« 「空」の考察(妄想風味) | トップページ | しっぱいは、いっぱい(じゃこまるぞ) »

2007/09/15

消えます、消えます、これがブッダ流

みなさま、こにゃにゃちは。

「コンサドーレの試合で札幌ドームに4万人を集める」
というキャンペーンに協力して
我が家も3名、雨の中を出かけました。

たくさんの人が来てたのに、負けちゃいました。。。

途中から、もうこりゃダメだ!と、
悟りをひらいて
今日のブログに書くことを一生懸命考えてました。

2万2千のコンサドーレのファンの人は
このように
後半の試合では
全員、瞑想に入り、
観客席には静寂がただようのでありました。

ヴェガルタ仙台の303人(?)のサポーターが
元気よかったです。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
さて、昨日は、「空」について
「名色」の特徴であるという点から
お話ししてみました。

「空」を、平川先生のように、まず「色」の特徴と見て
説明しますと、ちょっとよさそうに見えますが
しだいにボロが出て仏教から離れていくような気がします。
われらは、もっと、注意して、ブッダの教えから
落っこちないように、いきたいと思います。

お?

何ですか?なんか、文句でもありますか?

あります、あります、おおありです。
じゃ、何ですか、管理人、
あなたはぶっきょから落っこちないというんですか?
その証拠を見せてもらおうじゃないすか?

え?証拠?
証拠といわれたって、そんな!
だって、だって、ちゃんと「名色」の項目をクリアして
次の「識」にいけてるもんね!
昨日のブログを読んだ人は、みなさん、納得してくれてるはず!

管理人が「名色」、クリアできるなら
誰でも「名色」くらいクリアできると思うのが、世界のじょーしきっ!
管理人が、名色の原因である「識」に到達してるという証拠は?
さぁ、見せてもらおうじゃない。

え、そんなこと言ったって。
「名色」が滅しちゃったから、
言い訳がましいこと言えないもん。
「ことば」や「考え」から離れてるんだもんっ。
「識(識別作用)」があるだけなんだから。
(う、うまい言い訳だわ、名色が滅した、って言えば、なんとかなりそ)

う、敵もやるな。
じゃ、ちがう方から攻めるか。
管理人の説明には、大きな欠陥がある!

え?欠陥?

そうですっ!欠陥。
昨日、管理人は
「科学も、また、たくさんの見方のうちの一つの見方でしかない、
ということを知らせるのが仏教である」って、いったよね。
そして
「こうなると、いかなる見解も、見解として見るという態度が生まれます」
とも言った。

いかなる見解も見解としてみると言えるなら、ですよ、
ぶっきょ、だって、一つの理論。つまり、見解じゃないんですか。

ぶっきょ、だけが、「見解」の中で
とくべつあつかいされるということは、
ありえないでしょ?

ぶっきょの十二支縁起説とかなんとかだって、
プラパンチャ(虚妄)って、ことになるでしょ。
さぁ、どうだ!
自分たちの理論は、他とはちがってプラパンチャじゃない
というなら
そのことは、どうやって証明できるか、「名色」の中で、
やってもらおうじゃないの!さぁ、さぁ。

ま、まずい!
進退窮まった!仕方ない。
ブッダの教えも、見解だわよ。
だから、プラパンチャの中に入ってるわよ。
虚妄だわよ。
これならいいでしょ。

え?なに?
自分の見解も、プラパンチャ(虚妄)なのか?
そ、それなら、どうなるんだ!?
ばかな!
自分の見解を自分で虚妄というヤツはいないぞ。
ほんとのバカなのか、それとも、破格に利口なのか、どっちだ?!
それに、それなら、なにも主張していないことになるじゃないか。

そうだ、そうだよ。(破れかぶれだい!)
もう、ブッダは、何にも言ってないよ。
名色は滅したら、次に、識に行く。
でも、識だって、滅するんだ。
わかったぞ!ブッダはこう言ってる。

「名色が滅すれば識が滅する。識が滅すれば、名色が滅する。
名色が滅すれば、六処が滅する。六処が滅すれば触が滅する。。。。」
(『サンユッタ・ニカーヤ』12.65)

