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2007/05/02

部派と大乗、つなぐは龍樹。。どうかな?

『ブッダの実践心理学』第三巻を読んで
興奮冷めやらず
『ブッダの実践心理学』第二巻もまた読んで
興奮冷めやらず
もとネタの『アビダンマッタサンガハ』を読みながら
考えました。

ずううっと考えてたのは、

南方上座部という部派のアビダンマは
この派に属す人々が、
自分たちの悟りへの道を模索する中で
くみ上げていったものだ

という点です。自分たちのために作ったのですよね。

他のやり方を取る人も、もちろんいたから
たくさんの部派に分かれていったのです。

戒律のちがいによって分かれたと
いわれることも多いですが、
このような教えの解釈のちがい
修道のやり方のちがいも
あったのだろうと思います。

人にはいろいろな個性があるように
修行のやり方にも、向き不向きがあるだろうと思います。

修行僧たちの個性なりにあわせ
いろいろ方法的に分かれていくのはとうぜんです。
そして、
それを説明する理屈についても
区別が出てくるのは、やむを得んことです。

そう考えると、たくさんの部派が生まれるのは
よくわかります。

部派どうしを比べると
大枠はブッダの八正道にしたがっているので
ちがいは細部になりますね。
基本は、確保されています。

しかし、

大乗の菩薩行になると、
それら部派とは異なる大きなちがいをもつ!だろうと
いうことは、とうぜん考えられます。

部派になるか、大乗になるか、その継ぎ目はどこか?ですよね。

部派と大乗には、わたることのできない溝があるように思います。

それは、理論上の大きなちがいです。
部派どうしのちがいではすまない、
決定的なちがいがあります。

そのちがいが何かについては
たぶん
わかったと思います。
龍樹本の中で、ふれています。

それは、
あくまで解釈上のものであり
理論上のものです。

龍樹の『中論』は、部派と大乗の継ぎ目にあります。
ここが、ある意味、ジャンクションなのです。

で、とつぜんですが

話は戻りまして、
『ブッダの実践心理学』第三巻のジャータカのお話しです。
大乗の「捨身飼虎」のジャータカと
パーリの人食い鬼に身をささげるジャータカとを
比べています。(152-156頁)

ここは、大きい!

理論的なちがいを述べているわけではないのですが
修行上の心構えという点で
大乗の精神と、部派の精神のちがいを
はっきりと示していると思います。

大乗の方は、
母虎が腹ぺこで子虎を食べようとしているのを
菩薩が身を差し出して(悲心、布施)、子虎を救う話です。

部派の方は
法が得られず世をはかなんだ菩薩が、
帝釈天が化けた鬼にであいます。
我が身と引き替えに真理を得る
という条件に同意して
菩薩は、崖の上から、鬼の口めがけて身を投げ
鬼は、真理を叫びながら口を開けて待つ
という、お話です。

『実践心理学』では、
部派のジャータカをよしとしています、もち。
鬼は、先に身体をよこせば真理を教えると無理難題をいうのです。
真理を知るために、智慧をしぼったのは菩薩です。
身体を失うのと真理を聞くのをほぼ同時に行える方法を考えたのです。
無知で100年生きるより、瞬間であっても真理を知って死ぬならよし!
という意見です。

これに対して

大乗のジャータカは、虎に食われるだけで
たんなる無駄死にになってしまうかもしれないので
ちょっとわりにあわないというように解釈しています。
この本の解釈が、とても重要なのです。

わたしとしては
ここの説明は、部派と大乗の考え方のちがいを
根本的に示す
とても重要な意見だと思って、感心して読みました。

部派は、不貪(むさぼりのない心)であって、
この言葉に
積極的な「施し」という意味をこめないというのです。
大乗では、「施し」という意味をこめているとみるようです。

部派と大乗の
修行者の「心構え」について
根本的なちがいがわかります。

心構えは、とうぜん、理論に直結します。
いや、すばらしい!
龍樹本にも、つながってくるかしらと
ちょっとあれこれ考えてしまいました。

@@@@@@@@@@@@@@@
二つのジャータカについて
どちらがどうか、ということは、
なかなかむずかしいと思います。

先に述べた
大乗と部派の理論上のちがいに
関わることだからです。

部派のジャータカは、部派の理論に立つとき、まったく正しく、
大乗のジャータカは、大乗の理論に立つとき、こうするしかない道です。

一方は、自利を優先させることによって利他を完成する
他方は、利他に徹することによって自利への道が開かれる

とも言えましょうか。どうでしょう。

これを理論上のちがいとして言うならば、
中道、 世俗諦と勝義諦  などのちがいを
持ち出すことになってきます。

部派は、有無の中道、苦楽の中道
龍樹は、八不中道(不生不滅・不断不常・不一不異・不去不来)

上の二つのジャータカの解釈のちがいは
ここに述べた、中道の解釈のちがいにも通じます。。おそらく

それがどんなちがいなのかは、ここでは言えない。。

ううん、龍樹本、早くでないかなぁ。
もっと話したいけど、がまんしよう。
話が、どうも尻切れトンボになって
すみません。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@
ええ、そういえば、
龍樹本は、4月終わりに何とかいってくださるということでしたが
さらに、また伸びて、連休明けになりました。

優柔不断の管理人なので、
「はい」「はい」とお返事してきましたが、
3回目となると

「読みにくいとは思いますが、がんばってださい」

と書くのも
いい加減飽きてきました。
原稿完成から
もう、まるまる3ヶ月経っちゃいましたね。

連休明けに、さらに伸びるようなら

もう、やめます

って言おう。。。

勇気と言う気を出すぞ!
んで、もって
他の出版社を考えよう!!!

