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2007/07/15

あると信じていたものは、かならず壊れるときがある。
あると思っていたものは、かならず無くなっていく。

あると思ったものが、その中にないとき、
あると思ったものについて、「そのもの」は「空」である、という。

「そのもの」は、あると思ったものについて「空」なのです。

「そのもの」の中に、他のものがまだのこっているとき、
のこっているものについては、「空」ではありません。

 あると思ったものがなくなるのは、常のこと。
 中に何かのこっているのを見つけることも、よくあること。
 空っぽになっても、中に何かを満たすのも、発想の転換。

「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、
世界を空なりと観ぜよ」(『スッタニパータ』1119)

ブッダは「虚無」を説きません。「空」を説くのです。

身体と心の断滅(つまり、虚無)をとく賢者もいますが、
ブッダは、「これらの偏見にはこだわりがある」と知って
それを説きません。(『スッタニパータ』876、877)

そうではなく「涅槃」をとき「不死」を説くのです。

だから、さっきの「空なりと観ぜよ」に続いて
こういうのです。

「そうすれば死を乗り超えることができるであろう。
このように世界を観ずる人を、<死の王>は
見ることがない」(『スッタニパータ』1119)

「空っぽ」でも「真空」でも、だいじょうぶ。
「何も無い」のではないのです。

> 落ち込んで、かがみこめば、後には、満たして伸び上がるから 欲 なのです
(マジカル広場、[520]、春間さま、より)

これ、いいかも!
「空」の吸い込みも期待大です。

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コメント

山田隆博 様

>アインシュタインの言葉を借りるならば『時空の縁起』

この言葉の、出典(もしくは依拠するところ)を、
お教えいただけないでしょうか
また、わかれば、その時のドイツ語もしくは英語の原語をお知らせいただければ、ありがたいのですが
ー そのことについて、よくthink(denken Sie)してみたいと思っています

ー 私の理解では、アインシュタインは仏教の思想を、理論物理学で表そうとはしましたが、「縁起」という
語自体には、論及していないと思っていますが

投稿 春間 則廣 | 2007/07/16 09:03

山田隆博さま

なるほど、なるほど、そのようにお考えになられましたか。

「時空」を必要とするのは、ブッダ(覚者)以外の人々(わたしたちも含む)ですよね。悟った人には、もう「時空」も何もないんだろうと思います。

でも、昔も一般的には「時空」は意識されていたように思います。
釈尊もまた、三明を悟ったとき、みずからの過去世をずっと見て知り、現在から未来を見てみんなの行く先を知り、煩悩を滅ぼす四聖諦を知りました。
最初に、「時間」を意識して、次には「時空間」(輪廻の六道は空間的なので)を意識して、最後にそれを超えたのかなと思います。

わたし的な発想で乱暴にいうとこんな感じです。時空の軸は補助線のように使われて、輪廻転生は、それによって説明されますが、最後に串をぬいておダンゴだけにするように、時空の串はぬかれて「生死」は落ちて一緒くたになります。(乱暴すぎるかな)
だから、生死即涅槃となるのではないでしょうか。

> 私は、現代物理の一般常識を前提にして、時間軸で見た『縁起の法』が「諸行無常」であり、空間軸で見た『縁起の法』が「諸法無我」であると考えて来ました。

たしかに、現代の知識を根底におくと、おっしゃるように見えますね。そういう観点も、ありかなと思います。
ただ、ブッダが、あえて、そのあたりを強調しないとすれば、「諸行無常」「諸法無我」の方が、時空をぬいている分だけむずかしいレベル(第一義諦)なのではと思ったりします。いかがでしょうか。

> そこで龍樹は、「般若経の空の論理」を構築すれば、釈尊の教法を明確化できると考えたのではないでしょうか?