名色→識→名色→六処→…という順序になってるんだ。

「見解(名色)」をプラパンチャとみて、名色を滅する。
しかし、「名色をプラパンチャと見る」というのは、自分の見解である。
つまり、自分の見解という「名色」の一部はまだ残ることになる。
でも、とりあえず、名色が滅するので「識」に進む。
他の見解からの識別(識)はあるからだ。だから、「識」に進む。
「識」においては、あるのは「自分の見解」である。
でも、それも「プラパンチャである」と識別する。
すると、「識」が滅して、ついで、自分の見解(名色)が消える。

こうして、名色→識→名色→六処→…という順序で、滅していくわけか。

たしかに、
自分のバカ(虚妄)の部分を消していけば
見解もなにもなくなっていくわね。

もってた財産、どんどん失って、
まるはだかになってく気分だね。
ほんとに無我になるしか道はなさそだ。

ブッダの教えを受けとって
教えの通りに進んでいくと
わかればわかるほど、
どんどん教えは消えていく。

これが、ブッダ流。

|

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/58200/16459868

この記事へのトラックバック一覧です: 消えます、消えます、これがブッダ流:

コメント

>> 因を滅すれば果も滅します。
>
>これは、わたしのセリフのようですね。みみっくさまも、とうとう縁起論者になったか!
 仏教徒でなくても、否定する人はあまりいないと思いますよ。

 因果の法則は科学の根本でもありますから、存在そのものを否定するのは勇気がいります。最後は「信仰」の問題になりますしね(笑)。
 
 そもそも仏教がヨーロッパに入って科学になった(仏教の多大な影響を受けて誕生した)と私は思っていますから。仏教が科学的なんじゃなくて、科学が仏教的であるということを言っているのですけどね。(仏教が先で科学が後ということです)

>やっぱり!
>みみっくさま、ときたまやってませんか?なんか、わたし、ひっかかってる感じがするんですよね。

「魔法」について言いたいことは二つです。

 ・分かっていても避けることはできません。トリックではないですから。
 ・エムさんも使っています。

「文脈を変える」とどうなるかというと、「ずれる」か「重なる」かします。

 相手の話の文脈と自分の話の文脈がずれていると話がかみ合いません。
 だから「文脈を重ねる」ということを行います。

 これに対して「文脈をずらす」ということもできます。

>>  財布を落とす原因を滅した人は財布を落とすことはありません。
>>  それを知るには神通力が必要かも知れませんけどね。
>
>そんなことないですよ。簡単ですよ。財布を持たなきゃいいんですから。。。。しかし、小銭入れをなくした友達に、このセリフを言って、おこられたことがあったなぁ。
 
 これなどは典型例ですね。話がずれていますよ(笑)。

 自分が財布を持たないつもりでも、財布を持たされたらどうするんです?
 例えば家族が勝手にかばんに財布を入れておくのです。それで落とす(笑)。

 以上です。

投稿 みみっく | 2007/09/21 01:53

みみっくさま

> 使いましたよ。
> 「意見を否定するのではなく、文脈を否定する」というのがその魔法の効果です。

やっぱり!
みみっくさま、ときたまやってませんか?なんか、わたし、ひっかかってる感じがするんですよね。

> 因を滅すれば果も滅します。

これは、わたしのセリフのようですね。みみっくさまも、とうとう縁起論者になったか!

>  財布を落とす原因を滅した人は財布を落とすことはありません。
>  それを知るには神通力が必要かも知れませんけどね。

そんなことないですよ。簡単ですよ。財布を持たなきゃいいんですから。。。。しかし、小銭入れをなくした友達に、このセリフを言って、おこられたことがあったなぁ。

投稿 管理人エム | 2007/09/20 00:16

>ところで、みみっくさま、あんまり似たような実例が多くて、何のはなしをしていたのか、わからなくなりました。
>何が問題だったっけ?

