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2007/06/25

わたしは、複雑系?

シンプルに生きるというのは
意外とむずかしいものだと思う。

感覚器官の勉強しているんだけど

5つの感覚器官と、もう一つ心
全部で6つの感覚(六入)とすると

このあたりで
もう学生さんたちは
混乱しはじめる。

「心は脳の作用だ」という子がいる。
心は、正体不明のもののように
思う子もいる。
第六感ですよね、って言うときは
霊感みたいなものを考えてるのね。

感覚器官が何をとらえ
心(?)が何をとらえるか

完全にわからなくなってくる。

混乱するなら
心がないことにして
五感だけで何をとらえるか
考えてみようとすると

こんどは

心がとても大事だという。
心がなかったら
生きていけないという。

五感だけでは
ロボットみたいだ
とも言う。

感覚器官は一つだけでは働かない
という子もいる。
感覚器官と心とセットで働く
という子もいる。
感覚器官はいつでも働いている
という子もいる。

感覚器官と心 というのは
とてもむずかしい。

この混乱ぶりを見ていると
ゴータマ・ブッダが
いかにすぐれているか
あらためて思わざるをえない。

五蘊(身体と心)
十二処(6つの感覚とその対象)
十八界(6つの感覚とその対象とその認識)

きれいに分類して
そのとおりに認識し
それを制御した。

とてもきれいに
やってのけたので
ブッダの人生は

ほんと
シンプルになった。

ほんとに頭がいいんだなと思う。

頭がいい人は、考えることがシンプルなのだ。

ということは

頭が悪い人は、考えることが複雑なのだ

ということになりますね。
うううむ、一見すると
逆みたいに見えるけど

これが正しいんだろうね。

複雑に考えすぎて混乱するから
愚か者になる

とも言えるかな。

だから
経典の中で
ブッダが
「このように考えた」
とか
「このような思いがあった」
というところを読むと

すごく
ホッとする。

ああ、なんてシンプルな思いなんだろう
ってね。

って、ことは わたしも複雑系。。。。
学生さんに文句言えないや

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コメント

>であるなら、なおのこといりません。誰も反対していないと思いますけども。
 もしそうならば、エムさんの現代論理学批判は受け入れられているはずでしょう。

>西洋論理学が不十分で使えない論理学なのは、西洋論理学者自身も認めるところです。
>これは、事実です。「説明する」という発想がわかりません。見ればわかります。

「説明するという発想がわからない」のですか。

 まあ、私は「ブッダ論理学の批判者ではない」ので、別に構いませんが・・・。


 試行錯誤についての返事がありませんでしたが、ブッダについて少し補足します。

 仏教的には、ブッダの修行は「試行錯誤ではない」と解釈されているはずです。まあ異論もあるでしょうが。
 
 以上です。

投稿 みみっく | 2007/07/03 01:27

みみっくさま

話が錯綜しているうえに、不毛な感じですね。

西洋論理学が不十分で使えない論理学なのは、西洋論理学者自身も認めるところです。
これは、事実です。「説明する」という発想がわかりません。見ればわかります。

>  私のように、「最初から西洋論理学では不十分であると思っている人」には説明がなくても話が通じます。

であるなら、なおのこといりません。誰も反対していないと思いますけども。

西洋論理学は、試行を錯誤しつづけて今日にいたっています。
結論をどこに求めているのか、学問の目的というのが、はっきりしないためもあるかもしれません。

『ブッダ論理学五つの難問』は、西洋論理学に試行錯誤の方法を提示する新しい試みなのです。

投稿 管理人エム | 2007/07/02 19:47

>「無駄なものを無駄と教えること」は、「問題の解決方法を発見する方法(の一種)」なのです。
 間違っていると思いますけどね。

>何が無駄で何が無駄でないかわからない人に、無駄を無駄と教えるならば、その人は問題解決の方法を見つけるでしょう。
 この日本語もおかしいですよ。

 無駄を無駄と教えるということは、結論を教えることです。

「問題解決の方法を自分で見つけさせる」ということは、答えを教えることではありません。

>> 試行錯誤とは、「無駄なものか大切なものかを知る方法」なのです
>
>それは、具体的にどんな方法ですか。具体的には「無駄なものを無駄と知る」という方法でしか、「無駄なものか大切なものか知る」ことはできないのではないでしょうか。

