「空」の考察(妄想風味)
平川彰先生の『インド・中国・日本 仏教通史』の
龍樹のところを読んでいたら、こんなふうに書いてありました。
「竜樹は『中論』で、仏陀の根本思想である縁起説を空(シューニャ)の立場で解明した。事物の本性は空であるから、現象の世界が成りたつ。諸法の本性は無自性・空である。これは有部が、法を有自性と見る立場で現象を説明するのと真向から対立する。空の立場は、物質の本性をエネルギーと見る近代科学の立場に近い。すなわち空とは虚無の意味ではなく、力として実在であるが、特定の固有性をもたない意味であり、物質的と精神的との無自性の力の結合、強力のあり方の上に、現象の成立、変化を理解する立場である。
………それゆえ、空とは現象成立の能動的根拠を示した用語である。」(39-40ページ)
かなり、解釈が入っていますね。
「空」については、このような現代の科学的見方をアレンジした解釈が多いと思います。
玄侑宗久氏の『般若心経』(ちくま新書)の解釈もそうだったような気がします。
「空」ということばは、それこそ空(空っぽ)なので、
ここに、いろんな意味を入れることができる便利な用語です。
その分、けっこう恐いことばでもあると思います。
どんな場面に使っても、それなりに、ピタッとおさまってしまうことばです。
平川先生の解釈も、それなりにピタッとおさまって、うまく説明できているように思います。
これは、これで、このような見方をする人には、成りたちます。
科学者にとっては、説明のとき、この解釈は便利に使えるかもしれません。
でも「空」ということばが、これだけの意味しかないかと言うと
どうでしょうか。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
「空」は、ブラックホールのように、人々の思惟を何でも吸い込んでしまう。
しかし
「空」は、虚空のように、人々の思惟を雲散霧消させてしまう漠々たるものでもある。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
「空」は、「名色(名称と色形)」の特徴だと思います。
「縁起」の論理を「名色」において展開させると「空」という特徴がでてくるのです。
ということは、平川先生は、「名色」のうち、おもに「色(色形、物)」の部分について
説明したということになります。
仏教は、科学ではない。
科学を部分としてもつけれども、それだけに終わるのではない。
科学も、また、たくさんの見方のうちの一つの見方でしかない、
ということを知らせるのが仏教である。
仏教では、「名」を先に説くからです。
「名色」とは、名称と色形のことです。
基本的に、名称が先に来るのです。
その後、色形をそれに添って認識するのです。
しかし、この「名色」というのも複雑で
「名称」と言っても、
たんに「ことば」と言うだけではないさまざまな心の働きを
すべてふくめていっています。
意識の上にのぼってくるもの、それらをほぼすべて
とりまとめて「名」と呼んでいるように思います。
こうなると、いかなる見解も、見解として見るという態度が生まれます。
その見解によって、色(物質)が、説明されます。
いかに巧みに説明されようと、色(物質)は名(名称)の支配を受けています。
色が、独り立ちして、わたしたちを圧倒することはありません。
(平川先生の解釈は、ちょっと、色が一人歩きしてる感がありますね。)
科学の世界が、現代人のわたしたちにとって、世界のすべてであるように見えても、いずれ、それは失われていく理論でもあることを、名色の「名」→「色」という順序は、暗示しています。
しかし、それだからと言って、「名(心の働き)」が、一切を生みだす真実なるものかどうか、それもわかりません。
なぜなら、仏教では、名色の世界をこのようなことばで呼ぶからです。
プラパンチャ
名(心の働き)によって広がる世界を、多様な現象世界(プラパンチャ)と呼んだのです。
それは、心の中に広がる意識の世界、さらには、言語で言い表される世界をさしています。
わたしたちの心の営み、ことばをもつ人間の営み、一切が、プラパンチャです。
プラパンチャは「戯論(けろん)」と訳されます。
巧みな訳語です。「戯」の字が効いています。
現代人が、人間を他の動物から区別するところの誇るべき特徴
「思惟する動物」「言語をもつ動物」
このような、側面を、仏教では、プラパンチャと述べるのです。
なんちゅうこった!
「考える」
「ことばをもつ」
これなくして、人間を他から差別化するものはない、とまで言える
大事な特徴。
われらが誇り、ともいうべきもの。
なのに、
なのに、
このような思惟によって広がる世界を
プラパンチャ(迷妄、虚妄)
と、仏教では述べるのです。
人間が、奢れば奢るほど、仏教の思想は
ガツンガツンと
人間の頭をたたくのです。
そして、
おまえは、おまえ自身(自己)において
「空(空っぽ)」だと
知れ
と、とどめを刺すのです。
行き詰まった人間が
「えーん、ごめんよ、ごめんよ。バカです、バカです」
と、反省したとき
そのとき、ようやく扉が開く音がするのです。
「名色」を脱して、ようやく、次の行程にいけるのです。
ああ、まだあったのか、次の行程が。。。「識」「行」「無明」
がんばれ!先は長いぞ!