>>「現実の全てと思惟する全て」が「一致するところと一致しないところ」です。
> これが私の言いたいことです。
>
> エムさんは「一致するところが『全て』である」と言っていませんか?
 これですね。

 エムさんは、「名づけられたものとじっさいのものは一致しています。なので、ありのままの世界となります。」
 と言っています。

 つまり、エムさんは「一致するところ」について話をしています。

>「思惟が事実となり、事実が思惟になる」という場合です。
> これは、「思惟が事実とならず、事実が思惟にならない」という場合ですね。

 私は「一致するところと一致しないところ」の話をしています。

>それに、わたしの引用が、なんと「あれ、これ、わたしが書いたっけ?」みたいな感じで、自分で文脈つかめません。人の書いた文章のような感覚です。こまったわ。

 これについては二つ解釈があると思います。

 1.文脈を無視して引用されている。
 2.文脈が変わってしまっている。

 確かめる方法は簡単です。引用前の元の文章を見ればいいのです。
 元の文章では文脈がつかめるのに引用した文章では文脈がつかめないのであれば、引用が文脈を無視してなされている可能性があります。元の文章でも文脈がつかめなくなっているとしたら、文脈自体が変わってしまっているのです。

>みみっくさま、なんか、魔法使いませんでした? 
 使いましたよ。
「意見を否定するのではなく、文脈を否定する」というのがその魔法の効果です。

 私はエムさんの意見を否定することはあまりありません(賛成なので)が、文脈を否定することはあります。
 
 それは結局、「前提が変わっている」ということです。前提が変わると結論も変わってしまいます。

 エムさんが龍樹本で「空」を無意識に理解するような仕組みを作ったと言っていましたが、それみたいなものです。
「空」の理解が変わってしまったら、全てが違って見えてしまいます。

 そこまでいかなくても認識が変われば文脈が変わってしまうでしょう。

>この例は、ちょっとおかしい。前半はいいのですが、後半の「実際には財布を落とすことがある」というのは、変な文です。
>なぜなら、落とさないと思っていて、落としたのなら、その時点で、「落とさないと思ってたけど、財布というのは落とすものだ」と思い、それから後は、学習したので「落とさないと思っていたけど、財布は落とすこともある」と修正されるのではないでしょうか。

 財布を落としたことに気付かない人は、盗まれたと思っているかもしれません。
 学習しなければ修正されないということです。それが煩悩というものでしょう(笑)。

>「自分は財布を落とすこともあると思っているが」というところはいいのですが、「実際には財布を落とすことはない」は、おかしい。普遍的な事実というわけではないです。ただ、たまたま今まで「落としたことがない」というのが、正しいのではないでしょうか。

 因を滅すれば果も滅します。
 財布を落とす原因を滅した人は財布を落とすことはありません。

 それを知るには神通力が必要かも知れませんけどね。

投稿 みみっく | 2007/09/19 21:08

みみっくさま

> 内容は同じだとわざわざ書いたのに(笑)。

あらま、ごめんなさい。

> 「事情が異なる」と言っているのです。

そうですわね。たしかに。でも、事情は無視できるかもしれません。ま、ここは深入りせずにいきます。

>「自分は財布を落とすことはないと思っているが、実際には財布を落とすことがある」
>「自分は財布を落とすこともあると思っているが、実際には財布を落とすことはない」

この例は、ちょっとおかしい。前半はいいのですが、後半の「実際には財布を落とすことがある」というのは、変な文です。
なぜなら、落とさないと思っていて、落としたのなら、その時点で、「落とさないと思ってたけど、財布というのは落とすものだ」と思い、それから後は、学習したので「落とさないと思っていたけど、財布は落とすこともある」と修正されるのではないでしょうか。

後の文も、同じことが言えます。

「自分は財布を落とすこともあると思っているが」というところはいいのですが、「実際には財布を落とすことはない」は、おかしい。普遍的な事実というわけではないです。ただ、たまたま今まで「落としたことがない」というのが、正しいのではないでしょうか。

これらの文で、「思惟が事実とならず、事実が思惟にならない」ということは言えないのではないか、と思います。

ところで、みみっくさま、あんまり似たような実例が多くて、何のはなしをしていたのか、わからなくなりました。
何が問題だったっけ?

