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2007/07/23

「鼻」が龍樹だと。。。

龍樹の「鼻」は、犬の鼻。

どんなかすかな善悪でも
嗅ぎわける。

心についた自我のシミを
においでキャッチ!ワン、ワン!

ここほれ!ワン、ワン!
ここほれ!ワン、ワン!

龍樹の「鼻」は、警察犬の鼻。
自我の麻薬を摘発だぁ。

管理人!
シミだらけだぞ!

もう、りゅうじゅ犬、
ヤダわよ、そんなこといわんでええから。
しみ抜き、間に合わないんだもん。

地球にやさしい酸素系漂白剤は
効きが悪いから、
自我のシミもぬきにくいのよ。

ブッダもまた言ってるじゃん。

「ブッダは、諸比丘に告げて言う。
『我によるから、我がものがある。
もし我がないなら我がものもない』と。」
(『十二門論』観因縁門第一)

仕方ないのよ、シミだらけなのは。

管理人!
シミだらけだぞ!
管理人は、シミだらけ!ワン

もう、りゅうじゅ犬!
アンタを書いてるのは
ワタシなんだから
著者のワタシに逆らうなんて
なまいきだぞぉ!

ここほれ!ワン、ワン!
ここほれ!ワン、ワン!
管理人はシミだらけ!
ワタシ、ワタシ、とシミがふえてくゾ!

りゅうじゅ犬!
いい加減にしてっ!
もう、アンタなんか
消しちゃうから。。。えいっ!

ひどい。。わん。キャィン。。。。シーン

はぁ、ヤレヤレ。。。。
ちょっとかわいそだったかな?
でも、でも、うるさいんだもん。。。

  。。。。。。。。。。。

かわいそ?。。。。。。。
だった。。。うる

  。。。。。。。。。。消すこと無かったかな

りゅうじゅう、かんばぁ~っく。。。。。涙

って、こんな感じで
「鼻」が龍樹だと、

破局の結末しか思いつかないよ

ったく、汚点だらけの管理人。。。なさけな

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コメント

山田隆法さま

ずいぶんちがっているのは、ある意味当然かと思います。
『アングッタラ・ニカーヤ』3・67を、このように読んだ人は、表だっては、わたしが最初だからです。
「表だって」と申しあげたのは、その前に、龍樹が、
このような論法上の解釈によって読んでいると思うからです。
龍樹の、『方便心論』のこの個所を解釈するにあたって、参考となるものを探しまくって、阿含に行きついたのです。『アングッタラ・ニカーヤ』3・67に行きついたのは、ほとんど奇跡に近いと思います。

おっしゃる文章3・67・6の読みは、その前の個所からずっと知恵を尽くして考察しなければ、見つけられないでしょう。
わたしも、『アングッタラ・ニカーヤ』に行きついてからでも、この解釈にたどりつくまでしばらくかかりました。もう、ぜったいわからないかと、なかばあきらめてました。
「喩え」という言葉と「法」という言葉、さらに「法を捨てる」という、ここをヒントに、他の阿含経典を読みまくり、龍樹の論書を漁りまくり、考えまくって、ようやく見つけたのです。
これは、『方便心論』の説く論法全体の核心をなすもので、これを否定すると、論法から何から、ブッダの法にいたるまで崩壊します。

パーリ経蔵の注釈者では、これは無理です。阿含の中の論法に、気づいたのは、龍樹がはじめてなのです。

パーリ注釈者の註釈も、合理的で矛盾しなければ、それはそれで成り立つと思います。
しかし、わたしは、この解釈を確信を持ってお勧めします。これは龍樹の解釈です。
これで、解釈するならば、仏法の多くを適切に理解することができます。今のところ、矛盾がでていません。
また、『中論』などの龍樹論書を理解することもできます。

投稿 管理人エム | 2007/07/26 18:15

質問があります。
図書館で、梶山雄一氏が編集の『原始仏典6』(講談社)を見つけたので読んでみました。そのp.245に、向井亮氏の訳でアングッタラ・ニカーヤの三の部「ともに語るべき人」の掲載がありました。
その注(p.308)で、本経の注釈書である『マノーラタ・プーラニー』によれば、一つのことがらが意味するものを、<一つのことがら(貴き実践道という善なることがら)をよく知り、一つのことがら(苦についての真理に関することがら)をあまねく知り、一つのことがら(すべての善ならざることがら)を除き去り、一つのことがら(聖者の最高の境地、あるいは寂滅に関することがら)を目の当たりにする>と解釈しているとありました。
一方、『ブッダの論理学五つの難問』のp.92では、<ただ一つの法を自ら知る=ただ一つの結論が導かれるということ=一向論と組み合わされる推論から導かれるもの;ただ一つの法をあまねく知る=分別論と組み合わされた推論の結論;ただ一つの法を捨て去り、ただ一つの法を直観する=詰論を用いた推論>とあります。

両者の解釈は随分と違っているようにも思えるのですが、前者の注釈書の解釈は一例と考えるべきなのでしょうか?