って、ここに書いてしまえば、
ウソはつけないから
そうすると思うのよ。

いくらむずかしくてやっかいでもさ、
そんなにそんなに訳(わけ)わからないこと
書いてるわけじゃないと思うのよね。。。自分では、だけど。

いちおう日本語なんだしさ。

どうして、読むのに
そんなに時間かかるのかしら。

なんか不安になるわ。。。

龍樹だから。。なの?

(龍樹の声 「ぼくじゃないぞ!管理人だい!」)

ええっ!やっぱり、わたしかぁ。。。

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コメント

カラスノエンドウさま

この「意識の流れ」を中心にするのは、わたしの解釈で一般的とは言えないと思いますので、ちょっと割り引いてお考えください。
自分としては、こうかなぁ、と思うのです。

> 掲示板で話題なったグスコーブドリみたいですね。

ほんとうに、そうですね。
そう言われると、宮沢賢治のお話は、大乗仏教の菩薩行を、童話や物語にしたようにみえますね、どれも。

掲示板のスパム対策のサイト、わざわざありがとうございます。これは、この前見つけて、「お気に入り」に入れました。お世話にならないのが、うれしいけど、いざというとき、効力を発揮する心強い味方です。

柿ピーのお話しは、ネタの種になりますね(笑)。
インド人は柿ピーがお好き、なんて、おもしろいですねぇ。お醤油は、インドにはないから、エキゾチックなのかな。

投稿 管理人エム | 2007/05/04 10:04

またまた丁寧なお返事ありがとうございます。
なんとか、わかってきたような気が致します。

>いずれにしても、眼には見えないだろう梵天に絡む話は、「意識の流れ」を主体に考えることになりそうです。その場合、個人の意識の流れだけではなく、世間一般の人々の言葉にならぬ願いが、その世界の空気(雰囲気)を作っているのではないだろうか、ということなのです。

なるほど、それでその後、世間を見て、いろんな人がいる、という話になるわけですね。ジャータカに出てくる菩薩のような人だったら、般涅槃の前に一言でいいから教えを説いてほしいと願うでしょうから。「火」はイメージしやすいんですが、「梵天」といわれると、どうしても名前がうわすべりするだけで、なかなかわかりません(汗)。

>利他のお話しには、なんの見返りもなし。。というのが、利他の利他たるゆえんかなと。

掲示板で話題なったグスコーブドリみたいですね。

これはとっくにご存知かもしれませんが、なにかのお役に立てば。

http://swanbay-web.hp.infoseek.co.jp/index.html

おまけです。

http://autos.goo.ne.jp/news/industry/article_94314.html

投稿 カラスノエンドウ | 2007/05/03 18:32

カラスノエンドウさま

続きです。

> 菩薩は虎に食べられながら、悟るのでしょうか?

もともとのジャータカでは、何も書いていないのではないかと思います。
利他行のその先に何があるのか、確約するものは何もないのだろうと思うのです。ただ、そこにあるのは、利他を信じてそれに徹しようとする自分の信念だけ!それだけがよりどころです。。。っという、ここにこそ、自分を信じきれる自利がある。。なんじゃないでしょうか。

利他のお話しには、なんの見返りもなし。。というのが、利他の利他たるゆえんかなと。

『ブッダの実践心理学』では、観音様が菩薩の修行の成果を確かめるためにこのような現象を作り出したという話がのちにつけ加えられたとあります。
食われて終わりじゃ、あんまりだと思ったのでしょうか。

ソクラテスのお話っていうのも、知りたいですね。現存しているとよかったなぁ。きっとおもしろいお話だったろうと思うと、残念。

投稿 管理人エム | 2007/05/03 14:25

カラスノエンドウさま

いつも、わたしを我にかえらせてくださって、感謝しています。やっぱり、おかしいかなぁ。

> これは私の理解をこえています。わかりませんでした(汗)。

ここはとても説明するのがむずかしいです。でも、ちょっとがんばってみます。変かもしれませんが、お聞きください。

梵天は、ブッダのところに出てきて、法を説くようにお願いしました。ブッダは、それを、梵天の言葉として聞いています。

しかし、ブッダ以外の人が一緒にそこにいて、梵天の言葉を聞くことができるかどうかは、わかりません。ハタから見ると、ブッダは座って瞑想しているだけのように見えるかもしれません。その意味で、「ブッダの心の中の声では?」という、一般人の疑問も浮かびます。ブッダの心の葛藤だ、という説です。ブッダの心の中の意識の流れを問題にしています。