それに、わたしの引用が、なんと「あれ、これ、わたしが書いたっけ?」みたいな感じで、自分で文脈つかめません。人の書いた文章のような感覚です。こまったわ。

みみっくさま、なんか、魔法使いませんでした?

投稿 管理人エム | 2007/09/18 20:21

>仏教では、事実を語れば具体的で、理論を語れば抽象的あるいは一般的、という構図は、成りたたないかもしれません。
>これは、西洋的な考え方かも。
 私が言っているのはこういう意味ではありません。

 目の前の人の話をしているのと、一般的な話をしているのとでは違うと言っているのです。

>わたしの煩悩滅する方法とみんなの煩悩滅する方法は同じだと思います。
 だから、私も同じだと言っています。

> 例えば、「エムさんの煩悩を滅する方法」と、「煩悩を滅する方法」では内容は同じでも事情が異なる。ということになります。
 内容は同じだとわざわざ書いたのに(笑)。

「事情が異なる」と言っているのです。

「著作と説法では事情が異なる」と私は言っています。


>仏教は、見解消しただけでは、悟りの境地にいけないからです。けっきょく、最終的には、煩悩を残りなく滅しなくてはならないので、最後の詰めの作業が残っているのです。

 まあ、意味はわかりましたけど、区別することに意味あるのかと私は思いますね。

>「空」は全てを「説明している」が、全てを「説明している」のは「空」とは限らない。
 この区別の話ですね。


>なぜなら、「名色」というのは「理論(名)と事実(色)」とも、言えるからです。名→色。
>このあたり、なかなか微妙ですが、思惟によって名づけられると、それは、事実としてみられる、という見方もありうるかと思います。
>「りんご」と名づけられて、わたしたちは、りんごを知る、というように。名づけられたものとじっさいのものは一致しています。なので、ありのままの世界となります。

 この話は肯定しますが、

>「自分は財布を落とすことはないと思っていて、実際にも財布を落とすことはない」
>「自分は財布を落とすこともあると思っていて、実際にも財布を落とすことがある」
 これは「思惟によって名づけられると、それは、事実としてみられる」とは違う話ではないですか?
「思惟が事実となり、事実が思惟になる」という場合です。

>「自分は財布を落とすことはないと思っているが、実際には財布を落とすことがある」
>「自分は財布を落とすこともあると思っているが、実際には財布を落とすことはない」
 これは、「思惟が事実とならず、事実が思惟にならない」という場合ですね。

>「現実の全てと思惟する全て」が「一致するところと一致しないところ」です。
 これが私の言いたいことです。

 エムさんは「一致するところが『全て』である」と言っていませんか?

投稿 みみっく | 2007/09/17 21:02

みみっくさま

そうか、そういうことですか。

> 修行→悟りの智と、知恵→禅定体験の深まりは正反対のベクトルです。

仏教では、事実を語れば具体的で、理論を語れば抽象的あるいは一般的、という構図は、成りたたないかもしれません。
これは、西洋的な考え方かも。

なぜなら、「名色」というのは「理論(名)と事実(色)」とも、言えるからです。名→色。
このあたり、なかなか微妙ですが、思惟によって名づけられると、それは、事実としてみられる、という見方もありうるかと思います。
「りんご」と名づけられて、わたしたちは、りんごを知る、というように。名づけられたものとじっさいのものは一致しています。なので、ありのままの世界となります。

>見解をなくすのが「空」を観ずることであり、それは仏教の教えの部分である。

これは、「空・仮・中」ということとはちがいます。この場合、これら三つは、ほぼ同じことと言ってるといってもいいかと思います。

前に、ちがうといいましたか?
みみっくさま、なかなかくわしいですね。どこで言ったかな?