 具体的には、「無駄なものを無駄であると仮定して試す」ということです。
 
>「試行錯誤」ということばを使うとき、みみっくさまの頭には「試行錯誤によって得られた結論」が浮かんでいるとしか考えられません。
 試行錯誤を行う時に、その人の頭に浮かんでいるのは、「試行錯誤によって得られるであろう結論」です。

>もし、この「結論」が想定されないとするならば、「試行錯誤」という「方法」それ自体も、あるとはいえないからです。
 もちろん結論は想定されています。確認されていないだけでね。

 自分の仮定した結論を実際に行うことで確認することを「試行錯誤」と言うのです。

 候補を絞るときに行われると言えばわかるのでしょうか。

「無駄かもしれないという考え」は頭に浮かんでいるに決まっているでしょう。
あるいは、「大切なものかもしれないという考え」も頭に浮かんでいます。

 それを実地で試すのが試行錯誤なんですから。

コピーです。
> ポイントは「試行錯誤の評価」です。
> 
> 仮説を立てては崩すという訓練を経てこそ、シンプルで高度な抽象概念を受け入れることができるのではありませんか?

>では、もう一度。出発点が、西洋論理学が嘘つきの論理学だというところからだということですか。

「西洋論理学は私に嘘つきであれと言った」という「理由」が出発点だろうと言っています。

 エムさんはこの「理由」を書かないから全体の論旨が不明瞭なんですよ。

コピーです。
>>わたしにとっては、西洋論理学は正真正銘無駄なのです。
> 理由を言わないと意味がわかりませんよ。
>
> まあ、理由を言っても賛成しない人が多いだろうけど、少なくとも議論にはなるはずです。

 繰り返しますが、「西洋論理学では不十分である理由」を書かなければ意味がわかりません。

 私のように、「最初から西洋論理学では不十分であると思っている人」には説明がなくても話が通じます。

 ブッダ論理学に好意的な人は西洋論理学に不満を持っている人なのです。例えばmuさんがそうです。
 
 エムさんは何故「西洋論理学は私に嘘つきであれと言った」と感じたのですか?
 そもそもこれに共感できない人と話ができないのは当たり前でしょうが。

 説明が存在しないと私は認識しています。

コピーです。
>「論理は推論の構造である(西洋論理学では)」ということが実感できたから、エムさんは「西洋論理学は私に嘘つきであれと言った」と言っているんじゃないですか?
>
> 全く同じことで「感動した」人と話が通じないのは当たり前だと思いますけどね。

 この質問が重要です。
 まだ回答は頂いていないように思います。
 どうぞよろしく。

投稿 みみっく | 2007/07/01 15:57

春間さま

> どっかの一面が、人生ではなくて、
> 生きて死ぬまでがひとつの人生で、
> 評価は、(ここまでの)全体に対してだけ、されなければならない

> (心して生きていきましょう - お互いにです ! )

そうしましょう!お互いに。

投稿 管理人エム | 2007/07/01 09:28

みみっくさま

> エムさんは前に道場で書いています。「西洋論理学は私に嘘つきであれと言った」とね。
> 
> ブッダ論理学の出発点はこれだと私は理解しています。

では、もう一度。出発点が、西洋論理学が嘘つきの論理学だというところからだということですか。
ううむ、この点はちがいますが、西洋論理学ではないものを求めたのはたしかですね。

> 試行錯誤とは、「問題の解決方法を発見する方法(の一種)」なのです。

> エムさんの説明は、「試行錯誤で得た結論」についての記述になっています

いいえ、そうではありません。定義通りに読んで、理解してもらえばよいのです。
「試行錯誤で得た結論」と、みみっくさまが読むとすれば、みみっくさまが、わたしを誤解しているのです。
だから、誤解しているようですね、と言ったのです。

