龍樹のきもち
毎週、同じことを書いてますが、
今週も無事に過ぎました。ヤレヤレ。
仕事の帰り、大通りのヨサコイ会場を尻目に
あれこれ用事をすませて帰ってきたら
疲労困憊して
そのまま夕方7時半まで数時間寝てしまう。
ヨサコイ、
わたしが踊ってるわけじゃないんだけど
脇を通っただけでも疲れるって、
いったい、なんでしょ。。うつるのかな、疲労は。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
とはいうものの
今日は、睡眠じゅうぶんで
すっきりと、龍樹本を眺めています。
龍樹本を書いているときは
やっぱりふつうじゃない。
龍樹度 が、フルの段階だったなぁと思う。
最高を、5とすると
今は、だいたい1か2の段階。
このくらい、低い段階で、見直すと
この本
やっぱり、
変。。。。お、おい
じゃなくて
非凡だ。。。同じ意味だけど(笑)。
龍樹度5のときは、
みんなにブッダ・龍樹の論理を
わかってもらおう、もらおうと
しながら
一方で
無意識に
わからない人には
ぜったいわからないようにしよう
とも、思っている
ということが
今、読むと、よくわかる。
つまり、
ブッダと龍樹の教えを
めちゃくちゃ誤解してかかるような人から
守ろう、守ろうと
すごく必死になっているのが
伝わってくる。
むしろ、そっちが強い。
めちゃくちゃにされるくらいなら
誰にもわからない方がいい!
と
思っている。。ようだ。
(他人事ふうす、龍樹度1だからね)
だから、肝心なことが
ぬけてる!
この本の目玉が
ウソみたいに
きれいさっぱり
隠されている。
よく読む人には
わかるかもしれないけど
わたしの主張が
書き忘れられている!!
気がつかなかった。。。(笑)
座標軸が一本
ぬけてました
って、感じです。
こういうことから分析しますと
書いてるときは
無我っ!
なんですかね。
で、
一本、座標を書き足しました。
数行だけど
かなり、何してる本か
わかりやすくなったかもしれない。
今となって、思うことは
一気に完成品出してしまえるなら
めちゃくちゃにされることもないだろう
ということ。
それより
わかってくれる人の方を
優先しなくちゃ
と思うわね。。。大丈夫よね。
あとは、読者のみなさまにおまかせだわ。
@@@@@@@@@@@@@@@
と、以上のようなことに
気がついて
もう一度、龍樹のことを考えて
ハタと思い至りました。
●なぜ『方便心論』が、これほどわかりにくいのか
●なぜ『中論』が、偈頌で素っ気ないのか
●なぜ『廻諍論』が、突如始まり身も蓋もない議論の末
突如終わるのか
そうか!そうだったのか!
そうだったのか~ぁ~!
「仏法を守るために
荊棘(けいきょく)の林を築く」という意味が
あまりよくピンとこなかったけど
今なら、よくわかるわ。
『方便心論』には
ブッダのブの字もでてこない。
『アングッタラ・ニカーヤ』によりながら
ぜったいそれがばれないように
してるのよ。
ブッダ論理に気づいた人だけが
荊棘の林をぬけることができる。
守られた正法は、
それを受け取るにふさわしい人にしか
知られないようにできている。
ブッダ論理を認めない人は
まわりのとげにやられて
混乱して
ただの藪だと、帰っていくのね。
要するに、ブッダ論理の流れに
逆らって進もうとするから、混乱するの。
それも、ねらいの一つだったのか!