投稿 山田隆博 | 2007/07/26 09:57

>まさか自分がほんとにバカだったなんて!
>というおどろきです。仏教って、やね(笑)。
 この文章、解釈が難しいのですが、「仏教を学ぶことで目からうろこが落ちた」ということでいいんですかね。
 散々悩んだことでも、分かってみると実は簡単なことだったということはよくありますけどね。振り返ってみると何故あんな簡単(単純)なことで悩んでいたのか不思議に感じるということですね。

>バカだと認識してないだけだった、と認識したとき、驚愕しました。
>まさか、バカだということが認識できないなんて!
 これはよくわかりませんね。自分のバカな部分は認識できないに決まっていると思いますが。「バカなことをやっている自分」を認識できたら、もうしなくなりますから。

>自分のことをバカだと思う人は、ふつういないと思います。かりに、これをほんとにほんとにその通りバカなんだと「認識」できたら、ものすごくビックリします。
「自分はなんてバカだったんだろう」という言葉は時々聞きますけどね。「もう自分は理解したからバカではない」という意味で使っている人が多いようですが。
  
「正しく認識している」ということは、「常に認識を修正し続けている」ことだと私は理解しています。つまりは、「常に認識を修正する必要がある」ということです。
 常にバランスを取っているから真っ直ぐ立っていられる。ということですね。

投稿 みみっく | 2007/07/25 17:59

みみっくさま

> 麻薬と夜更かしはお肌の敵なんですよ(笑)。

夜更かし!しまった、忘れてた。。。もう遅い(笑)。

> 認識していない人は強気に出ているわけじゃないと思いますよ。本当に認識していないだけなのです。

それは、実感したことがあります。
自分のことをバカだと思う人は、ふつういないと思います。かりに、これをほんとにほんとにその通りバカなんだと「認識」できたら、ものすごくビックリします。

バカだと認識してないだけだった、と認識したとき、驚愕しました。
まさか、バカだということが認識できないなんて!
というおどろきと
まさか自分がほんとにバカだったなんて!
というおどろきです。仏教って、やね(笑)。

しかし、逆に、また、自分なのに、自分がバカとわかる、というのも不思議といえば不思議。

> 現実認識が変わるというのはやっぱり大変なことです。

まったく。

投稿 管理人エム | 2007/07/24 17:43

春間さま

> 他(“他”の執着)をみるとき、

> その実は、執着にとらわれる我が現れているわけです

往々にしてそうですね。だから、そうならないように、訓練するか、また、執着のある“他”に近づかないようにする、というのが考えられます。

> ディーパとしての我は、自らを見つめる 己 自身なのです

そう知っているけど、だけど、それを意識しないでいると、しだいに、法をディーパにできるのじゃないかと思っています。

投稿 管理人エム | 2007/07/24 17:21

>ところで、麻薬犬が早死にするのは、麻薬のにおいに犯されるためだろうか

 においじゃなくて、成分に犯されるんです。忘れているようですが、麻薬と夜更かしはお肌の敵なんですよ(笑)。

>> 意味がわかって怒り出すということは、相手に意味がわかったということなんで(笑)。
>
>喜んでいいのか、悲しんでいいのか(笑)。
>人生って、複雑ですね。
 相手にわかるように話すと相手が怒り出す(ことがある)ということを言っているんですけどね(笑)。
 相手が怒り出す理由を推測すると、「お前には関係ないだろう」というものではないでしょうか。たとえ正しいことであっても、関係ない人には言われたくないという事情もあります。
 そういう意味では私はシンプルに考えています。自分と縁のある(と感じている)相手には言うし、関係ない(と感じている)相手には言いません。後で何故教えてくれなかったと言われることもありますが(笑)。

>> 自分が認識できるものを他人が認識していないというのはね。
>
>これはつらいもんがありますね。
>認識してない方が、強気に出ると、認識してる方が、認識してないことになっちゃったりして。
 認識していない人は強気に出ているわけじゃないと思いますよ。本当に認識していないだけなのです。

>「ほんとは、ほんとは、ちがうんだぁ」と言っても、誰も聞いてくれない。。。さびし。
 多数派の勝利ですね(笑)。でも、現実認識が変わるというのはやっぱり大変なことです。現実認識を変えるように圧力を掛けられた人は怒り出す可能性が高いのではないでしょうか。
 
 攻撃されたと感じると人は怒り出すのです。何の理由もなしに怒り出す人などいません。
 それでも、言うべきことがあるのであれば、覚悟を決めて言うべきでしょう。
 なにしろ認識していなくても影響はしますから。つまり、車が近づくのに気付いていない人にもぶつかるので。

