部派と大乗、どっちに転んでもいばらの道
本を一冊書くごとに
わたしはかしこくなる。
書いたものが、自分の中にしみわたってくると
何を書いたか、自分でもわかってくるらしい。
ってことは
それまで、わからんで書いてたのか?
という疑問が当然出てくるでしょう。
ううううむ、そうかな。。。
というのは、世間のテマエ、まずいので、
書いたものの意味が自分でも自覚される
といいましょう。
でも、これって、
「わからんで書いてた」
と同じ意味ですね、ははは。
つまり、ね、何が言いたいかというと
あらかじめもっていた偏見が
一つ、また、一つと減っていくということなのです。
ものすごく率直に言いいますと
これまでの龍樹解釈は、明らかに、変。
何が変かというと、
何かどこかにタブー視してるところがある。
龍樹の部分だけで満足しようとしている、意図的に。
これは、龍樹がでかすぎた、ということでもある。
ブッダを、わたしたちがとらえきれていないように
龍樹を、大乗仏教はとらえきれていないのだ
と思ったら、ストンといろんなことが見えてきた。
龍樹は、大乗中観派の開祖なんていわれるけど
そんなもんじゃすまないことは、
大乗の諸君は百も承知だと思う。
中学生になってるのに
おまえは小学生だと言い聞かせて
むりやり、きつくなったランドセル背負わせて
学校へ行かせてるようなもんだと思う。
中観派というランドセルを無理に背負わせても
龍樹には、小さすぎてきついんだわね。
だけど
大乗仏教が、ほんとうに、龍樹の大きさを量りそこねていたのか
というと
これも、必ずしもそうではなさそう。
どこか意図的にランドセルを押しつけていた
感じが残る。
大乗仏教って、そうとう。。。そうとう。。。
なんて言ったらいいか
ほんとは、悩みは深いんだって、思えてきました。
菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)、って言うけど、
摩訶薩(大士、マハーサットヴァ)って、
ほんとに言うとおり
「偉大な人物」「偉大な志の人」
だったんだと思えてきました。
大乗が、なぜ、そんなにつらかったかというと
たぶん、基本的に
龍樹の論法を受けとることを
拒否する道を選んだからだ
と思う。
論法を得ても、きつかったと思うけど
これを拒否すると、
ラクダが針の穴を通るような道を行かなきゃならない。
小さいランドセル背負った菩薩が
大人に向かって
訴えても
誰が聞くだろうか?
子どものくせに
大人に説教するとは何ごとだ
「空」「空」とうるさく言うんじゃない
となっちまう。
大乗は、たぶん、主要なところでは、
部派の中から生まれてきたのだろう。
八千頌般若などの初期大乗の経典は
そう思って読むと
胸に迫るものがありますね。
この経典が作られた頃、まだ、
龍樹は生まれてないだろうから。
さぞかし、きつかったことだろう。
龍樹を得て、ようやく、大乗は
使わないまでも
伝家の宝刀、論法を
心の支えとして持ちえた。。。
表だって使ってはいけないことに
変わりはなかったけど、
自分たちの理解のためには
支えとなったのだろう。
部派も大乗も
いずれにしても
歩む道は
いばらの道なのか。。。
大乗経典を
大衆向けの宗教的文芸作品という
解釈を
わたしは
捨てます。ぽいっ!
