よい義しい人が、よい義しい行いをする!ほぉ!
毎日、どこかに出かけていく
あわれな管理人です。
どこかって?
仕事です、し・ご・と
携帯で風景を撮る暇もなく
撮ってもブログに載せる暇もなく
ブログを開けて書く暇もない
あわれな管理人です。
ああ、紅葉がどんどんすすんで行く。。
だけど
写真を撮ってる暇もなし、さびしいなぁ。
今年は、夏が暑かったせいか
いまいち
紅葉がきれいじゃないけど
それでも、ずいぶん、色とりどりになってきた。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
マルティン・ルター・徳善義和(訳)『キリスト者の自由』(新地書房)を
読んでるんですけど
やっぱり、ええですね。
魂のそこから出てくる言葉は。
そして、すごくおもしろい。
ぜんぜん、ブッダと言ってることが正反対!
正反対だけど、よくわかる!
へぇ~、って、感心しながら、読んでしまう。
じゃ、いってみよか。
よい義しい行いが、よい義しい人をつくるのではけっしてなく、
よい義しい人が、よい義しい行いをする。また、悪い行いが
悪い人をつくるのではけっしてなく、悪い人が悪い行いをする。
つまりいずれにせよ、まずもって人があらゆるよい行いに先だって、
よく義しくあらねばならず、よい行いはこれに続き、
義しいよい人から生じてくるのである。(229頁)
…
木が実をよくも悪くもするのと同様に、人間も、よい行いや
悪い行いをする以前に、まずもってその人となりにおいて
義しいか悪いかでなければならない。
その行いがその人をよくも悪くもするというのではなくて、
人がよい行いか悪い行いかをするのである。(230頁)
おもしろいでしょ。
「信仰によってのみ義とされる」といったマルティン・ルターが
たどりついた境地です。
ブッダと正反対ですね。
ブッダは、「人は生まれによってバラモンとなるのではない、
行為によってバラモンとなるのである」と言ったよね。
神を認める宗教と、神を認めない宗教とで
説くところが正反対になっているのは
両者がともに
正しく思考している証拠のようなもの。
ルターも、読ませるなぁ!
久しぶりに、掘り出し物を見つけた感触、ラッキー!
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コメント
南華さま
トラックバックありがとうございます。
いよいよラストですね。では、ゆっくり拝読させていただきます。
> それまで、まちまちだったピンの数を9本に決め、ダイヤモンド型に配置したのですが、
いわゆる九柱戯っていうのかな?
ルターはボーリングが得意だったのですか。ストライク連発はすばらしい。おもしろいですね。
> ドイツ農民戦争では、プロテスタントの教説を信じて領主に反抗する農民の虐殺を容認し、領主からの支持を集めたり、相当に生臭い人のようにも見えます。
そうですね。しだいに保守的になっていくのでしょうか。前半生と後半生でだいぶ違うのかしら。
南華さま、いろいろ詳しいんですね。勉強になりました。ルターはボーリングが得意っていうのは、メモしておこうっと。
投稿 管理人エム | 2007/10/31 21:11
日本仏教とか、上座部仏教・南華密教と拘る必要は無いかと思います
日本という地に於いて、人の口の端に上るのが
その人の理解(?)すると思う“仏陀の教え”なのであって、
等しく(?)“人類”の理なのですから
貴方が展開する論が、“貴方の言う” 南華密教という、日本仏教です
>「日本仏教」は、『般若心経』をきちんと解釈できていない
のではなく、
“貴方が捉える”日本に展開された仏教が、>きちんと解釈できていない
と感じられるということでしょう
大事なところは、貴方の限界の元でのそれらの理解だということです
「これが、仏陀の言っていることである」ということは、
仏教について語る人が、“ 等しく考えて、信じている ”ところです
しかし、唯仏与仏(ただ、仏と仏、もしくは、仏陀から仏陀へ)ということは、
常に、戒めとして心に置くべきことです
仏教は、全ての有情の為のものでありつつ、自ら一人だけのものです
自らの佛とのかかわりの中から、そこにある佛を認めているのです
仏世界は佛の数だけ存在しますが、
(佛による仏世界という、世界が一つ在るといっても構いません)
人によって変わるわけではなく、
国によって変わるわけでもありません
玄奘(鳩摩羅什)によって、補強、整理されて、
中国(日本)の、心の成り立ちに、そぐいやすくあらわされた般若心経は、
まっすぐに、仏陀の悟りへの指針です
繰り返すことは、戒められていますが、
自らが、どのように生きているかだけが、「智慧の心」が見つめるものです
投稿 春間 則廣 | 2007/10/31 11:28
マダム・エムさま
“『般若心経は間違い?』の間違い (十五)”をTBさせていだきました。
一応、最終回です。
マルティン・ルターは、近代ボーリングの創始者としても知られています。
それまで、まちまちだったピンの数を9本に決め、ダイヤモンド型に配置したのですが、後にアメリカ合衆国で、ボーリングブームが過熱し、9ピンボーリングを禁止したところ、10ピンで営業する者が現れ、現在の形が定着しました。
ルターは、ボーリングを悪魔祓いの儀式に利用し、民衆の前で、「このピンを全部倒せたら神の義が自分にある」と説教しながら、ストライクを連発し、大いに支持を集めたといいます。
彼は「ポケット」を知っていたのかもしれません。ルター以外は、滅多にストライクを出せなかったので、無知な民衆は、ルターを「超人」と考えたのでしょう。
ドイツ農民戦争では、プロテスタントの教説を信じて領主に反抗する農民の虐殺を容認し、領主からの支持を集めたり、相当に生臭い人のようにも見えます。
農民の反抗は、「悪い人が悪い行いをした」と考えたのでしょうか。元をただせば、カトリック教会や領主制度を批判した、自分の教説が農民の反抗を呼んだのに。
投稿 南華 | 2007/10/31 09:54
>すべては神からですね。
>で、題名が『キリスト者の自由』なんですよね。
自由とは、「神に全てを委ねること」なんですよ。
「神が存在するならば」という話ですけどね。
「神の奴隷」となることが「最高の自由」を意味するのです。
最高の自由を獲得したとき、「あなたは神の意思を体現しています」と言い出す人がいると言えばいいのかな(笑)。
これを否定するためには「神」を否定しなければならない。
ということですね。
「神」を否定している人には関係ない話ですけどね。
投稿 みみっく | 2007/10/30 17:27
春間さま
すべては神からですね。
で、題名が『キリスト者の自由』なんですよね。
投稿 管理人エム | 2007/10/30 06:57
よい義しい行いは、よい義しい人によってなされ
悪い人がなす行いが、よい義しい行いと呼ばれることはない
悪い行いは、悪い人によってなされるのであって
よい義しい人が、悪い行いをなすことはない
そして、悪い行いをなすのは、悪い人であるからであって
よい義しい行いをなす人は、よい義しい人である
悪い人は、よい義しい行いが何であるのかを知らないから
よい義しい行いを、悪い行いと思う
自らのなす行いが、悪い行いであるということ知らないから
よい義しい行いであると言う
行いは、よい義しい信仰によってのみ、よい義しいと知られる
つまり、よい義しい信仰を持つことができない限りは
よい義しい行いをなしているか知ることはできない
まずもって義しい信仰を持つことにより
義しいよい人となる
それでは、どうすれば、よい義しい信仰を持つことができるのであろうか
それは、イエスのみが知る
イエスを信仰することによって知ることができる
それでは、どうすれば、イエスを信仰することができるのか
それは神の采配による
ただ、神の前に礼拝するのみである
投稿 春間 則廣 | 2007/10/29 23:53