> 「無駄なものを無駄と教えること」は、「試行錯誤で得た結論」を教えることです

「無駄なものを無駄と教えること」は、「問題の解決方法を発見する方法(の一種)」なのです。

「試行錯誤」の定義を入れたこの文は成り立つのですから、わたしの言っていることは定義のとおりです。

何が無駄で何が無駄でないかわからない人に、無駄を無駄と教えるならば、その人は問題解決の方法を見つけるでしょう。
ブッダ自身については、「試行錯誤」という言い方は、どうもあたらないと前から言っています。

みみっくさまは、「試行錯誤」という「方法」のことを考えようとして、「試行錯誤」の「結果」のことを考えてしまい、逆に、「試行錯誤」の「結果」のことを考えようとして、その「方法」を考えてしまっているのでしょう。

> 試行錯誤とは、「無駄なものか大切なものかを知る方法」なのです

それは、具体的にどんな方法ですか。具体的には「無駄なものを無駄と知る」という方法でしか、「無駄なものか大切なものか知る」ことはできないのではないでしょうか。
これを考慮しないで、「無駄なものか大切なものかを知る」とするならば、「試行錯誤」ということばを使うとき、みみっくさまの頭には「試行錯誤によって得られた結論」が浮かんでいるとしか考えられません。
もし、この「結論」が想定されないとするならば、「試行錯誤」という「方法」それ自体も、あるとはいえないからです。

投稿 管理人エム | 2007/07/01 09:25

>> ブッダ論理学は具体的な内容に依存しており、点が椅子で、線が机ではいけないのでしょう。
>
>ブッダ論理学の出発点は、そこではありません。

 私の言っているのも違います。

> エムさんは前に道場で書いています。「西洋論理学は私に嘘つきであれと言った」とね。
> 
> ブッダ論理学の出発点はこれだと私は理解しています。
 ここで文章は一度切れています。

 後の解釈も全部間違っているように思いますので、もう一度返事し直して頂きたいですね。

>「無駄なものを無駄と教える」ことは、「試行錯誤」ということを教えることであり、次への段階を示すことになります。
 無駄なものを無駄と教えることは「試行錯誤ということ」を教えたことにはなりませんよ。

Yahoo!辞書より引用 
> 1. しこう‐さくご【試行錯誤】
> 種々の方法を繰り返し試みて失敗を重ねながら解決方法を追求すること。「―を重ねる」

 試行錯誤とは、「問題の解決方法を発見する方法(の一種)」なのです。

 エムさんの説明は、「試行錯誤で得た結論」についての記述になっています。

「試行錯誤で得た結論」と「試行錯誤」が違うのは当たり前です。

「無駄なものを無駄と教えること」は、「試行錯誤で得た結論」を教えることです。

 試行錯誤とは、「無駄なものか大切なものかを知る方法」なのです。

 エムさんの解釈では、「単語の意味が辞書と違って」います。

 私は、「試行錯誤という単語」を、辞書通りの意味で使っているので、私の文章を解釈するときは、辞書の説明を採用して下さいませ。

 それから、辞書と違った意味で言葉を使うのであれば、「定義」してから使って下さいませ。

投稿 みみっく | 2007/07/01 01:52

あなたの言いたいことはとてもよくわかりますよ
まったく
>微妙な言い方ですね

無駄だったと知る、今の自分は、
“無駄な時を生きてはいないという信念”の元にいる

そんな貴方の、現在は、今までの積み重ねの上にあります
積み重ねたものは決して消えません
そして、それは、その価値を知るときに
まさしく“有価値”となるのです
たとえそれが、あなた自身でなくても、、、、
ましてや、自身で気づき、それに価値を与えたからこそ
無価値(以下)が、有価値へと瞬時に変わるのです
(真理以外のものはこの世に存在していないのです)

