのような心にならなければ、次に伝えることはできない。

ブッダが亡くなった後、即、500人の阿羅漢が集められたのには
ワケがある。
阿羅漢でなければ、ダメだったのである。
ブッダと同じ境地に達していなければ
ブッダの法は正しく伝えられない。
先に述べたように、心にかかわることがらだからである。

伝言ゲームではなかったのである。
言葉を伝えているのではなく
「心」を伝えていったからである。

阿羅漢が伝えた法(阿含経典)は、ブッダの法である。
なぜ、それがわかるか。

阿含経典が、論理的に完璧だからである。
完全な体系だからである。

「完全で完璧である」という、ただそのことだけによって

阿羅漢は、ブッダと同じ境地にあり、
また、
ブッダは、阿羅漢と同じ境地にあることがわかる。

この世の誰も成し遂げられないような
神の領域にあるようなことがらを目にしたとき

わたしたちは、自分の目を疑うしかない。
ありえない!
しかし、現実にそうあるとき

わたしたちは、この世において
奇跡を
信ずることになるのである。

ブッダの法は、人類の奇跡である。

不完全なはずの人間が
完全であることを
示した一つの奇跡である。

わたしたちは
ブッダの法にふれるとき
歴史上ブッダと言われる人が存在したことを
たしかに知るのである。

もしブッダがいないのなら
この法があることを
どうやって納得したらよいのだろうか。

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落葉松はさびしかりけり
すぎゆくはさびしかりけり
法はさびしかりけり。。。ブッダも見てくれよ、法を見たらば


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コメント

>基準を持たずに読んで「正しい」と知ります。
 つまり、エムさんの「正しい」には基準がないということになりますね。

>「判断できる」のではありません。
>「知る」のです。
 私は「正しい」とは「一致する」ことだと言いました。

 正しいと知ることができるのは、「一致した」からです。

 一致しないのであれば、「正しいと知る」ことはできません。

「判断する」でも、「知る」でも同じことです。

投稿 みみっく | 2007/11/24 06:20

みみっくさま

基準を持たずに読んで「正しい」と知ります。
「判断できる」のではありません。
「知る」のです。

そこには、喜びがあります。「正しい」ことには天井がないことを、あわせて知るからです。

みみっくさまには、理解できないかもしれないけど、わたしは、そうです。

投稿 管理人エム | 2007/11/23 12:45

>わたしは、春間さまのおっしゃることを、とくべつの基準をもたずに読んで、そして「正しい」と思います。
 つまり、「エムさんの基準と一致している」ということです。

 それとも、「基準を持たずに読んで正しいと思う」と主張されますか?

「とくべつの基準を持たない」とは、基準を持たないという意味ではありません。

「基準を持たずに正しいと判断できる」とエムさんが主張するのであれば、反論はないですよ。

 どういう意味で言っているのかは全く理解できませんが。

投稿 みみっく | 2007/11/22 11:49

みみっくさま 春間さま

わたしは、春間さまのおっしゃることを、とくべつの基準をもたずに読んで、そして「正しい」と思います。

わたしは、「正しい」という言葉をそのように使いますが、みみっくさまは

> でも、「正しい」とは「基準との一致」を意味しているといっているのです。

という意味で、使うということですね。

投稿 管理人エム | 2007/11/22 08:41

今ここで行われている事を戯論と名づけたくなります

正しい、正しくないは、論にあるのではなく、
行いに有るのです
積み重ねられ、行われることを“釈”して、
“正語” を いうのです

語に正があるのではなく、行いに有るのです
正精進があれば、正語は、必ずしも必須ではありません
「正行」があれば、後の七正道は備わっています
「正思」は、「正見」によるわけですが、
「正見」は、戯論には有りません

言葉が「正思」を左右するのではなく
ブッダの「正行」が「正思」を左右するのです

ここでの反論に左右されていてはいけません
( そこには、ただ、“ 反 ” しかないからです )

どのように、中道を求めても
そこに執着すれば、二辺の一辺となるということを
忘れてはいけません
惡魔は、そこをつついているだけなのですから

投稿 春間 則廣 | 2007/11/21 21:46

>「正しい」は、その意味で、「ま、いちおうね」というくらいの「正しさ」ではないでしょうか。
「正しい」と「正しさ」は違いますよ。

 相対的な正しさか絶対的な正しさかに関係なく、「正しい」とは「一致している」ということです。

>わたしも、何度か模範解を作ったことがありますが、模範解よりすぐれた解を書く生徒さんはいっぱいいます。
 どうやって判断したのですか?