| 固定リンク
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/58200/16390070
この記事へのトラックバック一覧です: 部派と大乗、どっちに転んでもいばらの道:
» 『般若心経は間違い?』の間違い [南華のブログ]
アルボムッレ・スマナサーラ長老が『般若心経は間違い?』(宝島社新書)という本を出されました。
スマナサーラ氏は以前にも『仏弟子の世間話』という本のなかで「色即是空」は正しいが「空即是色は間違い」と述べ、当ブログでは“エッ!「空即是色」は間違い?”という記事で、その内容に反論を加えました。
このときスマナサーラ氏が「空即是色は間違い」であるとして揚げた比喩が、「人はみな死ぬ」が「死ぬものはみな人」ではないという奇妙なもので、今回も、「リンゴは果物である」というのは正しいが「し... [続きを読む]
受信: 2007/09/11 21:17


コメント
みみっくさま
> でも「空」思想は一般の人に理解されていないだけではなく、エムさんの解釈では専門家まで誤解しているわけだから、役に立っていません(笑)。
イタイ!!ご意見です。
> 龍樹本でその誤解が是正されるのであれば大歓迎ですけどね。
三回か四回くらい、本の各所に「空」の呪文を埋めこんであります。「無意識」の中にインプットされると、自動的に機能するように仕組んだつもりだけど、どうかな?
この龍樹本は、使える「空」をめざすお役立ち本です。
投稿 管理人エム | 2007/09/12 15:14
>> 過程が抜け落ちた理解は役に立たない
>
>という点を、補おうとして述べたのが、龍樹の「空」思想かな。これなら、そこまで違和感感じないと思うけど。
違和感は感じないかもしれませんね。でも「空」思想は一般の人に理解されていないだけではなく、エムさんの解釈では専門家まで誤解しているわけだから、役に立っていません(笑)。
龍樹本でその誤解が是正されるのであれば大歓迎ですけどね。
>なるほどなぁ。根源的な原因が、目前のできごとの直接の原因に置きかえられてしまってる、ということですか。
>たしかに、煩悩(無明)は、十二因縁のトップにおかれて、最後の最後に滅するものですからね。原因としては、遠すぎるよ、ということになるか。
出家して修行するのであれば、完成形から逆算することで目的地への最短ルートを選択するべきでしょう。でも、在家では「現在地からの最適ルート」を問題にするべきです。
そもそも、完成形から逆算して歩むということは、「現在の全てを投げ捨てる」ことを意味するのですから、出家していない人にはできるはずがないのです。
>たぶん、煩悩にいたる前の、直接的な原因を、語ったのが、龍樹でしょうね。だから、論争(ほんとは論争ではないが)が起こるように見えるのだと思います。
「道筋が見えているかどうか」ということですね。
最後まで道筋が見えている人にとっては論争ではないでしょうが、道筋が見えていない人にとっては論争にしか見えないでしょう。
>いや、ルターが、自由意志をもたない、と、このように「自由に」述べているということ自体、知的活動の証拠であると思います。
>宗教というのは、不思議なものです。宗教の名の下に、人間は、そうとう自由気ままに述べてきたのではないかと思いますよ、ほんと。本人自覚してないだけで。
私が反論するのもおかしな話ですが、その解釈では「預言者」を認めていないということになるだけだと私は思います。
まあ、これ以上語ると「宗教を語る」ことになってしまいそうなのでやめておきます。
春間さんへ
>原因を究明していると言う“幻想”は、行を伴っていないのです
これは、私と同じ意見です。
>「それは煩悩のせい」という結論だけの表示と、
>頭記のあなたの所論が、重なってはいませんか
>“過程”とは、実践のことです
「重ならないように書くことは不可能だ」ということはわかって書いているんですよね?