もう一度“縁起”に戻ってください
無には有があり、他者には、自身が在るのです
( 捉えられた自身はすでに他者であることは、
今は置いておきましょう )

自ら気付くことに価値をおいてもよいと思います

ちょっと面倒なことになってきました、、、、

とにかく、気づいた貴方は“よい”
( 成道した“瞿曇”もよい )
その二人の人生は、ひっくるめてとてもよい

どっかの一面が、人生ではなくて、
生きて死ぬまでがひとつの人生で、
評価は、(ここまでの)全体に対してだけ、されなければならない

(心して生きていきましょう - お互いにです ! )

投稿 春間 則廣 | 2007/06/30 22:24

春間さま

> だったら、無駄だとわかったことの、その過程は、あなたの人生でもあるし、
とっても、大事な行程ではないですか

そうなんですけど。。。
たいへんありがたいご意見で、励まされます。
が、なんといいますか、無駄にならない人生にするために大事なのは、無駄に人生過ごしたその無駄を、「無駄だ」と見つめることかと思ったりするわけです。

説明しにくいような。

1)試行錯誤したが、今日の自分があるためには、それも無駄でなかった。

2)無駄なことを無駄と知ったため、それを捨てた。今の自分に無駄はない。

1)も2)も、同じようなことかもしれませんが、2)の言い方をした方が、はっきりすると思ったのです。微妙な言い方ですね。

投稿 管理人エム | 2007/06/30 21:22

みみっくさま

ちょっと、わたしの言うことを誤解しているように思います。ブッダの言うことを誤解しているように、です。

> 試行錯誤の跡が消されていると、意味がわからなくなります。

「試行錯誤」という言葉をそのまま生かすとしましょう。
「無駄なものを無駄と教える」ことは、「試行錯誤」ということを教えることであり、次への段階を示すことになります。
「無駄なものを大切だと教える」ことは、ほんとうの試行「錯誤」になり、たんなる錯誤に終わります。

「苦行は利益がない」というのは、ブッダの教えなのです。「試行錯誤」という教えととるべきなのです。もう、それがわかった(=悟った)人には、ブッダの心境の吐露でしかないかもしれませんけど。
だから、誤解されやすいと思い、「試行錯誤」という言い方はよくないと思っていたのです。
いちおう、「試行錯誤」という言い方を用いているので、今は、それを使いましたが。

> ブッダ論理学は具体的な内容に依存しており、点が椅子で、線が机ではいけないのでしょう。

ブッダ論理学の出発点は、そこではありません。
述語論理と命題論理を行きつ戻りつしているこの方は、わたしの目から見ると、ほんとうに試行を「錯誤」しています。申し訳ないですけど。
「無駄なものを大切だ」と思って、一生懸命がんばっているように見えます。「まことにすみません」な意見になっておりますが、許してたもれ。
行きつ戻りつするのは、ブッダ論理学的にはよくないんです。。。といっても、仕方ないですね。ブッダ論理学の人じゃないですしね。

命題論理学とは何か、述語論理学とは何か、その生まれ出でた出発点をたどってみれば、もっとちがった検討が生まれるだろうと思いますが、そもそも論理学者はそういう考察はしないでしょうし。まぁ、これは、この辺で。

それより、ヒルベルトの「意味ぬきの理論」は、どちらかというと、ブッダ論理学の説くものです。みみっくさまを混乱させるので、あまり、今は詳しく言いませんが、本家としてはこちらです。これが「空」ということにつながるからです。ブッダ論理学は、単一ではないのです。

たぶん、この説明は、全体として、みみっくさまの理解を得られないように思いますが、わたしとしては一貫しているのです。
議論とならないと思います。言葉の用法の問題につながっていくだろうと思います。そして、それが、論理のちがいへといくことになるでしょう。そうなると、昨年の「道場」での議論のように、互いに相いれないだろうという予感はします。

投稿 管理人エム | 2007/06/30 20:58

>真理を見つけた人にとっては、(もはや)いらないということです。
 私のブログにある「要点と説明の関係について」の話になりますね。
「説明しなくてもわかる」ということは、「失われていない」ということが言いたいのですが。