仏教は、自分がバカであることを
一つずつ確認する道なのです。
なんてぇ、こったい!仏教って!
| 固定リンク
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/58200/16443681
この記事へのトラックバック一覧です: 「空」の考察(妄想風味):


コメント
入門者さま
また、どうぞ遊びにきてください。
大きさをもたない点のお話しは、極微(原子)について語るところで問題になって、同じような議論が、インドでもくり広げられます。
龍樹の『大智度論』(『大正蔵』25,p.147c)という論書のなかに、いろいろありますので、興味があれば、ご覧ください。
投稿 管理人エム | 2007/09/18 16:36
先生のHPを拝見させていただきました。
こんな凄い先生とは知りませんでした。当方ちょっと仏教をかじっただけなのに、わかったような生意気なことを言い、とても恥ずかしく恐縮です。では退場させていただきます。(スゴスゴ)
投稿 入門者 | 2007/09/18 16:19
私のモットーです。
suvaco cassa mudu anatimani.
ps
点は大きさが無いなら無限大に集めてもゼロで、画面を作れませんね。この答を見つけた時何やら一つステップアップしたような気持になりました。
数学のゼロや極限の概念で仏教的にこの世を眺めると結構理解できます。
投稿 入門者 | 2007/09/18 06:53
入門者を気取る貴方へ
・・・・・・・・・・・・
>仏教は、理論上、まだまだ隙がありません。
ブッダは完璧ですが、先生の言われる理論とは悟った人の理論でしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・
エム様のいう隙がないということは、エム様を含めて、
世の人たちが、いまだその欠陥(=間隙)を見つけ得ないということで、
完璧を直接的には言っていません
そこが、論理学者の(はしくれ?)面目躍如たるところです
完璧と規定できる人は、完璧に知る人です
信を持つ人は、その対する真理を、正しいと認めうる人です
分からない人には、不信しかないのです
だから、信じたい(信じていない)のです
貴方は、言葉の迷いの中でしか考えていません
実がないからです
(言い替えると迷妄を楽しんでいるのです)
(一人の仏陀は経典の中でそう諦めています)
それ(真理)は、たたかなければ開かれませんし、
たたくのも、開くのも、
(わが国の中では)自身です
ここが、仏国土です
投稿 春間 則廣 | 2007/09/17 20:51
>では、ちょっと一つ、このようなことを考えてみてください。静止画の点々は、何でしょうか?
スラーの絵のような点描画ですと、人も木も点々です。
「人」として「木」としては、そのまま直接とらえて「空」でよいかもしれません。
でも、「点々」としては、点々そのままですね。これでは「空」とは言えません。「点」においては「空」が言えないのは、「点で話にならない」のです(だじゃれですいません)。
こちらこそすみません。言われていることが入門者には理解できません。
点は大きさが無いが、存在するものです。これは一般常識には反すると思います。
たとえば北極点は地球の自転の軸の中心として存在しますが、北極に行ってここですと言えません。
せいぜい丸を描いて、この範囲に存在していますとしか言えません。
>仏教は、理論上、まだまだ隙がありません。
ブッダは完璧ですが、先生の言われる理論とは悟った人の理論でしょうか。
>「色」と「心」も、同じ一つの理論で説けなければなりません。別々なら、なにも「名色」とひとまとめにすることはないでしょう。
名が空であるのと、色が空であるのと同一でなければならないとは思いませんが、どうも議論しても到達点は遠いように感じますのでこれにて失礼させていただきます。
投稿 入門者 | 2007/09/17 20:14
>> 全てを説明しているのであれば当たり前でしょう。
>
>全てを「説明している」のであれば当たり前でしょう、と言ってください。こちらの方が、より正しいです。
「全てを説明している」と全てを「説明している」では違うのは了解です。
でも本当にそちらの方がより正しいですか?
私の感覚だと「全てを説明している」は必然で、全てを「説明している」は偶然というニュアンスになるのですけどね。
「空」は全てを説明している。全てを説明しているのが「空」である。
「空」は全てを「説明している」が、全てを「説明している」のは「空」とは限らない。
という感じになります。
でもこれは、表現の問題ではないみたいですね。つまり、「空を観ずるのは仏教の教えの部分である」とエムさんは言っていましたから。
私は全てを説明しているのが「空」であると解釈していますが、エムさんは、全てを「説明している」のは「空」とは限らないと考えているという解釈でいいですか?