つまり
わからない人にはわからないように。。と。
だから、
三つの本に分けて
ブッダ論理学を論じ
どの本も論が重ならないようにしながら
他との連絡路となるヒントを
随所においた。
わかってくれる人を
かくじつに導くためよ。
三つの本に分けたのは
テーマを区切る意味と
ブッダ論理学を守る意味と
二つあるわね。
龍樹が、
何を考えて
どういうことしてたか
龍樹度5にいたると
よく見えるわね。
どうやって
仏法を護りながら
(=知られないようにしながら)
しかも
仏法を広めるか
(=知ってもらうか)。。。。
不可能な道を
ほとんど不可能と知って
やってたのか。。。はぁ
だまされたわね。。。龍樹に。
ほんと、思うけど
来世は、
ぜったい
龍樹研究するのだけは
やめよう
って、思うわ。
どうか覚えてられますように。
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コメント
ならば、じっくり腰を据えて研究して下さいませ。これ以上申し上げることはございません。
投稿 せうま | 2007/06/13 21:31
せうまどの
> 「龍樹造」とある作品は、まずは龍樹の作品として見る
まずは、先入観をもたずに、虚心に研究するということが肝要だということを述べています。乏しい根拠で、あれこれ言うのではなく、もっとじっくり腰をすえてかかることです。
龍樹について、なにかしっかりした責任のもていることを言おうと思うなら、とにかく文献を精査することだと思います。
研究せずにあれこれいう人はたくさんいます。
研究したことを責任もっていう人が求められていると思ってやっているのです。
投稿 管理人エム | 2007/06/13 21:13
RatnAvalIには、大乗を非難する人がいるがとんでもないことだ云々とありますね。
それともエム様は、「龍樹造」とある作品は、まずは龍樹の作品として見ることが必要だとのこれまでの方法論をお捨てになったのでしょうか?
投稿 せうま | 2007/06/13 14:44
龍樹の著作とされている作品には、大乗を称揚・推奨しているものがいくつもありますが、それはどうお考えでしょうか。
投稿 せうま | 2007/06/13 10:29
せうまどの
どうも引っかかってなりません。
「大乗仏教徒龍樹」というのは、誰がおっしゃっているのでしょうか。こう断定するのは、何を根拠にされていますか?
龍樹を「大乗」とするのは、後代の解釈であると思います。
空の研究をしている方と前にお話したときも、龍樹を簡単に「大乗」と言ってしまうことに、疑問を投げておられました。(根拠をあげておられましたが、わたしがまちがったらこまるので、ここではあげませんが。)
龍樹の時代には、まだ、大乗と部派は我々が考えるようには、対立していないと思います。(印順氏の論文など)。玄奘なども参考になると思います。
最近ですと、『十二門論』も龍樹作ではないという意見もあります。まともに龍樹が書いたものとしては『中論』くらいしか認められないことになっています。そうなると、龍樹は、大乗からむしろ遠ざかる傾向にあると必然的に帰着せねばならないでしょう。
『中論』の「空」が、般若経典の「空」の影響を受けたという証拠はありません。(そう示唆する学者もいますが、あいまいです。)むしろ、『中論』からは大乗のにおいはしてこないと思います。
わたしには、般若経典の「空」は、『中論』の「空」とは説き方が異なっているように見えます。(若干根拠もあります。)
『方便心論』『無畏論』(二書には般若経典の引用あり)や『大智度論』の作者も龍樹であることを疑う人がいるのですから、このような状況で、大乗仏教徒と断定的におっしゃるのは、むしろかなりまずいのではと危惧いたします。
『十住毘婆沙論』についても、瓜生津先生の解題など拝見してみても、作者問題ほか、その他いろいろあるように思います。あげきれません。
率直に申しあげて、今生きている人で、龍樹について責任もってはっきりなにか言える人を、わたしは見つけることができませんでした。それは、大乗であるなしという点にかかわらずです。
投稿 管理人エム | 2007/06/13 07:29
せうまどの
鋭い!ご明察ですね。大乗仏教徒、龍樹のすがたは、わたしの本からは、あまりはっきりとは浮かび上がってこないと思います。
わたしの考察した範囲は、龍樹の前半生が中心になっています。この段階では、龍樹に大乗仏教徒という強い自覚があったようには見えないのです。
その点は、本の中である程度論じています。
後半生は、まだ未検討でよくわかりません。『十住毘婆沙論』などもよく読んでいないので、今後の課題だと思います。
投稿 管理人エム | 2007/06/11 00:20
龍樹についての御著、目次を拝見しましたが、龍樹が大乗仏教徒であるという観点がそこからは見えませんでした。ブッダとのつながりを重視されるのは結構ですが、大乗仏教の押さえが少し足りないのではないかと危惧いたします。いかがお考えでしょうか。
投稿 せうま | 2007/06/10 22:12