いつものことですが、春間さんの投稿は返事に困ります。
私の文章とどういう関係にあるのか不明なので。
一応、必要と思われる部分を説明してみました。
以上です。
投稿 みみっく | 2007/09/12 02:13
みみっくさま
> 宗教の根本が人間の知的活動であるとは考えられていないようですね。
いや、ルターが、自由意志をもたない、と、このように「自由に」述べているということ自体、知的活動の証拠であると思います。
宗教というのは、不思議なものです。宗教の名の下に、人間は、そうとう自由気ままに述べてきたのではないかと思いますよ、ほんと。本人自覚してないだけで。
> 目の前で問題が起きているのに「全ては煩悩の責任」になっている(笑)。
> 結論自体は間違っていないかもしれないが、「何かが間違っている」といつも思うのですよ。
なるほどなぁ。根源的な原因が、目前のできごとの直接の原因に置きかえられてしまってる、ということですか。
たしかに、煩悩(無明)は、十二因縁のトップにおかれて、最後の最後に滅するものですからね。原因としては、遠すぎるよ、ということになるか。
たぶん、煩悩にいたる前の、直接的な原因を、語ったのが、龍樹でしょうね。だから、論争(ほんとは論争ではないが)が起こるように見えるのだと思います。
> 過程が抜け落ちた理解は役に立たない
という点を、補おうとして述べたのが、龍樹の「空」思想かな。これなら、そこまで違和感感じないと思うけど。
投稿 管理人エム | 2007/09/11 21:52
春間さま
> 歎異抄で親鸞が、唯円に説いているように
> 「ヨロコフヘキ心ヲヲサヘテヨロコハセサルハ。煩惱ノ所爲ナリ」
> と捉えることも可能ではないですか ?
あらゆる言い方が可能であるのが、仏教である、とも言えますが、そう言える人は、じっさい限られます。
親鸞を生きる人であれば、そう言えるかもしれません。
> 盤珪のいう不生は、また少し違った意味合いを帯びています
> 「自由自在の絶対的主体性を意味する
わからないというほど、わからなくもありませんが、へたをするとたんなる言葉上のものにすぎなくなりそうです。実感がともなわないからです。内面が見えてこないのです。
もう少し勉強します。ありがとうございます。
投稿 管理人エム | 2007/09/11 20:59
みみっく 様
>過程が抜け落ちた理解は役に立たない」、「結論だけ暗記しても理解したことにならない」ということになるのでしょうけどね
「それは煩悩のせい」という結論だけの表示と、
頭記のあなたの所論が、重なってはいませんか
“過程”とは、実践のことです
原因を究明していると言う“幻想”は、行を伴っていないのです
“幻想”という、行を伴っていると応えられるでしょうが、それは、行にならぬ、顛倒した“行”の結論でしかないのです
親鸞の使う言葉は、不虚(般若心経の真実不虚)です
(私にとって)受け取る言葉が、不虚だから、
そこから立ち上がる、縁起は、真実不虚の行です
煩悩という言葉は、“ 空 ”ではないのです
そこを、(梵分・和訳)般若心経は、
「 五蘊あり(しかもそれらは)自性空である と照観した 」
(漢訳 照見 五蘊 皆 空)
と教えているのです
投稿 春間 則廣 | 2007/09/11 14:13
不生
盤珪の言う「不生」について、
(仏教語大辞典1163p)を引用したのは
決して、 ” 不精 ” からではありません
盤珪の言う「不生」が、
彼が望むようには、理解できないからです
と言うより、大事な捉え方だとは考えますが、
盤珪が”捉えたいと欲するに過ぎない”概念の表し方だと捉えています
それの詳細を、ここで披露するには、
「面積」の都合があるので、
取り敢えず、中村氏に登場して頂いた訳です
(中村氏の解釈が正しいと認めることではありません)
投稿 春間 則廣 | 2007/09/11 13:43
>何といいますか、だんだん宗教的なアマルガムになっていくんですよね。ときどき分離したりもしながら。
本家本元の「宗教戦争」は、この「宗教的なアマルガムの否定」が原因だと理解していましたが。
「カトリックの堕落」っていうのはこの「宗教的なアマルガム」のことでしょう。
>宗教の根本が人間の知的活動という面をもつからでしょうか。また、禅定など瞑想をもつのもあるかな。
信仰義認
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