仏教は、見解消しただけでは、悟りの境地にいけないからです。けっきょく、最終的には、煩悩を残りなく滅しなくてはならないので、最後の詰めの作業が残っているのです。

わたしの煩悩滅する方法とみんなの煩悩滅する方法は同じだと思います。個人差はあっても、縁起的に進んでいくのは変わらないのです。理論を知って、その通りにすると、そのようになっていきます。

投稿 管理人エム | 2007/09/17 20:09

管理人 エム 様

道場へ書き込みます

投稿 春間 則廣 | 2007/09/17 19:47

春間さま

ご助言ありがとうございます。
ただ、わたしも、春間さまのおっしゃることが、あまりよくはわかりません。

相対的世界にとどまらない、ということかなと思ったり、たえず方向を変えるということかなとも思ったりしますが、どうもそういうことではないような気もします。。。

仏法が向かう方向というのは、あるのではないかと思いますが。大局的には、悟りに向かうのでしょう。
たとえ菩薩であっても。

また、大乗の行く先を見すえている龍樹のいうことを、大乗仏教徒はさっぱり理解していないように見えるのも、どうなんだろうと思うのです。

大乗仏教はどこへ行くのでしょうか?

投稿 管理人エム | 2007/09/17 18:28

>> 一般論として語るのと具体的な物事を語るのではベクトルが正反対になる。ということなのですが。
>
>ますますわからなくなってきました。
>どっちが一般論?ブッダも龍樹も、具体的に語り、それゆえ、それは普遍的なものとなりました(なったかな?)。

 道場で関連する話が出ているので引用します。

道場よりエムさんの発言を抜粋
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbsnew/wforum.cgi?no=2558&reno=2557&oya=2557&mode=msgview&page=0
>龍樹は、ブッダと明らかにタイプがちがいます。
>ブッダは、三明の説明からもわかるように、修行の体験の深い人だったように思います。さまざまな神通も具えていたようです。体験から、知恵がわき起こるタイプなんですね、きっと。

>こういうことからすると、わたしの見たところでは、龍樹は、知恵から入るタイプのように思います。
>まず煩悩を滅していく修行体験を積んで、それから悟りの智を獲得していくタイプというより、知恵を開発することによって、逆に禅定体験の深まりを得ていくタイプのように思います。

 これが「正反対のベクトルである」というところまではいいですよね。
 修行→悟りの智と、知恵→禅定体験の深まりは正反対のベクトルです。

>>  だからブッダには著作はなく、龍樹には著作がある。
>> というのが私の言いたいことです。

 著作だと、不特定多数にあてはまる話を求められます。(これが一般論)
 説法だと、特定少数に具体的にあてはまる話が求められます。(これが具体的な話)

 目の前の人に具体的にあてはまる話を直接するのと、さまざまなタイプの人に理論的にあてはまる話を間接的に(著作を通して)するのとでは同じことを言っていても違ってくるということです。

 直接話法では、「その人」にあてはまる話でないと意味がありません。著作では、「一般」にあてはまる話でないと意味がありません。

 例えば、「エムさんの煩悩を滅する方法」と、「煩悩を滅する方法」では内容は同じでも事情が異なる。ということになります。

>どっちが一般論?ブッダも龍樹も、具体的に語り、それゆえ、それは普遍的なものとなりました(なったかな?)。
 具象から抽象に至るのも抽象から具象に至るのも同じであるのは理論的にはその通りだと思います。
 ただ、現実問題としてはそこまで行かないのが普通でしょう。
「科学はそうなっていない」と言えば賛成してくれるのではないでしょうか。

「具象→抽象」と「抽象→具象」が同じであるためには「一切について語られている」必要があります。「科学は一切について語ってはいない」ということです。(もちろんそれが目標ではあるでしょうけれども)

道場よりエムさんの発言を引用
>わたしの解釈ですが、龍樹の思想といわれていますものは、ブッダの教えの中にみな説かれているものです。
>龍樹は、ブッダが説いたものを説いていて、ブッダが説かなかったものを説いていません。今まで検討したところでは、このように言えます。

 問題はこれです。
 
 このような言明は文献を検討しただけではできないはずです。

 ブッダの教えと龍樹の思想が同じであるということは、「理論的にそうなる」ということではなく、「現実にもそうなっている」ということが言えないといけません。

 エムさんが著作を通して訴えたいこと、証明したいことはこのことであるはずです。

>>  見解をなくすのが仏教の教えであり、「空」を観ずることである。
>
>いいですけど、一部、ちょっとちがいます。
>見解をなくすのが「空」を観ずることであり、それは仏教の教えの部分である。
 