>あ、学生さん、あなたは苦労してください(笑)。 
 試行錯誤の跡が消されていると、意味がわからなくなります。

 エムさんが現代論理学批判で言っていることじゃないですか。
 現代論理学は命題論理学から出発したことを忘れているって。

>ブッダ論理学では、「試行錯誤」とか「まちがう」ということはないと、思ったのです。
>前に進む、ということがあるだけだと思いました。
 
 間違いがなくても元に戻れるようにしておくべきです。でないと、中身が失われて形式だけが残ってしまいますよ。

>わたしは、イヤになるほど西洋論理学を勉強して、ようやくわかりました。「これって、なんの役にも立たない。やるだけ無駄だ」と。わたしにとっては、西洋論理学は正真正銘無駄なのです。

 エムさんは前に道場で書いています。「西洋論理学は私に嘘つきであれと言った」とね。
 
 ブッダ論理学の出発点はこれだと私は理解しています。

http://www.mnet.ne.jp/~tnomura/predicate.html
>論理は命題の具体的な内容に依存しておらず、純粋な推論の構造であるということが実感できて、ソシュールの言う記号の恣意性や、ヒルベルトの「点が椅子で、線が机でも構わない」という言葉の意味の面白さが分かってちょっと感動したりする。
 
 ブッダ論理学は具体的な内容に依存しており、点が椅子で、線が机ではいけないのでしょう。

「論理は推論の構造である(西洋論理学では)」ということが実感できたから、エムさんは「西洋論理学は私に嘘つきであれと言った」と言っているんじゃないですか?

 全く同じことで「感動した」人と話が通じないのは当たり前だと思いますけどね。


>ブッダこそ、「苦行は利益のないものである」と言えるのだと思うんです。「利益がない」いえるのは、ほんっとに!ブッダだけだから、だから価値があると思います。
>この個所は、けっこう衝撃の個所でした。
 
「石の上にも3年」という言葉がありますが、インドでは石の上はひんやりして快適な場所であると聞いた時はけっこう衝撃でしたけどね(笑)。

>教えを聞く人にとっては、無駄どころか、ものすごく重要なことがらであると思います。
 教えを説く人にとっても重要です。

>わたしにとっては、西洋論理学は正真正銘無駄なのです。
 理由を言わないと意味がわかりませんよ。

 まあ、理由を言っても賛成しない人が多いだろうけど、少なくとも議論にはなるはずです。

「哲学では結論は重要ではなく、過程が重要である」にも否定的なんですか?
 
>真理を見つけた人にとっては、(もはや)いらないということです。
 だから説明しないんですか?

投稿 みみっく | 2007/06/30 02:28

>わたしにとっては、西洋論理学は正真正銘無駄なのです

このことは、西洋論理学をやって、初めてわかったことでしょ ?
だったら、無駄だとわかったことの、その過程は、あなたの人生でもあるし、
とっても、大事な行程ではないですか
少し、ずれて考えなければいけないので、分かり難いかもしれませんが、
仏陀も、苦行を通して、その有効性を云々できるわけですし
初めて、人に、無駄だと諭すことができるわけです
そして、その行き過ぎた苦行についても、
どこまでが、修行で、どの辺りから単なる苦行になるかも
教えることができるのです

>何年も費やして

決して無駄ではないと思いますよ
それなくして、今のあなたが在りますか ?
自らを、他を、まず肯定的にみることによって、
大事な、見方が(友が)現れるのです
自分自身を本当に分かってくれる(認めてくれる)人など
そう簡単に現れません
まず、自分を自分の、力強い見方(絶対の肯定者)としなければ、、、
それでなくても、
間違っていると知ることができる、
それを支える(それを構成する)人生の一こまが、
なぜ無駄と言えるのでしょうか
もし、あなたが、一生涯、西洋論理学の限界に“気づこうと”しなければ、
それこそ、無駄な人生となるかもしれませんが、
それにしても、その人生は、“他山の石”となり得るのだから、
(他の人にとって)立派な価値を持つわけです
それを、価値がないと教えることができるその経験が、
無価値のわけがありません
無価値と教えることと、その教える人の人生の価値は、
並んで、肯定と、否定としてあるのです