 まあ、預言者は石を投げられることになっていますから(笑)。石をぶつけてくる相手を許すのが基本です(笑)。それができないならば、言うべきではないと私は思っているんですけどね。

投稿 みみっく | 2007/07/24 06:34

己こそ己の寄る辺
自らをディーパとして

ここに、我がいるように聞こえますが
その我は、「我が物がある」と執着するところの我でしょうか

(むしろ、その我はアートマンであり、プルシャであると観る方が、より、間違いの少ない捉え方です)

そこには、(必ず)縁起による“他”があるわけです
他をみることにより、我が、湧出してくるのです
(地湧の菩薩です)

通常のこととしては、
他(“他”の執着)をみるとき、
理としては、執着を離れる(ヴィジュニャー)、我が現れているわけですが
その実は、執着にとらわれる我が現れているわけです
執着のない“他”を見つめるときに、
囚われのない我が現れているのです

ディーパとしての我は、自らを見つめる 己 自身なのです
そこの、我が、よりどころであって、
それが、(依るところのない)自己(我)なのです

同じ、我という語で表されるので、混乱すると思います

「 我をみるものは、法をみる 」
この我は、自らを客観視する 釈尊 であり、
法をみるものが、その縁起として、湧出してくる我をみるのです
その我が、見つめられる 釈尊(=自分) なのです

それを、自分自身の拠り所とするということです


投稿 春間 則廣 | 2007/07/23 22:50

春間さま

するどい!
ここは、阿含で言えば、『サンユッタ・ニカーヤ』二二・八一にある一文ではないかと思います。
『中論』にもあると思います。一八・二です。一八・三ともあわせて読むと、見えてくるかなと思うのです。

> 「 もし我があるなら、我がものがある。
>   (よるところの)我がないから、我が物がない 」

このようにもとれますが、

自己がないとするならば、どうして、自己にかんするものがあるだろうか。自己と自己にかんするものとが止息するから、わがものもなく、自我意識もない。
//18-2//

わがものもなく、自我意識もないとする人は、しかし、またいない。わがものもなく、自我意識もないと見る人は、見ないのである。//18-3//

の訳から、「自己が元々ないなら、どうして自己にかんするものがあるだろうか」として、最初から「自己(我)がない」ということも、また、ないのである、とすることができるかな、と思っています。
最初から、「我」がなかったら、「我」という言葉で表されることもないわけなので。

仏典の諸問題がある!に、はげしく同意します。

投稿 管理人エム | 2007/07/23 18:51

みみっくさま

この手の話なら、いくらでも書けちゃう管理人です、エヘン。。。というか、馬鹿話がとくいです(笑)。

> 自分が認識できるものを他人が認識していないというのはね。

これはつらいもんがありますね。
認識してない方が、強気に出ると、認識してる方が、認識してないことになっちゃったりして。
「ほんとは、ほんとは、ちがうんだぁ」と言っても、誰も聞いてくれない。。。さびし。

> 意味がわかって怒り出すということは、相手に意味がわかったということなんで(笑)。

喜んでいいのか、悲しんでいいのか(笑)。
人生って、複雑ですね。

ところで、麻薬犬が早死にするのは、麻薬のにおいに犯されるためだろうか?

投稿 管理人エム | 2007/07/23 18:35

>『 我によるから、我がものがある。
 もし我がないなら我がものもない 』

これちょっとオカシイ
(ここだけ読むせいかも知れないが、、、)

「 もし我があるなら、我がものがある。
  (よるところの)我がないから、我が物がない 」

こうしたい

これ(ら)の所に、佛典の諸問題が在ると感じています

投稿 春間 則廣 | 2007/07/23 13:33

 鼻が龍樹で日記を一日分書くとは、管理人おそるべし。

 麻薬犬は普通の犬に比べて寿命が短いそうです(笑)。

 犬並みの鼻を持っていたら世界が変わって見えるでしょうが、どうなんでしょうね。

 人と異なる世界を認識しているというのはいいことばかりではないように思います。

 自分が認識できるものを他人が認識していないというのはね。

 他人が認識できるものを自分が認識していないというのも困りますが。
 
 人が嫌がるのは自覚しているけどどうにもならないと感じていることを指摘されることだと思いますが、自覚していないことを指摘されたときは、意味がわからず無視する場合と、意味がわかって怒り出す場合とあるんじゃないでしょうか。

 意味がわかって怒り出すということは、相手に意味がわかったということなんで(笑)。
 怒る相手が悪いのか、わざわざ指摘する方が悪いのか。

 言い方の問題ではないと私は思っているのですけどね。

投稿 みみっく | 2007/07/23 12:47

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