中身はなくてもいい!まわりがあれば
いろいろあって、日記を書こうと書きかけると
中断されます。
中断されると、もう、次には書く気が失せてしまう。
なんか、もう話のネタが古くなっちゃう感じがするんです。
で、書こうとすると、あ、書くネタが思いつかない。
うううむ、さびしい!
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
軽く、イケっ!軽いのりでいくんだ!
芭蕉も言ってる。
「わび」「さび」だけじゃなくて
「しをり」「ほそみ」「かろみ」ってね。
とおだごもこつぶになりぬ秋の風
だったっけ。これは、「かろみ」かな?
どうだっけ?
芭蕉のお弟子さんの句だったかも。
十団子(とおだご)は、お団子です。
で、とりとめなく続けると
お団子だけでなく
あらゆるものが、昨今「小粒」になりますね。
でも、
商品や袋が小さくなるだけでなくて
いろんな偽装や改ざん疑惑もあったり。。。
これは、まずいです。
やっぱり、人間社会で、ウソがはびこると
世の中、成り立っていかなくなりますね。
食品業界だけではなく、政治の世界や経済の世界、
建設業界、教育の世界。。。ぜんぶですね。
そういえば、学問の世界も、ま、似たようなものか。
うううううむ、つらいですね。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
「ウソ」とは何かというと、
「自分がほんとは『そう』思わないのに『そう』言う」
ことだと思う。
その人にとって
身口意の行為が一貫していない
ことです。
たとえば
口ではAといいながら、
心(意)では「Aでない」と思ってる、ってことです。
本人、それをよく自覚してることです。
そういうことが起こると
その人が分解・解体しちゃうんだ
ってこと
どうして、人は気がつかないのか、不思議だ。
よりどころにしようと思う「自己」が
解体されてしまうので、
その人自身消滅してしまう。
ウソをつくと
「自己」はない
「自己」はないと
「無我」にも行けない
「無我」に行けないと
「解脱」できない
「解脱」できないと
苦しみだ
こういうわけで
最初の
「ウソをつくと」
から
最後の
「苦しみだ」
へと
いくのですね。
人間は、このオブジェのように
中身はなくても
外側はしっかりくるまれて
丸くなってれば、安心。
解体しようがない。

白いオブジェ!
きみは、お釈迦さんだっ!
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コメント
二次元と三次元
平面上では外側だけですが
立体は、囲む空間と囲むものの内部を持ちます
囲むものの内部が、空洞でも、その裏側が、内面ではなく、内部となります
(立体で囲んだ穴のことでは有りません)
二次元の理念と、三次元の実体とは概念の差別化が必要です
ましてや、私たちは、四次元の世界に生きているのです
それを、思考の世界では、三次元に投影し、
時間の軸を別に打ち立てますが、
本来は、ひとつの空間(?)なのです
それを、三次元的に、四次元の空間と呼ぶことは、
名付けることの自由の範疇に入れてもかまいませんが、
そこが、空の世界です
思考の習慣として、ごちゃ混ぜは止むを得ないことですが、
逃れる方法は有るのです
投稿 春間 則廣 | 2007/11/12 23:27
春間さま
> 中身の見えるところ(外側)を、まわりと呼ぶ
> 外側の下を内側(中身)と呼ぶ
「中身だけ」ですと、おっしゃるように、外側と内側からなるのですが、でも、それらは、何かあると壊され消滅してしまいます。
ところが
じゃーん、まわりしかないと、壊されない。中身を壊したくても、穴ですから、壊されない。
> まわり だけでは、周りしかない
これって、案外、いいんじゃないですか?
投稿 管理人エム | 2007/11/12 22:09
zapoさま
> 先生の話は、本当に無駄が無い。
わたしも、なんだかだんだん単純になってくなぁという気がします。優しいzapoさまのように、ほめてくださると、ありがたいですが、ほんとは。。むずかしい思考が無理になっただけかも(汗)。
投稿 管理人エム | 2007/11/12 21:29
えび天サンバさま
待ち人来たらずなのか、穴のところに腰掛けてる人もいます。
今日も覗いたら、小さい女の子が顔を出して遊んでました。
> こういうのが駅にあるというのはなんて先進的なんだろう、と思います。
この白いのは西口にあって、東口には赤いオブジェもあるので、こんどそれを撮ってきます。
よし!仕事に張り合いがでてきました(単純だ!)