>Sola fide)はルター神学の中軸をなす概念である。ルターは16世紀初頭当時のカトリック教会の腐敗を、行為義認(善行によって神は人を義とする)説に由来するものと考え、これに対して、人は善行ではなく信仰によってのみ義とされるとパウロ書簡によって説いた。ルターの贖宥状批判はこの説に基づいている。
>ルターは自ら翻訳した聖書の序文で、行為の伴わない信仰の虚しさを説く『ヤコブの手紙』を批判し、この文書を「藁の手紙」と呼んだ。ただしルターはこの記述をのちに削除した。 のちにルターはデジデリウス・エラスムスの『自由意志論』に反駁する書『奴隷意志論』においては、信仰義認に対して、自由意志による善行から救いが得られるというカトリック教会の説を否定する根拠づけとして、人は本来自由意志をもたないため、そもそも善行を行うことが出来ないと説いた。
こういう考え方もあります(笑)。
宗教の根本が人間の知的活動であるとは考えられていないようですね。
日本の仏教にもこういう考え方があるのはエムさんも知っているでしょう。
まあ、宗教戦争の話がしたかったわけではないのでこのくらいにしておきますが。
>こんどの本で少し。論法を出しても、けっきょく、歯止めなき論争にはならないんですよね。
>やはり、説法の一種である問答に終わってしまうんです。
>問題の根本に、直接タッチするからでしょうか。
問題の根本を解決できるのであれば、歯止めなき論争にはならないでしょうが、解決しなかったら歯止めなき「紛争」の幕を開けることになるような気がするのですけどね。
>なるほどぉ。。。むずかしい。
>仏教「的」な考え方をする人かもしれないし、仏教な(「的」なし)考え方をする人かもしれませんが、いずれにせよ、「『かならず』答える」のが仏教だと思っています。
>で、純正の仏教は「『かならず適切に』答える」だけど、これは、もう、ブッダのみ。「適切に」がない分だけ、嫌われちゃうのかもね。ほんと、むずかしいですね。。
「かならず答える」のは別にいいのです。問題なのは「答える必要を認めない」という人ですよ。つまり「問題があるように見えるのはお前の煩悩だ」と考えて黙っている人です。目の前で問題が起きているのに「全ては煩悩の責任」になっている(笑)。
結論自体は間違っていないかもしれないが、「何かが間違っている」といつも思うのですよ。
「過程が抜け落ちた理解は役に立たない」、「結論だけ暗記しても理解したことにならない」ということになるのでしょうけどね。
投稿 みみっく | 2007/09/11 07:14
管理人 エム 様
>ここが、いばら。無生法忍は、その境地ですか?
これは、問われているのか、確認されているのか迷いますが、、、
引用ついでに、、、、 という訳ではないのですが、、、、
無生法忍は、維摩経には、「不二の法門に入って無生法忍を得たり」とあります
(入不二法門品九、大正蔵14-550中―下)
法自在は、
「法は本不生なり、今則ち滅なし。此の無生法を得る、是を不二法門に入るとなす」
と説きます
通常この、法は本不生 を無生法忍と捉えますが
盤珪のいう不生は、また少し違った意味合いを帯びています
「自由自在の絶対的主体性を意味する、、、」(仏教語大辞典1163p)
この、仏教用語は、私には馴染めません !
空という法を得ること、とも、言えるとは思いますが、
いばらの道では、にじみ出る血で、湿気りそうですね
傍から看るから、いばらですが、
歩む人には、喜び、歓喜の道です
歎異抄で親鸞が、唯円に説いているように
「ヨロコフヘキ心ヲヲサヘテヨロコハセサルハ。煩惱ノ所爲ナリ」
と捉えることも可能ではないですか ?
投稿 春間 則廣 | 2007/09/10 22:29
春間様
鋭いですね。
明るく行動的なこころに、
男女の相に対する囚われはない。
自戒。
投稿 Akasa | 2007/09/10 19:12
男前って 右前? 左前?
仏陀が”男”で苦笑しているのですか ?
「いい女」っていわれたら、嬉しいですか ?
また維摩経に行ってしまいますが、
観衆生品七 で、
天女は、舎利弗を女身とします
「仏は、男にあらず、女にあらずと説く」とあります
その前に、「文字を離れて解脱を説くことがあってはならぬ」とあります
「文字は、内になく、外になく、その間にもない」
ともあります
男・女の相を離れて、
解脱が説かれているのではないのでしょうか
投稿 春間 則廣 | 2007/09/10 11:42
春間さま
> ここに、もうひとつ “それ、を見つめる貴方も”
入るのですね
。。。。入ってますか、入ってるみたいですよね。
> (部派も大乗もどこにあるのでしょうか ?)