>> 「このようなこともある」が「思った通り」になるのが空を知ることであり、「思った通り」が「このようなことがある」になるのが縁起を知ることだと私は思いますけどね。
>
>逆でもいいかも。よくわからんです。
そりゃあ、究極には逆でも同じだと私も思います。
違いが出るのは思った通りではなかった場合ですから。
「このようなこともある」が「思った通り」ではなかった。
「財布を落としても出てこないこともあると思っていない」からずっと出てくるのを待っている。
「思った通り」が「このようなことがある」ではなかった。
「財布を落としても出てくると信じているが実際にはそうならなかった」から怒り狂う。
「財布を落としても出てこないこともあると思っていて、財布を落としても出てこないことがある」だと違いはありません。
>みみっくさま、NO!
>力強く反論!「全ては私の思った通りである」は、いけません。
>
>全てはあるがままである。。。。。。。。。
「財布を落としても出てこないこともあると思っていて、実際にも財布を落としても出てこないことがある」
「財布を落としても出てくることもあると思っていて、実際にも財布を落としても出てくることがある」
「自分は財布を落とすことはないと思っていて、実際にも財布を落とすことはない」
「自分は財布を落とすこともあると思っていて、実際にも財布を落とすことがある」
これが「全てはあるがままである」ということではないですか?
そしてこれが、「全ては私の思った通りである」ということです。
「自分は財布を落とすことはないと思っているが、実際には財布を落とすことがある」
「自分は財布を落とすこともあると思っているが、実際には財布を落とすことはない」
は、「全てが私の思った通り」ではないということです。
思いと現実が一致するとき「私」はないですよ。
「自分がそう思っている」のではなく「実際にもそうなっている」のですから。
「私がそう思っている」のではなく、「実際にそうなっている」のであれば、「思い」は存在していません。
>「全て」とは、「思惟する全て」であり、「心がはたらくところの全て」であります。
>(仏教では、まだ、他にもちょっとあります。)
「現実の全てと思惟する全て」が「一致するところと一致しないところ」です。
以上です。
投稿 みみっく | 2007/09/17 18:14
入門者さま
なるほど。素粒子理論のような感じにもなりますね。
では、ちょっと一つ、このようなことを考えてみてください。静止画の点々は、何でしょうか?
スラーの絵のような点描画ですと、人も木も点々です。
「人」として「木」としては、そのまま直接とらえて「空」でよいかもしれません。
でも、「点々」としては、点々そのままですね。これでは「空」とは言えません。「点」においては「空」が言えないのは、「点で話にならない」のです(だじゃれですいません)。
龍樹の屁理屈は、案外、屁理屈ではなくなります。
仏教は、理論上、まだまだ隙がありません。
「色」と「心」も、同じ一つの理論で説けなければなりません。別々なら、なにも「名色」とひとまとめにすることはないでしょう。
さらに、挑戦してみてください!すべてをいかにして説明しきるか、ここが問題になっているのです。
投稿 管理人エム | 2007/09/17 15:19
すみません、追加説明させてください。
私が書いた空は色についてです。
心の空はまた別です。心の空は時間軸が必要で、色で言った無常にあたります。
色が時間軸に沿って変化して行く(=無常)を受け取っている心も無常である、これを心の空と言うとでもします。
投稿 入門者 | 2007/09/17 11:43
>「名」と「色」が藁束の関係、という観点で空である、というご意見も、なるほどと思いましたが、ちょっと、うまくいかないかとも思います。
平河先生の言っている意味はこういうことでしょうかと思っただけで私の意見は違います。
>サーリプッタが説いた「縁起」の説明ですが
そうですが、竜樹の空もこれかと思いました。不勉強反省です。
>「縁起」は、基本的に「因果関係」なのです。
そうなんですか。仏教用語に疎いので、自分で勝手に定義していました。
私の理解
初期仏教
因果の法則:Xが原因でYという結果が生じる。X⇒Y
因縁の法則(または縁起の法則):直接的要因(因)Xと間接的要因(縁)xの両方がそろった(因縁和合)ときに結果Yがもたらされる(因縁果)。X+x⇒Y
空は別の考え
1.YにおいてXが欠如している。YはXに関し空。
2.Xは存在しない。Xは空。
の二つの使われ方
大乗仏教(竜樹)
縁起法則:Xに依ってYがある。Yに依ってXがある。
⇒XとYはお互いに相依相成しているのであり、それぞれ個別に存在するものでない(無自性)。
⇒これを空という。X→Y、Y→X ⇒ X、Yは空