投稿 管理人エム | 2007/11/12 21:18
中身なく、軽くいってみたいと思います
・・・・・・・・・・・
まわり が在ると 中身があるように見える
(見せたい)
まわり だけでは、周りしかない
それを、コト の ハ だけ という
(異の端・言の葉)
中身があるのとは、幾分違う
(事の端であれば、中身は空だが、、、、、)
( 外も ! 空だ ! )
(外側・まわり など存在しない ! )
中身だけということはない
中身の見えるところ(外側)を、まわりと呼ぶ
外側の下を内側(中身)と呼ぶ
小空経は、どこへいったのか、、、、、
ついに、
明色について、語れないのに、、、、、
妙音・妙香について
語る のは やめておこう、、、、、、
投稿 春間 則廣 | 2007/11/12 11:07
>どうしても、その人にとって「真実なるもの」が入っちゃうのではないかと思うのです。
先生の話は、本当に無駄が無い。
即解、即説とも言うべきものでしょうか。
まさに法華経の竜女のようです。
ありがとうございます。 (-人-)
投稿 zapo | 2007/11/11 21:11
エム先生
白いオブジェ、中を通って行けるというところがますますもっていいですね。
こういうのが駅にあるというのはなんて先進的なんだろう、と思います。
札幌って面白いところですね。
投稿 えび天サンバ | 2007/11/11 17:40
zapoさま えび天サンバさま
わたしは、方便=ウソなのかどうか、よくわからないのです。
「空(くう)であることば」を用いる人は、ウソがつけないのではないか、という気がするのです。
ことばが空であると知るとき、その空なることばを使うには、中に何かを詰めないとことばの役目を果たしません。
で、何か詰めようとすると、そこにあるもの(自分の頭に入ってるもの)を詰める以外にないので、どうしても、その人にとって「真実なるもの」が入っちゃうのではないかと思うのです。
子らに大白牛車を与えた長者も、牛の車や山羊の車をあげるよと言っても、「おまえたちにとって最高のもの」という意味を詰めてたと思うので、ウソというわけではないだろうと思うのです。
それが、「空を知るなら、言葉はウソであっても、空(そら)に響く鐘の音のように人の心に響き渡る」と、zapoさまがおっしゃった意味になるのかなと思うのです。
このオブジェ、サッポロ駅にあります。人の往来を邪魔する位置にあるのに、ぜんぜん邪魔にならないのは、中が空だから!かな。
写真撮ろうとしたら、まるっきり立派なサラリーマン風の人が、この穴をわざわざ抜けて通っていきました。
ありゃ、ぜぇったい、無意識にやってると思うな。。。おもしろいです。
投稿 管理人エム | 2007/11/11 16:16
zapoさま
ウソも方便というときの「方便」は、世間
虚仮というときの「虚仮」と同じ意味に解
されているのでしょうか。
それで、うそ=言葉=虚仮=方便という
具合になるのでしょうね。興味深いです。
投稿 えび天サンバ | 2007/11/11 13:30
エム先生
でたーっという感じですね、このオブジェ(笑)。
最高に面白い説法でした。^・^
投稿 えび天サンバ | 2007/11/11 13:19
最近、というかここ数日
「法華経」を読んでます。
身口意の三業に悪業を背負ってでも、「方便」(ウソ)を展開することも慈悲なのかも知れないと思っております。
空を知るなら、言葉がウソであっても、空(そら)に響く鐘の音のように、人の心に響き渡るこそ大事なのかもしれません。
もっとも、昨今の世間のウソと対比できる話しではありませんけどね。 (^-^;
投稿 zapo | 2007/11/11 13:01