どこでしょう? わたしには、同じブッダ論理なんですが。
こういう考え方は、あってるかまちがってるかわかりませんが、部派と大乗は、そんなにそんなに大きなちがいなのか、という気がしてなりません。
現象面ではちがうんですが、根本的な思惟において、ちがっているようには見えません。
龍樹と大乗のちがいの方が、今のわたしには大きく見えます。これは、まだ勉強していくとちがってくるかもしれないんですけど、今のところ、こんなふうに思えてなりません。
> 苦と楽は、縁起にはなりませんが、
> 非常に近いところにあると思います
だから、ブッダは、比丘たちに「楽によらず苦によらず」という中道を説いたんでしょうね。
> シーラを囲いと見れば、抜け出ることは適いませんが
希望・喜び とみるときは、外にいます
> 空・縁起とは立場を持つということではないでしょうか
> “余ったもの(余る所)がある” という こと です
そして、これが、大乗的展開かと。このダイナミズムが大乗の醍醐味のような気がします。
しかし、大乗は、その前段階に、大乗版の「中道」もあると思います。菩薩行です。ここが、いばら。無生法忍は、その境地ですか?
投稿 管理人エム | 2007/09/10 10:41
みみっくさま
> そうかそれで仏教では宗教戦争がなかったのか(笑)。
インドでは、西欧的な意味で宗教戦争といえるものはなかったように思います。
何といいますか、だんだん宗教的なアマルガムになっていくんですよね。ときどき分離したりもしながら。
宗教の根本が人間の知的活動という面をもつからでしょうか。また、禅定など瞑想をもつのもあるかな。
> それともどこかで(エムさんが)書いていますか?
こんどの本で少し。論法を出しても、けっきょく、歯止めなき論争にはならないんですよね。
やはり、説法の一種である問答に終わってしまうんです。
問題の根本に、直接タッチするからでしょうか。
> 何というか、「問題は存在しない」と言い出す人が嫌いなのですよ。
なるほどぉ。。。むずかしい。
仏教「的」な考え方をする人かもしれないし、仏教な(「的」なし)考え方をする人かもしれませんが、いずれにせよ、「『かならず』答える」のが仏教だと思っています。
で、純正の仏教は「『かならず適切に』答える」だけど、これは、もう、ブッダのみ。「適切に」がない分だけ、嫌われちゃうのかもね。ほんと、むずかしいですね。。
投稿 管理人エム | 2007/09/10 10:08
>部派も大乗も
いずれにしても
歩む道は
ここに、もうひとつ “それ、を見つめる貴方も”
入るのですね
部派も大乗も貴方が捉えるように在る(った)としたら
“いばら”の道かも。。。 (。。。)
(部派も大乗もどこにあるのでしょうか ?)
たつところ(見渡す場所)によって、景色は変わります
低いところから見れば、高く見え
高いところから見れば、低く見えます
(しかし、高低はただの縁起です)
(見渡す自らを、見渡す場所は ?)
苦と楽は、縁起にはなりませんが、
非常に近いところにあると思います
シーラを囲いと見れば、抜け出ることは適いませんが
希望・喜び とみるときは、外にいます
空・縁起とは立場を持つということではないでしょうか
“余ったもの(余る所)がある” という こと です
投稿 春間 則廣 | 2007/09/10 09:29
Akasaさま
そ、そうでしょうか!男前!ですか?
う、うれしいです(でも、男前ってまずいんでない?ひとりごと)。
> でも、仏道がいばらの道とは。ブッダに苦笑されませんか。
うーん、修行が足らん!ですね。
「犀のごとくただひとり歩め」と自分に言い聞かせます。
投稿 管理人エム | 2007/09/10 09:22
>> 受け取ってもいばらの道なんじゃないの?