>つまり、時間的な関係です。そして、「縁起」ということを知ると、そこからはじめて「空」という特徴が見つかるのです。
私の理解
空とは3次元で現象を断面的にみると、明確にあるのだがこれとは指し示せない状態で、常識では理解できないが、それが世界の実態であるという現象であり、無常とはそれに時間軸を加え、空が因果法則により変化して行くという認識。
映画にたとえて言えば空は映画の一こまで、スクリーン上に写っている静止画、それが次々に流れると動画(=無常)になる。人は実際にあるかのごとく錯覚する。
竜樹の言う空とは理屈で、拵えた空と感じます。
無自性だから空というのはワンステップ屁理屈が入っています。
現象の一切は空であると直接掴めば理屈は要りません。
まだ勉強を始めたばかりの素人が偉そうなことをいってすみません。仏教には増上慢を戒めていますね。ブッダは全てお見通しです。
今後とも勉強のためお邪魔させていただきます。
投稿 入門者 | 2007/09/17 10:08
みみっくさま
> 全てを説明しているのであれば当たり前でしょう。
全てを「説明している」のであれば当たり前でしょう、と言ってください。こちらの方が、より正しいです。
> 空の意味を理解するということは「全て」を理解しているということだということですね
「全て」とは、「思惟する全て」であり、「心がはたらくところの全て」であります。
(仏教では、まだ、他にもちょっとあります。)
> 「このようなこともある」が「思った通り」になるのが空を知ることであり、「思った通り」が「このようなことがある」になるのが縁起を知ることだと私は思いますけどね。
逆でもいいかも。よくわからんです。
財布を落として出てこないとき、このようなこともある。そして、「出てこないかも」と思った通りであった。
「財布を落としても、最近ならまず出てこないよ」と思い、その通りになった。
どっちも、哀しいですね、という問題ではないが。。
> 全ては私の思った通りである。にならないといけないということなんですけどね。一切智者とはそういう意味でしょう。
みみっくさま、NO!
力強く反論!「全ては私の思った通りである」は、いけません。
全てはあるがままである。。。。。。。。。
だって、「思い(心)」は消えとりますので。
でも、「私」が残ってるでしょ、といわれるなら、それは、もうすでに消えてなきゃならない。あるいは、残り香みたいな「私」があるとすれば、その次で、消えます、消えます。
ブッダは、万全を期すのです。
投稿 管理人エム | 2007/09/17 09:21
>「空」ということばは、それこそ空(空っぽ)なので、
>ここに、いろんな意味を入れることができる便利な用語です。
>
>その分、けっこう恐いことばでもあると思います。
>どんな場面に使っても、それなりに、ピタッとおさまってしまうことばです。
全てを説明しているのであれば当たり前でしょう。
>でも「空」ということばが、これだけの意味しかないかと言うと
>どうでしょうか。
空の意味を理解するということは「全て」を理解しているということだということですね。
>思った通りではなく、「このようなこともある」と実感されるとき、「縁起」を知り「空」を知るのではないでしょうか。
「このようなこともある」が「思った通り」になるのが空を知ることであり、「思った通り」が「このようなことがある」になるのが縁起を知ることだと私は思いますけどね。
全ては私の思った通りである。にならないといけないということなんですけどね。一切智者とはそういう意味でしょう。
投稿 みみっく | 2007/09/17 07:22
入門者さま
はじめまして。いや、とてもお詳しいですね。とても鋭いです。
> 平河先生の説で「物質的と精神的との無自性の力の結合」という文がありましたが意味が理解できません。
名(=心)と色(=身体)とが藁束の関係だから空という意味でしょうか。
わたしも、じつは、ここはよくわかりません。平川先生がどのようにお考えになったか、想像するしかありません。
最初に、「物質の本性をエネルギーと見る立場に近い」といってしまったのが、やはり、ちょっとまずいかも。。。という気もしてまいります。
物質だけですと、科学のエネルギーという説明が、「空」の見方を補佐するように思いますが、仏教では、「空」は、五蘊(色受想行識)ぜんぶについて言えなければなりません。受想行識は、心の働きです。ここは、名色でいうなら、「名」の部分でしょうか。色は身体ですね。
おっしゃるように、名色(=五蘊)が、人間存在となりますから、色受想行識、それぞれが無自性空であります。
そこで、「それらの力の結合」といわれているのかもしれません。
でも、こうなると、受想行識が「エネルギー的」な物質的な色合いを帯びてしまいますね。心が、「もの」のようですね。