 前に出てきた「中・仮」の解釈のことでしょうか。
 つまり、「空と中と仮」は同じではないと言っていましたよね。
 それとも、それとは別の話でしょうか。

 どちらにせよこれは「究極」の話ですね。仏教の教えと「空」思想は等価であるか否かという話ですから。


 春間さんへ
>みみっく さんは、理解できないし (したくないでしょ ?)
 私は仏教徒ではないし、なるつもりもないですよ。
 それが春間さんの言いたいことであれば正しいです。

>> 一般論として語るのと具体的な物事を語るのではベクトルが正反対になる
>
>仏法の世界には、方向がないのです
 そもそも仏法の話ではありません。見ればわかるでしょうに。

>(戯論ではなくて、真実不虚とは、すべての人の願う(向かう)ところです)
「全ての人の願うところ」の話でもありません。見ればわかるでしょう。

「全ての人の願うところ」とは無関係の話をしているのです。

 繰り返しになりますが、「全ての人の願うところ」とは無関係の話をしています。

 それについて春間さんが言いたいことを言うのは別に構いませんが、私個人に向けて言うべきことではないでしょう。

 この問題が仏教において重要な点であるということは理解しています。春間さんが仏教徒としての立場から発言するのは別に構わないですよ。私は賛成ではありませんけれどもね。

投稿 みみっく | 2007/09/17 18:16

> 一般論として語るのと具体的な物事を語るのではベクトルが正反対になる

仏法の世界には、方向がないのです
(一見して、正しいようで、理をとらえきれていないから、こうした表現になるのです)
( 誰が ? )
(正反対という時の中道は、ここではとらえられていません)
こうしてあらわすときに、価値観が生まれ、手を携えようとするのです !!
(ベクトルが生まれるのです)

何度も、同じ事を繰り返すのですが、方向を置いた時に
戯論が生まれるのです
(戯論ではなくて、真実不虚とは、すべての人の願う(向かう)ところです)

価値の否定は、方向に沿ってあるときに肯定となります
そこでは、否定は肯定そのもので、補強です
龍樹は大乗の行く先を見据えているのです
(乗 だからいく所がおかれているのです)

これは、管理人様への助言です
みみっく さんは、理解できないし (したくないでしょ ?)

投稿 春間 則廣 | 2007/09/17 09:34

みみっくさま

> 多くの主張をしているのに最後に見解がなくなってしまうのが仏教である。という見解でいいですか?

いいですよ。

>  見解をなくすのが仏教の教えであり、「空」を観ずることである。

いいですけど、一部、ちょっとちがいます。

見解をなくすのが「空」を観ずることであり、それは仏教の教えの部分である。

> 「論を立てない」という龍樹の言明と同じことですね。

そうですね。龍樹は、「空」を説きますから。ブッダと同じです。

>  だからブッダには著作はなく、龍樹には著作がある。
 というのが私の言いたいことです。

うううむ、ちょっとわからなくなってきましたね。
ブッダは、著作はないけど、説いた教えがあるのですが。著作より、もっと伝達力があります。。というのは、関係ないか。

> 一般論として語るのと具体的な物事を語るのではベクトルが正反対になる。ということなのですが。

ますますわからなくなってきました。
どっちが一般論?ブッダも龍樹も、具体的に語り、それゆえ、それは普遍的なものとなりました(なったかな?)。

龍樹の場合は、あまりに具体的に語ったので、普遍的に「わけわからなく」なりました。という方が、イイかも、トホホ。

投稿 管理人エム | 2007/09/17 08:49

 多くの主張をしているのに最後に見解がなくなってしまうのが仏教である。という見解でいいですか?

 見解をなくすのが仏教の教えであり、「空」を観ずることである。

「論を立てない」という龍樹の言明と同じことですね。

 だからブッダには著作はなく、龍樹には著作がある。
 というのが私の言いたいことです。

 一般論として語るのと具体的な物事を語るのではベクトルが正反対になる。ということなのですが。

投稿 みみっく | 2007/09/17 07:12

コメントを書く