これも、縁起のひとつの形です

投稿 春間 則廣 | 2007/06/29 21:59

春間さま

> 仏陀が、自らのとった(とっている)生き方を、
> 自ら無駄と位置付ける必然性がありません
> その教えを聞く人にとっての、薬としての“無駄”です

いえ、そうではないと思います。
ブッダこそ、「苦行は利益のないものである」と言えるのだと思うんです。「利益がない」いえるのは、ほんっとに!ブッダだけだから、だから価値があると思います。
この個所は、けっこう衝撃の個所でした。

教えを聞く人にとっては、無駄どころか、ものすごく重要なことがらであると思います。(ちょっとよくわからなくなってきますね。)

わたしは、イヤになるほど西洋論理学を勉強して、ようやくわかりました。「これって、なんの役にも立たない。やるだけ無駄だ」と。わたしにとっては、西洋論理学は正真正銘無駄なのです。
それを知るために、何年も費やして無駄に月日をおくりました。だから、言える。「これは無駄だ」と。実りはなかったです(わたしにはね)。

投稿 管理人エム | 2007/06/29 21:24

みみっくさま

>> 得られた結果が、真理なら、試行錯誤は捨てられます。本人は、それでいいと思うんです。
>  試行錯誤を評価しないといずれ困ることになるんじゃないかと思うのですけどね。
>  自分で考えずに答えだけ覚える態度ということです。
>  学生がそういう態度だったら怒りませんか?

真理を見つけた人にとっては、(もはや)いらないということです。
あ、学生さん、あなたは苦労してください(笑)。

前に、考えていたことと、どこかちがうところがあると思いながら書いていました。思いだしました。
ブッダ論理学では、「試行錯誤」とか「まちがう」ということはないと、思ったのです。
前に進む、ということがあるだけだと思いました。

でも、その考えを出すと混乱するかもしれないので、やめておきます。。といいつつ、書いてます。すみません。

投稿 管理人エム | 2007/06/29 21:06

>「苦行を捨てた」をおさえないと、真理のシンプルさが見えてこない、とも言えるか、どうかな?
 私の言いたかったのはこれに近いことだと思います。

>ブッダの苦行は、ブッダにとっては「むだだった」ですみますが、わたしたちは、そこを見つめて真理の重さを量ることにもなります。
 この「真理の重さ」は、「試行錯誤の広さ」であり、「思索の深さ」じゃないかということなんですけどね。


>「試行錯誤」は、かならずあるんですけど、「試行錯誤の評価」は、本人にとってはないですね。
>得られた結果が、真理なら、試行錯誤は捨てられます。本人は、それでいいと思うんです。
 試行錯誤を評価しないといずれ困ることになるんじゃないかと思うのですけどね。
 自分で考えずに答えだけ覚える態度ということです。
 学生がそういう態度だったら怒りませんか?

>> 最初から高度に抽象的な概念で物事を把握することを教わった人は、物事はそういうものだと思うようになってしまいます。
>西洋流のものの見方にありそうですね。。。言葉の上であれこれ概念操作をするという感じかな。「概念操作」は本人が自覚しているのであれば構わないと私は思いますが、この場合は「固定観念」になってしまっているという感じですね。
 
「物事はそういうものだ」は「これが真理だ」と同じです。
 
>> 法則が全て解明されているならばこの二つの違いを無視することができるでしょうが、そうでないならば致命的な違いが出てきます。
 悟りを啓いた人にとっては固定観念ではないが、悟っていない人にとっては固定観念になってしまうということです。 