「名」と「色」が藁束の関係、という観点で空である、というご意見も、なるほどと思いましたが、ちょっと、うまくいかないかとも思います。
といいますのは、藁束のように相縁るというのは、サーリプッタが説いた「縁起」の説明ですが、これは、誤解されやすく、相互に依存する「共時的な関係」を意味しているように受けとられるため、わたしとしては、ちょっと避けたいのです。
「縁起」は、基本的に「因果関係」なのです。つまり、時間的な関係です。そして、「縁起」ということを知ると、そこからはじめて「空」という特徴が見つかるのです。この点から、次のご意見を見てみたいと思います。
> 私の考えは論理において展開などさせなくても、よく観察すれば名色は空なる性質を持っており、本質的なものだと思うのですが間違っているでしょうか。
そうお考えになられたとすれば、それは、非常に「縁起的な見方」が身についておられる方だと思います。それはすばらしいです。
よく観察して、「空だ」と思われたのは、あらゆるものが、因果関係によって成りたっているのをご覧になったからですよね。何でも変化していきますから。
「空という性質」を、ものに、「有る」性質としてそのまま認めたというのではなくて、「そのように観ずる」ということだと思います。
「どんなものにも空という性質がある」と言ってしまいますと、これは、また、固定化した「空なる性質」がでてきて、まずいのです。油断すると、すぐ「空」という考えは逃げていってしまいます。
この「縁起」「空」の関係が、すぐ逃げていく例をあげてみます。
たとえば、自分の財布を落としたら、「たいへんだ!『わたしの財布』がなくなった」と思って探します。
結婚式では、ステキな白い教会で式をあげて、『永遠の愛』を誓いあったりします。
一度食べて「まずい」と思ったものは、まずいという『レッテルを貼って』しまいがちです。
これらは、ふつうの人がすることであたりまえです。財布を捜さない方が問題かもしれませんし、愛を誓わないのも大きな問題で、何度食べても学習しないのも、これまた問題のように感じるかもしれません。
これは、そうなのですが、やはり、人間には思い通りにならないこともあります。
因と縁により、財布は他の人に拾われたり、愛は壊れたり、ちがうときには、まずいものがおいしかったりもします。
思った通りではなく、「このようなこともある」と実感されるとき、「縁起」を知り「空」を知るのではないでしょうか。
何と言いますか、「空」というのは、けっこう「空」それ自体が空で、融通無碍なところがあるように思います。
「無自性空」とワンパターンに説明されるとき、その「空」の語は、「こりゃ、空じゃないなぁ!」と思ったりします。
「空」というのは、まず、ことば(名)について、もっともよく表れると思います。ことばは論理と結びつくので、このように言いました。
いかがでしょうか。
投稿 管理人エム | 2007/09/16 16:13
はじめまして、初期仏教の勉強入門者です。
宮元先生の「ブッダが最初にかんがえたこと」を読み、見解に新鮮味を感じました。宮元先生の本を全部注文しましたので、共著も読ませていただきます。
たまたまこのブログを見つけ、空について書かれていたので興味深く読ませていただきました。
ただ不明の所がありご教授願えれば幸いです。
平河先生の説で「物質的と精神的との無自性の力の結合」という文がありましたが意味が理解できません。
名(=心)と色(=身体)とが藁束の関係だから空という意味でしょうか。
先生の見解
「空」は、「名色(名称と色形)」の特徴だと思います。「縁起」の論理を「名色」において展開させると「空」という特徴がでてくるのです。
私の考えは論理において展開などさせなくても、よく観察すれば名色は空なる性質を持っており、本質的なものだと思うのですが間違っているでしょうか。
投稿 入門者 | 2007/09/16 11:14
Akasaさま
脱毛されては、ま、まずい、でございます(笑)。
いつも、出だしは、意欲満々、さあ、かっこよく決めようと、大上段に振りかぶって書き始めるのですが、話が進むうちに、どんどんトーンダウンして腰砕け風になるのが、わたしのいつものパターンなんですよね。
「もう、どうにかならんか」と思うんですけど。。。ここが、修正されると、きっと、鳥肌も「重く(?)」なるかも。。。。よし!がんばるぞ!
> 識・行・無明の解釈は「?」ですが。
やっぱり、腰砕けが、ここにも表れてますねぇ。
投稿 管理人エム | 2007/09/15 09:12
エム先生
軽く鳥肌が立ちました。
仏道は奢りと真逆の道、上っ面でなく真に謙虚になる道ということを、巧みに叙述されるその表現力に完全に脱毛、いや脱帽です。
尊敬します。
識・行・無明の解釈は「?」ですが。
投稿 Akasa | 2007/09/14 19:57