 エムさんが作った模範解よりもすぐれていると判断するためには、何らかの基準が存在していることを示唆します。
  
 その「何らかの基準」と一致しているからこそ、「よりすぐれた」と判断したのではありませんか?

 その「何らかの基準」が絶対的なものなのか相対的なものなのかを問うのであれば、「正しさ」を問題にしなくてはならなくなるでしょうね。

 でも、「正しい」とは「基準との一致」を意味しているといっているのです。

投稿 みみっく | 2007/11/21 17:58

みみっくさま

わたしも、何度か模範解を作ったことがありますが、模範解よりすぐれた解を書く生徒さんはいっぱいいます。

「事実と一致する」というその「事実」が模範解のようなものなら、その「事実」にもチェックを入れてみるべきだと思います。「正しい」は、その意味で、「ま、いちおうね」というくらいの「正しさ」ではないでしょうか。

投稿 管理人エム | 2007/11/21 08:46

>「正しさ」は、相対的なのですか?
 正しいとは「一致している」ということです。
 相対的とも絶対的とも言えないでしょう。

 学校のテストで正解とは、「模範解答と一致している」ということです。

 事実と一致している文は「正しい」とされることでしょう。

投稿 みみっく | 2007/11/20 17:36

Akasaさま

じつは、伝言ゲームの心配をしたのは、わたしです。
伝えてるうちに、ぜったい意味がずれたりおかしな思想が入ってしまうのじゃないかと思って、すごく心配でした。
ブッダは、伝えるうちに法が非法になってしまうという心配をしなかったのだろうかと思って、「ちょっとのんきだなぁ」と思ったのですが、それは杞憂であるとわかりました。

スマ長老さまのおっしゃるように、「言葉はどうでもいいんです」ね!
言葉は空だから、そこにどんな意味(=心)をこめるかが大事なんだと思って、安心しました。
心清く清浄行をなしとげた人々が、伝えるものは、そのような心が入った言葉にならざるをえないわけですよね。おそるべし、ブッダ!

投稿 管理人エム | 2007/11/20 15:17

みみっくさま

> 単独で正しいものは存在しません。

フム!たとえば、絶対的な神は?
ブッダは複数いるので、正しい、かも?
「正しさ」は、相対的なのですか?

投稿 管理人エム | 2007/11/20 15:06

春間さま

> 信じられないことを、信じている
> 信じていないことを、信じている

わたしとしては、こうでしょうか。

信じられないことを、(この目で見ている、
見ていることは信じなきゃ、だから)信じている

(目で見ていることは、信じていることではない、だから)信じていないことを、信じている

投稿 管理人エム | 2007/11/20 14:58

エム先生

昨日からの寒波の如く冴えた内容の文章をありがとうございます。
詳しいやり取りは忘れましたが、以前、スマナサーラ長老に反論したとき、「言葉はどうでもいいんです」と怒られたことを思い出しました。
言葉にこだわるな、こころを観よ、ということだったんですねー

投稿 Akasa | 2007/11/19 18:11

 正しいとは「一致する」ということです。
 単独で正しいものは存在しません。

投稿 みみっく | 2007/11/19 12:13

管理人 エム 様

>自分でも信じられません

信じられないことを、信じている
信じていないことを、信じている

そこに、信が立っている ( 空 )がたっている

縁起の法は、信と不信を同じ“ところ”にたたせる

そこが、決して否定されない“ところ”

奇跡だから、奇跡に遭遇していると“信”が立つ

縁起の法を信ずるところに、確信が立つ

投稿 春間 則廣 | 2007/11/19 08:23

春間 則廣さま

> その時、自らの正しさを知るのではなく、

>   仏陀が正しいと分かる

おっしゃるとおり!ほんとに、自分が正しいのではなくて、仏陀が正しい。。。そうなんですよね、いつでも、仏陀は正しいんです。

不思議です。奇跡だと思います。
で、
このわたしが奇跡に遭遇してる、ってことが、また、自分でも信じられません。

投稿 管理人エム | 2007/11/18 23:28

仏陀の、残した言葉を見つめて、
自らの行いを見つめて、
そこに、重なるところがあるのであれば、

その時、自らの正しさを知るのではなく、

  仏陀が正しいと分かる

それ以外には、決して真実を認める方法はない

正しいと知る ということはそういうこと

投稿 春間 則廣 | 2007/11/18 22:24

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