 まあ、「一切智者」に当てはめるのは元々無理がある話ですよ。「試行錯誤は存在しない」ということになりそうだし(汗)。

投稿 みみっく | 2007/06/29 13:07

>ブッダの苦行は、ブッダにとっては「むだだった」

仏陀が、自らのとった(とっている)生き方を、
自ら無駄と位置付ける必然性がありません
その教えを聞く人にとっての、薬としての“無駄”です

>わたしたちは、そこを見つめて真理の重さを
量ることにもなります

これが、同じ事の見方の違いですね
結果として、

>得られた結果が、真理なら、試行錯誤は捨てられます

と表現することにつながるのですが、、、
そこがなくて、真理に到達するわけではないのですから

>「試行錯誤の評価」は、その人にとって
真理そのものよりも価値がある

という、言い方が成り立つわけです
(しかし)
( = 真理そのものと同じ価値 = 真理 )でしょ ?

>シンプルで高度な抽象概念

真理はシンプルではあるけれども、
決して高度な抽象概念ではありません
そこに至る筋道、思考過程も“安易”なものです

(そのように価値に執着する心が複雑=顛倒です)

投稿 春間 則廣 | 2007/06/29 10:05

エム先生

>サンバのリズムがいいです。

このところ蒸し暑いせいか、なんだか
その気になってきました。
エビのように跳ねてみますか。。(笑)

投稿 えび天サンバ | 2007/06/29 09:20

みみっくさま

それぞれ、頭の中でちょっとちがったことを考えていたかもしれませんね。

> 最初から高度に抽象的な概念で物事を把握することを教わった人は、物事はそういうものだと思うようになってしまいます。

西洋流のものの見方にありそうですね。。。言葉の上であれこれ概念操作をするという感じかな。
でも、東洋流でも、ありそうか。。。

「試行錯誤」は、かならずあるんですけど、「試行錯誤の評価」は、本人にとってはないですね。
得られた結果が、真理なら、試行錯誤は捨てられます。本人は、それでいいと思うんです。

でも、自分で真理を見つけだすわけでなければ、「試行錯誤の評価」は、その人にとって真理そのものよりも価値があるかもしれないと思います。

ブッダの苦行は、ブッダにとっては「むだだった」ですみますが、わたしたちは、そこを見つめて真理の重さを量ることにもなります。
「苦行を捨てた」をおさえないと、真理のシンプルさが見えてこない、とも言えるか、どうかな?

考えてない方向に向かって考えたので、変かもしれません。

投稿 管理人エム | 2007/06/29 06:33

>複雑に考えすぎて、けっきょく説明できなくなってしまう、ということでしょうか。
 複雑に考えているのではなくて、「複雑に見えている」ということを言っています。
 
「複雑に考えないようにすることはできない」というのが最も言いたいことです。

 シンプルに考えなさいと言われると、都合の悪い事実を無視して考えることになりがちです。

 複雑な現実を把握した上で高度に抽象的な概念を教わった人はその価値を理解することができますが、最初から高度に抽象的な概念で物事を把握することを教わった人は、物事はそういうものだと思うようになってしまいます。

 最初に現実があって、それを理解・説明するために抽象概念があるのだと考える人と、最初に抽象概念があって、それに合わせて現実が構築されていると考える人では、その態度に大きな違いが出てきます。
 法則が全て解明されているならばこの二つの違いを無視することができるでしょうが、そうでないならば致命的な違いが出てきます。
 
 ポイントは「試行錯誤の評価」です。
 
 仮説を立てては崩すという訓練を経てこそ、シンプルで高度な抽象概念を受け入れることができるのではありませんか?

