いろいろいろいろ
ディスプレイを変えました。
画面がでっかくなって、光輝いてます。
今まで800×600というサイズで、
ブラウン管のディスプレイだったので
インターネットの画面が
すぐはみ出してしまっていました。
ワープロ機能さえ使えればいいや、
という方針でしたが
いくらなんでもひどいかなと
変えてみました。
こんどは、
インターネット画面が大きすぎて
わたしの目から、はみ出しちゃうな(笑)。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@
哲学が好きという学生さんと
おしゃべりしながら
駅まで一緒に帰る。
あまりつき合いがよくないので、
家族や友達に
「周りにあわせろ」とか
「頭がかたい」とか
言われます。
でも、ちがう。
ボクの方が、頭は柔らかいんです。
と、その学生さんは言いました。
そうなんだよね。
哲学している人は、
ほんとは頭がやわらかい。
言ってること、よくわかるよ。
ほんとうは、いろんな人の考えに
ついていける。
がんばれ!負けるな!デンケンしてください!
友達づきあいを強制されるのが
イヤなんです。
みんなの中に入って
自分も同じ考えにさせられるのが
それが、怖い
とも、言いました。
ぼく「は」、哲学がいちばん楽しいです
といって、かれは去っていきました。
(ああ、「は」を強調しなくていいからさ、(笑))
よおし。哲学の授業に意味を見出した
せんせ だったあ!
@@@@@@@@@@@@@@@@
龍樹本で、ちょっと書き足そうとして
ピタッと止まっています。
やっぱり、「涅槃」のところです。
九割、わかってると思う。。。。って、思う。
でも、どこかで、何かが、ひっかかる。
なんだろ、なんだろ????
大乗仏教は、突然生まれたものではない。
仏教において、
偶然とか
突然とか
いきなりとか
なんとなくとか
そういうことはありえない。
みずからの説く「因果」
これにもとづいて起こってくる。
大乗は、生まれるべき時機をのがさず
他に縁って
起こってきたのである。
ブッダに帰依した人々の力
と
ブッダの法
と
ブッダ(如来)
により
これだけの膨大な経典が
生まれてきたのである。
『中論』も同じように考えていいだろうか?
龍樹の力
と
ブッダの法
と
ブッダ(如来)(?)
によって
生まれただろうか?
さいごの「ブッダ(如来)」というのが
他の大乗の経典類とは
微妙にちがうような
いや
同じような。。。
そういう意味では
密教の経典に
近いだろうか?
どうなの?どうなの?
うううん、悩む。。。
みんながだ~いすきなお釈迦さま
久遠実成の釈迦牟尼仏
犀のごとく一人歩む沙門ゴータマ
読み方にもよるのかしら。
『中論』で説かれるブッダは、
三つの要素が入っている。。みたいだ。
もう少し悩んでみますか。。。
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コメント
莓矢毒蛙さま
> なんかキリスト教やイスラム教みたい。(^^;
> 過度に体系化を志すとTEXT信仰に近くなるのかしら?
あれ?キリスト教に見えちゃいましたか?
書き方悪かったかしら。
そうか。。。そう思ってみると、そんなふうに見えてくるような。。。まずっ
どっちかというと、体系化をめざすというより、ブッダの法解釈の自由度がました、という印象なのです。
見かけはどうあれ、「空」だし、「無我」だし、って思ってるので。
投稿 管理人エム | 2007/07/15 08:58
えび天サンバさま
ううむ、そうですねぇ。人々の心を左右するのは、経済的な側面ですものね。北インドのクシャン朝、南インドのサータヴァーハナ朝、当時の社会状況には、私もとても興味があります。
杉本卓州先生の『ブッダと仏塔の物語』が最近出ましたが、それを眺めて(写真も比較的多い)、想像力を働かせています。
カニシカ王は、仏教以外にも多くの宗教を容認して周辺地域との交流も盛んだったようですし、興味は尽きないです。
投稿 管理人エム | 2007/07/15 08:48
ヒデさま
はじめまして。
なんとなく似たもの同士が集まるのでしょうか。
「本読み」も、どうしても人づきあいが悪くなりがちかもしれませんね。わたしも、「哲学」と「本読み」で、ほんと、授業をぬいたら、レジのお姉さんくらい(笑)。
ときどき、書き込んでいただけるとうれしいです(^_^)v。
投稿 管理人エム | 2007/07/15 08:38
>大乗は、生まれるべき時機をのがさず
>他に縁って
>起こってきたのである。
>
>ブッダに帰依した人々の力
>と
>ブッダの法
>と
>ブッダ(如来)
>により
>これだけの膨大な経典が
>生まれてきたのである。
なんかキリスト教やイスラム教みたい。(^^;
過度に体系化を志すとTEXT信仰に近くなるのかしら?
投稿 苺矢毒蛙 | 2007/07/15 08:17
エム先生
これは私の勝手な推測ですが、龍樹の時代的必然性
ということを考えた時、大乗はインドにおける貨幣経済
や所有権などの進展と、何らかの関わりがあるのでは
ないかと思います。
投稿 えび天サンバ | 2007/07/14 13:10
はじめまして。いつも個々のスペースに参加させていただいていますヒデといいます。哲学と人付き合いににてるかもしれませんが、本読みって者は人付き合い悪い者だなあと自分のことを思っていました。それとも人付き合いが悪いから自称本読みになったのかもしれません。かしこ
投稿 英司 | 2007/07/14 12:49
春間さま
そんなに「 好き 」という言葉にこだわらないでくださいな。
みんながひとえに帰依する、そんなお釈迦さま、という感じです。
小さい子どもが「おかあさん、だ~いすき」という、そんな「だ~いすき」です。
『中論』の中に、そんな感じがどこかただよっているんです、わたしには、そう見えるということで。
> 禅定とは、何かをつかむために行ずるものではなく
> からりと晴れた心から、汚れを洗い、
> 湿気を、空に発散させるための
> 洗濯のようなものだと思います
> 白衣は、なんにでも染まりますが、
> 真理を求める衣へとも、“染まる”のです
だんだんわかってきましたよ。わたしにも、少しずつ“染みて”きたかも。
投稿 管理人エム | 2007/07/14 11:19
>久遠実成の釈迦牟尼仏
>犀のごとく一人歩む沙門ゴータマ
とは、重なり合いますが
>みんながだ~いすきなお釈迦さま
とは、重ねられるものでしょうか ?
好き x 嫌い、
好ましい x 遠離する
同じ事を言い換えたようですが、そこには、何か、
大事な違いがあるのではないでしょうか
大事 x 小事
容易 x 難事
これらは、ある意図を持って並べられるときに
縁起に適うのだから、
「 好き 」 という言葉は、
さまざまな心の状態を表象します
使っている人自体が、それを、意図する(感じて使う)
ところと、聞く人が、受け取っている人生とは、
その一点を持って、交わるという解釈も成り立ちます
ー 活字だけをもってしても、空しく届くかもしれません
禅定とは、何かをつかむために行ずるものではなく
からりと晴れた心から、汚れを洗い、
湿気を、空に発散させるための
洗濯のようなものだと思います
白衣は、なんにでも染まりますが、
真理を求める衣へとも、“染まる”のです
- やはり、それは、人には、色として映るのは
避けられないでしょう)
投稿 春間 則廣 | 2007/07/14 08:58