>
>そうかも。。いや、もっとすごいかも。いばら、っていうより、槍や剣の道だったりして。
今ならまだ間に合いますよ(笑)。
引き返すなら今の内ってもう無理か(笑)。
「いばら」はまだ「自然」だけど、「槍や剣」だと意味がかなり違うような気が。
そうかそれで仏教では宗教戦争がなかったのか(笑)。
仏教に戦争を持ち込んだ学者として後世から認定されたりして。
まあ、冗談はともかく論法を表に出す意味というのは考えないといけないことでしょうね。
それともどこかで(エムさんが)書いていますか?
>どういう意味かな?「すでに解決されてる」という立場とは、何だろう?
>ブッダは完成してるということかな?(仏教徒は、まだ未完成ですが。)そういう意味じゃないのかな。
「問題は解決していない」に反発しない人は対象外です。
何というか、「問題は存在しない」と言い出す人が嫌いなのですよ。
仏教的な考え方がそういう人を増やしているという印象が私には強い。
まあ、仏教の責任ではないかもしれないけどね。
投稿 みみっく | 2007/09/10 02:01
エム先生
男前!ですねー。
ぽいっ!と捨てる辺りが。
でも、仏道がいばらの道とは。ブッダに苦笑されませんか。
投稿 Akasa | 2007/09/09 22:20
みみっくさま
> わかってから書いた文章より、わからないままで書いた文章の方が優れているというのは皮肉ですが、後からでは同じものは書けないというのはよくあることだと思います。
たしかにありますね。わかって書くと、簡潔に要領よくまとめられるので、そこに至る過程が見えなくなって、かえっておもしろみに欠けてしまう、という感じです。
> 受け取ってもいばらの道なんじゃないの?
そうかも。。いや、もっとすごいかも。いばら、っていうより、槍や剣の道だったりして。
> 「問題が解決していないから」だと私は思うけどね。
> なのに、「問題は既に解決されている」という立場を崩すことができない。
「自分の身に余る無理難題を解決しようとするから」じゃないかと思うけど。
「すでに解決されてる」ってことはありえない。菩薩だから。発展途上の修行人です。
> 私が仏教嫌いなのは実はこれが原因だったりする。
どういう意味かな?「すでに解決されてる」という立場とは、何だろう?
ブッダは完成してるということかな?(仏教徒は、まだ未完成ですが。)そういう意味じゃないのかな。
投稿 管理人エム | 2007/09/09 20:51
>でも、これって、
>「わからんで書いてた」
>と同じ意味ですね、ははは。
普通だと思いますが。
それはつまり、わからないところからわかるところへ移行する過程が含まれているということではありませんか。書き直すとこういう試行錯誤の過程がなくなって返ってわかりづらくなったりします。
書き直した方が内容は充実したものができるかもしれませんが、その代わりに重要なものが抜け落ちてしまうのです。
わかってから書いた文章より、わからないままで書いた文章の方が優れているというのは皮肉ですが、後からでは同じものは書けないというのはよくあることだと思います。
「試行錯誤の跡を残す」ことに価値があるということなんですけどね。
>大乗が、なぜ、そんなにつらかったかというと
>たぶん、基本的に
>龍樹の論法を受けとることを
>拒否する道を選んだからだ
>と思う。
受け取ってもいばらの道なんじゃないの?
>大乗仏教って、そうとう。。。そうとう。。。
>なんて言ったらいいか
>ほんとは、悩みは深いんだって、思えてきました。
「問題が解決していないから」だと私は思うけどね。
なのに、「問題は既に解決されている」という立場を崩すことができない。
だから苦しまなくてはならない。
私が仏教嫌いなのは実はこれが原因だったりする。
まあ、「問題が解決していない」などと言えば反発されるのは当たり前だとは思うけどね。
投稿 みみっく | 2007/09/09 19:29