投稿 みみっく | 2007/06/29 01:31

えび天サンバさま

イカではなくてエビでお願い(笑)。サンバのリズムがいいです。

桜はまかせてください!
けっこう客寄せの才能あるんですよ。
昔、フリーマーケットやったとき、ばか売れしましたねん。って、チョー安かっただけだったりして。

投稿 管理人エム | 2007/06/28 19:28

みみっくさま

> シンプルな事象を複雑な規則(の塊)として理解する。(頭が整理されていない人)

なんとなく、わかりますね。
複雑に考えすぎて、けっきょく説明できなくなってしまう、ということでしょうか。
身につまされるなぁ。

投稿 管理人エム | 2007/06/28 19:22

春間さま、エム先生

ほんとよく似た反応ですね。春間さん、いっそ楽隊でも組んでみますか。
といっても私は楽器ができませんので、春間さんの隣でときどき奇声を
発しながらイカのように踊っていましょう(笑)。
名付けて、「悩菩提ブラザーズ」。決まりましたでしょうか。プロデュース
はエム先生ってことで、先生、桜よろしく(笑)。

投稿 えび天サンバ | 2007/06/28 05:58

>頭がいい人は、考えることがシンプルなのだ。
>
>ということは
>
>頭が悪い人は、考えることが複雑なのだ
>
>ということになりますね。
>うううむ、一見すると
>逆みたいに見えるけど

 一見すると逆に見えるのは、「考えることが」ではなくて、「見えているものが」だからだと思います。

 物事の本質を掴むと、物事がシンプルに見える。
 物事がシンプルに見える見方こそ本質である。

 ということなんですけどね。

 複雑な事象をシンプルな法則(と例外)として理解する。(頭が整理されている人)
 シンプルな事象を複雑な規則(の塊)として理解する。(頭が整理されていない人)

 ということです。

投稿 みみっく | 2007/06/27 23:34

えび天サンバさま、春間さま

奇しくも、ほぼ同時に、おなじお答え、ありがとうございます。

そうですよね。手のひらだと思って、もっと遊んでみます。。ちょっと、こわっ。

投稿 管理人エム | 2007/06/27 20:16

エム先生
>あの、それが~、どんどん!お釈迦さんから遠ざかるんですよね。。。
いえ、きっと大丈夫だと思います。
孫悟空のように世界の果てで落書きをしたりするのも
おつな授業ではないでしょうか(笑)。

投稿 えび天サンバ | 2007/06/26 22:30

>あ、それ煩悩だっちゅうの

そこに、お釈迦さまがいらっしゃるのですよ

(忘れちゃいけません)

自らを拠り所として、
法をみるから(法からみるから)
煩悩がはじめて見えるのです
煩悩即菩提とは、そこから始まります

仏性は、そんな風にあります

(という見方もあります)

投稿 春間 則廣 | 2007/06/26 22:28

えび天サンバさま

喜びすぎて、肝心のことを書くのを忘れました(笑)。

> (な~に、われわれにはお釈迦さんがついているか
ら大丈夫)、っていう感じですか。

あの、それが~、どんどん!お釈迦さんから遠ざかるんですよね。。。あ、それ煩悩だっちゅうの、って方向に向かっちゃうのが、悩みの種で。。。

投稿 管理人エム | 2007/06/26 22:14

えび天サンバさま

船頭多くして船山に登っちゃったり。。ははは。

「せんせ、心にダムをつくるんですよ、ダム!」
「何????」
「テレビドラマで言ってました。そうしないと、だぁーっと流れちゃうんですよ。」
どっと、受ける。せんせだけ、わかんない。

「自分の心はわかりますか?」
「わかりますよ、そのくらい」
「ほんとに?彼女と大げんかしたあと、彼女のことが好きか嫌いか、わかんなくならないですか?」
「あ、なりますっ」
(お、おい、なるのか、ほんとに!)

う~むう~む、です、完全に。哲学かな?これ。。。なんですけど、書かせると案外まじめにいろいろ書いてくれるので、けっこう楽しいです。
遊ぶな、せんせ!はい、ごめんなさい。

投稿 管理人エム | 2007/06/26 20:48

材料を提供して、学生達と一緒に探求する、というのはなんだか
楽しそうですね。う~むう~む…って感じですけど(笑)。これを見
出してみよう(な~に、われわれにはお釈迦さんがついているか
ら大丈夫)、っていう感じですか。

投稿 えび天サンバ | 2007/06/26 18:29

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