しかし、もう一方、ブッダ自身としては、悟りにいたり何の迷いもありません。為すべきことは為し終えて、もう輪廻することもなく、我執も消えています。何をしようという積極的な気持ちが出てくるはずもないのです。解脱したブッダは、そのまま涅槃の境地に住しています。このようなとき、どうして自分の中で、心の葛藤が起きるでしょうか。意識の流れは止んでいます。
何らかの、外的な刺激や要因がなければ、ブッダはそのまま安らいで平安でいるでしょう。
梵天が、外からブッダにお願いにやってこなければ、ブッダは動きようがないような気がします。
このタイミングを逃すと、ブッダは、まんま般涅槃してこの世からおさらばしてしまうかもしれない。。梵天が焦ってブッダのもとに現れるのもわかるのです。

ですから、ブッダの様子を見ている一般大衆(?)からすると、ブッダの心の中での「意識の流れ」ですが、ブッダ自身としては、自分以外の世間の代表者梵天が現実にやってきたということで、この時点では、世間(の人々)の「意識の流れ」に身をさらしいるという感じでしょうか。
いずれにしても、眼には見えないだろう梵天に絡む話は、「意識の流れ」を主体に考えることになりそうです。その場合、個人の意識の流れだけではなく、世間一般の人々の言葉にならぬ願いが、その世界の空気(雰囲気)を作っているのではないだろうか、ということなのです。
現代でも、この争いの止まぬ世界を救う聖者が誰か現れてくれないかなと思う人は多いのではないでしょうか。
もし何千年に一人の聖者が出れば、この願いに応えてくれるでしょう。その意味で、ブッダの時代は、タイミングよかったのだなぁとうらやましく思う次第です。

うまく説明になったでしょうか。

わたしの「もの」しか考えない唯物論者の説は、少し古いかもしれません(汗)。最近は、だいぶちがいますね。。少し新しい知識を仕入れることにします。


投稿 管理人エム | 2007/05/03 14:01

ご返事ありがとうございます。
だいぶ、話についていけなくなってまいりました(汗)。

>成道ののち、この段階、このタイミングで、梵天がでてきて法を説くように勧請するのは、世界がただ意識の流れであると見るとき、必然的なことなんだろうと思うのです。

これは私の理解をこえています。わかりませんでした(汗)。

経典では、simileは使うが、allegoryは使用しないというのは興味深かったです。修辞方法にも細心の注意が払われているのですね。

>1000人の弟子たちを前に山上にたったブッダが、「すべては燃えている」と述べたとき、やっぱりすべては煩悩の炎で燃えているのだとそのまま理解すべきだと思うのです。

これのお話をうかがったときは、不思議とわかったように思いました。燃えているんだ、そのまま受け取れ、といわれると、たしかに燃えています。allegoryではないです。

先生の「もの」しか考えない、というお話と唯物論はすこしずれているように思います。こういう話もありますし。

http://www.asahi.com/science/update/0422/JJT200704220005.html

唯物論というよりも、「もの」に都合のいいことしか考えない、という感じでしょうか。

『ブッダの実践心理学』第三巻はわたしも買って読んでいます。先生みたいに一気読みはとてもできず、ものの30頁も読んだら、頭がパンクしそうになります。
sannaとジャータカの話が興味深かったです。sannaの働きをもっていない、あるいはほとんどない生きものに、この世界はどういう風に見えるんだろう?そもそも生きていけるのだろうか?かえって、生きるのは楽なんじゃなかろうか?とか、sannaは自分で、あ、sannaが働いている、と判断できるのだろうか?とか考えてしまいます。
ジャータカも、物語というのはこういう風に使うのか、理論と文学の見事なコンビネーションだと驚きました。

>自利を優先させることによって利他を完成する
他方は、利他に徹することによって自利への道が開かれる

菩薩は虎に食べられながら、悟るのでしょうか?

西洋古代にもこんなかっこいいのないかな。ソクラテスが死刑直前にイソップ風の寓話を作ったという話はあるのですが、現存しておりません。うーん、残念。


投稿 カラスノエンドウ | 2007/05/03 10:56

muさま

そう言っていただけると、安堵です。
自分の書いたものは、客観視できないので、変だと思いだすとどこまでも変に見えるのが、怖いです。。。編集者の人が煩悶してるすがたが、浮かびます。。って、まずい。

> 地球は単一のマルチコアプロセッサマシンと解釈するなら世界も平和なのになーとか思いながら。。

これって、一切智者の観点かな!

投稿 管理人エム | 2007/05/03 09:51

管理人エム様。
おひさしぶりです。御著書が出版される事を
心待ちにしていますが、なかなか事情があるようで
これも楽しみの内か、、となど思っています。
地球は単一のマルチコアプロセッサマシンと解釈するなら世界も平和なのになーとか思いながら。。

投稿 mu | 2007/05/02 22:08

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