龍樹が、般若経の「空」を『中論』に取り込んだのかどうか、そのあたりは、わたしはまだよくわかりません。
部派でも、「空」を説く派はありました。漢訳の阿含経典には、「空」という言葉が出てくるものが伝えられています。
でも、「空」を大きく取りあげて展開しているのは、般若経典ですね。龍樹も、早いうちに般若経典に出会い、影響を受けています。
それは、たしかなのですが、『中論』は、部派、大乗の当時の常識をにらみながら、やはりブッダの法から直接得たもので論を展開しているような気がします。
「空」の出所から考察しているからです。ブッダの阿含経典の理解から、それはやって来ます。

> つまり、龍樹の『空』が釈尊の「諸行無常」と「諸法無我」を包括して扱ったために、看話禅のような論理展開になってしまい、釈尊の教法より難しく感じるのではないでしょうか?

おっしゃること、わかるような気がします。『時空の縁起』は、現代的な解釈ですね。たしかに「時空」を込みにして、さらにそれを消す方向に、話をもっていっていると思います。
むずかしいところですが、「そうであるような世界を見るところが、第一義諦の縁起(=空)世界である」ということになるのではないか。。と思います。というのでどうでしょうか?

投稿 管理人エム | 2007/07/16 08:35

釈尊は覚者ですから、釈尊の教法が今後とも訂正されることはないと思います。しかし、科学の進展に伴い表現方法が変化する可能性はあると思います。

私は、現代物理の一般常識を前提にして、時間軸で見た『縁起の法』が「諸行無常」であり、空間軸で見た『縁起の法』が「諸法無我」であると考えて来ました。

釈尊の時代には「時空」という概念がありませんから、『縁起の法』の具体的な説明としては「諸行無常」と「諸法無我」を述べるに留まったのだと思います。

さて、「般若経」の文化が最盛期の時代に身を置いた龍樹は釈尊の教法をどのようにとらえたのでしょうか?多分、論理展開を拒否した黙照禅のように感じたのではないでしょうか? そこで龍樹は、「般若経の空の論理」を構築すれば、釈尊の教法を明確化できると考えたのではないでしょうか?

そうして論理構築された龍樹の『空』は、アインシュタインの言葉を借りるならば『時空の縁起』という省略語に相当すると思われます。つまり、龍樹の『空』が釈尊の「諸行無常」と「諸法無我」を包括して扱ったために、看話禅のような論理展開になってしまい、釈尊の教法より難しく感じるのではないでしょうか?

投稿 山田隆博 | 2007/07/15 23:24

莓矢毒蛙さま

> うーん。「空」と「無我」は難しいっすね。

わたしも、ちょっと前にわかったところです(汗)。「涅槃」が「不死」でもあって、「死王を超える」ってことが実感できたのは、ここ1ヶ月くらいのあいだ(大汗)。

龍樹本で、「空」「中道」など、入り乱れて展開中です。ここを整理するんだ、管理人、ゴー!ゴー!
この山さえ越えりゃ、なんとか。。。。なんとか。。。

なんとかなるようでもあり、ならないようでもあり、なり、かつ、ならないようでもあり、なるのでもなく、ならないのでもない。。。。。

投稿 管理人エム | 2007/07/15 16:32

うーん。「空」と「無我」は難しいっすね。
守備範囲外宣言。

http://park22.wakwak.com/~kuuki/hp/3hossin/ikinuku/seitenhp/87.html
モッガーラージャよ、とか、舎利仏よ、ときたら、
上級者向けということで、初心者には後回しでよいのかな。

美しい女性を見ても、九相図を観ずるイメージトレーニングで、
執着しないようにするのと同じように、
世界をsunnataと観じて、世界に執着しないようにするための
イメージトレーニングであって、
それ以上でもそれ以下でもないという考え方も
成り立つようでもあり、成り立たないようでもあり
成り立ちかつ成り立たず、成り立つでもなくかつ成り立たないでもない・・・

投稿 苺矢毒蛙 | 2007/07/15 13:27

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